第4話 王女・夏凛(四)

「お父様っ!!」


 開いた扉の向こうに父の姿を目にした途端、夏凛は脱兎のごとく駆け出していた。


「おお、凛――また背が伸びたのではないか? ん?」


 賛は肉付きのいい頬をゆるませ、愛娘を抱きとめる。

 中庭に面した瀟洒な房室こべやは、永鵬宮えいほうきゅうに数多く存在する王の私室のひとつである。

 朝議を終えてひと休みしていた賛を、夏凛は前触れなく訪ったのだった。


「じつは私、さっきの朝議を見ていました。お父様、とっても素敵だったわ」

「そうだったのか。先に言ってくれれば、おまえのために席を用意したものを――」

「でも、お父様、なんだか疲れているみたい。理由はおっしゃらなくても分かっているわ。朱鉄が口答えをしたせいね」


 自分で口にしたその名前に、夏凛は思い出したように顔をしかめる。


「あいつ、家来のくせに生意気だわ。私が飛び出していって懲らしめてやろうかと思ったくらい」

「凛、そのようなことを他の者の前で言ってはならぬ。朱宰相は私の大切な家臣であり、我が成夏国にとってなによりの宝だ。彼がいなければ、この国は今ごろどうなっていたか知れないのだよ」

「でも、お父様が駄目だと言っているのに、あんなふうに食い下がって!! 何様のつもりなのかしら」

「王にとって直諫の臣ほど得難いものはない。凛にはまだ難しいかもしれないが……」


 賛は夏凛から視線を外すと、戸口に立ったままの李家の兄妹を手招きする。

 先だって人払いをさせているため、室内にはほかに誰もいない。


「李旺、李薛、そなたらも入って座りなさい。いま菓子を運ばせよう」

「おそれながら国王陛下、お気遣いは無用に願います」

「遠慮することはない。そなたらのことは私の子も同然に思っておるのだからな」


 全員が座についたところで、夏凛はおそるおそる切り出した。


「あのね、お父様。怒らないで聞いてくださる?」

「もちろんだ。なんでも言ってごらんなさい」

「私、朱鉄は好きじゃないけど、あいつの言うことも少しは分かるの。お父様は他の国に攻められても、いつも国境で追い返すだけでしょう? たまには相手の国に攻め込んでやっつけてしまえばいいのに……って」


 賛は一瞬驚いたような表情を浮かべたあと、夏凛に問うた。


「凛はそうすべきだと思うかね?」

「はい。朱英将軍は負け知らずだし、成夏国はとっても大きくて豊かなんだから、戦えばきっと勝てるはずよ」


 賛は腕を組み、目をつむってしばし考えにふける。

 やがて、薄目を開いた父王は、それまでとは打って変わって真剣な面持ちで愛娘を見据えた。


「たしかに他国に攻め入ることはたやすい。だが、我々が国境を越えて兵を進めれば、攻め込まれた側は死に物狂いで抵抗するだろう。そうなれば、こちらも無事では済まない。あるいは、その隙を突いて別の国がこちらに攻め込んでくるかもしれない……」

「守りが不安だとおっしゃるなら、軍には朱英のほかにも”四驍将しぎょうしょう”がいるわ。大将軍の柳機だってまだまだ元気であちこち駆けずり回っているじゃない」

「もし彼らのおかげで勝てたとしても、あとに残るのは多くの犠牲と、荒れ果てた国土だけだ。傷ついた国を元通りにするまでには何十年かかるか知れない。壊れたものは直せても、死んでいった者は二度と還ってはこない。……凛は、この成夏国がそうなるのを見たいかね?」

「それは――」


 言葉を失った夏凛に、賛はやさしく噛み含めるように語りかける。


「私は王として、この国に住むすべての人間に責任を持っている。不必要な戦のために守るべき国が疲弊し、民が困窮するようでは元も子もない。宰相の言うことも分からぬでもないが、しかし、これだけは譲れぬ。民の幸福に結びつかない外征は、私の目の黒いうちは何があろうと認めん」


 賛の言葉はこの上なく柔和でありながら、同時に悲壮なまでの決意に充ちている。

 一見すると凡庸なお人好しとしか見えないこの男の胸のうちには、たしかに一国を背負って立つだけの覚悟が根ざしている。いにしえの聖天子から代々の成夏王に脈々と受け継がれてきた、それはまぎれもない帝王の気骨であった。

 その静かな気迫に圧倒され、夏凛と李旺、薛の三人はただ黙って俯くことしか出来なかった。

 ふいに生じた気まずい沈黙に耐えかねたのは、当の賛自身だ。

 そんなときに女官が菓子盆を運んできたのは、まさしく渡りに舟というものだった。賛はほとんどひったくるように女官から盆を受け取ると、あわただしく三人に菓子を配りはじめる。なんともいえず滑稽なその姿には、王の威厳は欠片も見いだせない。


「さあさあ、食べなさい、食べなさい。もし足りなければおかわりもあるぞ。子供は遠慮などせぬものだ」


 そんな父の様子を見て、夏凛はおもわず吹き出していた。

 やがて黄昏の迫る房室に笑い声がひとつふたつと沸き起こり、一座はふたたび和やかな雰囲気に包まれていった。


***


「お父様のおっしゃっていたことも分かるけど――」


 永鵬殿から王族の宮殿へと戻る通路を歩きながら、夏凛はぽつりと呟いた。

 両脇には李旺と薛が付かず離れずの距離を保って随行している。

 すでに太陽は西の方にしずみ、王宮のそこかしこに設けられた燭台の炎が夜闇をやわらげている。ときおり風に乗って流れてくる独特なにおいと黒煙は、松脂が燃焼する際に生じる副産物だ。


「それにしたって、もうちょっと強気になってもいいんじゃないかと思うけど。お父様は優しすぎるのよ。ねえ、李旺もそう思わない?」

「私は……」


 なにかを言いさして、李旺はそこで言葉を切った。

 その先を口にすべきかどうかを心中で秤にかけているらしい。自分自身を落ち着かせるように深く息を吸い込んでから、李旺は訥々と語りはじめた。


「姫さまはご存じないかと思いますが、かつての成夏国の領土はいまよりずっと広大でした。そのころの話を、私は父上からよく聞かされました」

「……本当?」

「ええ――北は沙蘭国、南は海稜国と国境を接し、一時は華昌国の王都にまで兵を進めたこともあったと。いまから三十年近くも昔、国王陛下がまだお若かったころのことです。当時の陛下は柳機将軍に国軍を率いさせ、さかんに外征に打って出ていました。このあいだ姫さまと薛が武器庫で見たあの兵器も、往時の戦で使われていたものです」

「それなら、どうしていまは領土が小さくなってしまったの? 戦に負けてしまったから?」

「いいえ。……むしろ、その逆です」


 李旺は夏凛を見据えたまま、沈痛な面持ちで言葉を紡いでいく。


「順調に勝利を重ね、領土が大きくなるにつれて、成夏国は急速に衰退していったのです」

「ちょっと待ってちょうだい。そんなのおかしいわ。勝っているのに衰退するなんて、道理が通らないじゃないの」

「単純な合戦の勝ち負けだけでは計れないのが、国と国の戦というものです。前線に送る兵糧を確保するために各地の穀倉は底をつき、一家の働き手を失った村々では作物の収穫もままならない有様だったと聞いています。あのころの成夏国は、たとえるなら、自分の身体を喰らいながら戦っていたようなもの。……もしあのまま外征を続けていたなら、いまごろ姫さまも私たちもここにいなかったでしょう。陛下は天下の覇者になることを諦めるかわりに、成夏国を豊かで安定した国にすることをお選びになったのです」

「お父様が、そんなことを……」

「国王陛下は戦のなんたるかを誰よりも理解しておられます。かつての轍を踏むことなく、民のことをなによりも大切に考えてくださる。そのような主君にお仕え出来ることを、私は光栄に思います」


 言い終えて、李旺はそっとまぶたを閉じた。

 かつての戦で跡継ぎを失い、系譜が断絶した家は数知れない。

 代々軍人として王族に仕えてきた名門・李家もその一つだった。幼いころ他家から養子に迎え入れられた李旺は、のちに生まれた父の実娘である薛とのあいだに血の繋がりはない。李家の家督は、場つなぎの貰われ子にすぎない李旺を素通りして、いずれ薛の婿となる者が継ぐことになるはずだった。

 ともあれ、国王がいまだ外征を許さない理由には、そうして血筋を絶やしてしまった家臣たちへの後ろめたさもある。

 そのために国家の新陳代謝が促され、朱鉄・朱英兄弟のような血筋や家柄によらない人材に活躍の機会が巡ってきたのは皮肉といえた。

 それも結果論にすぎない。

 つかのまの勝利と引き換えに、かけがえのないものが失われていく……。

 戦えば戦うほど、描いていた理想は炎暑の地平に浮かんだ逃げ水のように遠ざかり、無益な破壊と死だけが果てしなく積み重なっていく……。

 昔日、勝者であるはずの国王・賛の胸に去来したであろう無常と苦衷を思うたび、李旺は言葉にしがたい心痛を覚えるのだった。


 それでも――。

 真に七国の覇者たることを志していたのなら、国王は屍山血河を築いてでも前に進むべきであった。

 侵略した土地から仮借ない略奪を行い、内外に膨大な死者を出しても外征を続けていれば、あるいは長年の宿敵である華昌国を滅亡に追いやることも出来ただろう。

 荒れ果てた国土をかえりみず、山野を埋め尽くした幾千万もの死骸を踏み越えていく強さをそなえた者が覇者であるとすれば、しょせん賛はその器ではなかった。

 どれほど高邁な理想を掲げ、美辞麗句で大義を飾ろうとも、覇道とは血と憎悪で塗り固められた酸鼻なみちの異名でしかないのだから。

 成夏国の臣民にも、国王の対外政策の転換を快く思っていない者は少なからず存在する。

 とくに外征で生命を落とした将兵の遺族は、血の涙を飲む思いでこの三十年を過ごしてきたはずであった。死者の魂を慰める唯一の手立ては勝利であり、断じて平和などではないのだ。

 華昌国王が何度撃退されても成夏国への侵攻を諦めないのは、そうした人心の機微を知悉しているがゆえであり、そこが賛と他国の王との決定的な違いでもあった。

 だが、たとえそのとおりだとしても、民を思うがゆえに野望を棄て去った国王を否定することは、李旺にはどうしても出来なかった。

 

「ねえ、李旺。やっぱりお父様はいい王様だわ。私、ほんの少しでも朱鉄と同じように考えてしまった自分が恥ずかしい」

「朱宰相も国のことを思っているのは陛下と同じです。かならずしも主君と同じ意見を持つ家臣がよい家臣とは限らないものですよ」

「そういうものかしら?」

「聡明な姫さまなら、いつかきっとお分かりになるはずです」


 満足気に相好を崩した夏凛は、次の瞬間には李旺の右腕に抱きついていた。

 不意打ちを食らった格好の李旺だが、それでもかろうじて身体の均衡バランスを崩さなかったのは、日頃からおのれに課している鍛錬の賜物であった。


「姫さま、なにを――!?」

「この道は足元が暗くて危ないわ。転んで怪我しないように、しっかり私のことを支えていてちょうだい。薛、あなたは左手を使うといいわ」

「よろしいのですか? 姫さま? 兄上?」

「もちろんよ。ね?」


 相変わらず勝手気ままな夏凛のふるまいに、李旺は根負けしたようにため息をつく。

 そして、精悍な顔容かおにやわらかな笑みを浮かべると、


「……仕方ありません。ですが、女官長に見つかる前に離れていただきます。いいですね? 姫さま」

「ええ。だから、それまではこのままでいさせて」


 ぴったりと寄り添うようにして、三人は薄暗い道を進んでいく。


――こんなやさしく幸せな時間が、これからも幾久しく続けばいい。


 そう願ったのは、誰の心だったのか。

 王都に宵の帳が下りる。ひそかでささやかな想いを包むように、秋の夜はゆっくりと暮れていった。

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