第3話 王女・夏凛(三)

 秋の陽が広壮な空間をまだらに照らしていた。

 等間隔に配された朱塗りの太い柱は、宮闕きゅうけつにふさわしい威厳を空間に与えている。

 最奥にあるきざはしの上端に目を向ければ、色とりどりの宝玉に彩られた絢爛な玉座が室内を見下ろしている。

 王都・成陽は、成夏国の政治と文化の中心である。

 さらにその心臓とも言うべき場所が、この永鵬殿えいほうでんだった。

 肇国の昔、この地に舞い降りた一羽のおおとりにちなんで名付けられた大宮殿は、国王の住まいであると同時に、南面して政務を執り行う場でもある。王の妻子が起居する左右の宮殿とあわせて、その威容は大地に両翼を広げた鵬を想起させた。

 いま、永鵬殿の大広間には成夏国の文武百官が参集し、いまやおそしと朝議の開始を待ちわびている。

 臣下だけではない。

 玉座から彼らを睥睨する国王もまた、が訪れるのをまんじりともせず待っているのだ。


 名を、夏賛かさんという。

 つい先日、五十歳になったばかりの成夏国王は、玉座の上で所在なさげに長い口髭を弄っている。

 小太りの男である。

 その視線に鋭さはなく、帝王らしく他を圧倒する覇気を漂わせている訳でもない。

 深緋の絹地に金の刺繍が施された豪奢な龍袍きもの冕冠べんかんを身につけ、玉座に腰掛けていなければ、とても一国の君主にはみえない。

 直截な表現を用いるなら、せいぜいが商家の旦那といった風情の平凡な中年男だ。その風貌の置き場ならば、贅を凝らした玉座よりも、店先の縁台のほうがよほど似つかわしい。町人を相手に揉み手をしながら筵や草履をひさげば、さぞになることだろう。

 居並ぶ群臣百官もそれを薄々感じながら、しかし、表立って口にする者は誰もいない。

 王族の地位を担保するのは血筋がすべてである。

 見た目や能力がどうであれ、最も尊貴な血を引く者が王に推戴される。

 聖天子の末裔であるというだけで、目の前の冴えない男がこの国に君臨する理由としては十分なのだ。

 むろん、この広い廟堂には、まったく異なる見方をしている者もいないではない。


 

「お父様ってば、いつ見ても立派でいらっしゃるわ――」


 玉座の父を眺めながら、夏凛はおもわず感嘆のため息を漏らす。

 うっとりとした表情は、上辺だけのお世辞や身内びいきなどではなく、心底から”かっこいい”と思っていなければ、とても出来るものではない。


「薛もそう思うでしょう? ねえ?」

「え、ええ……とっても徳のあるお顔立ちをなさっていると思います」


 まさか本心を口にすることなど出来るはずもなく、薛はあいまいな微笑みを浮かべるばかりだった。

 夏凛の近習きんじゅである薛は、幼いころから何度となく国王の顔を見、しばしば労いの言葉をかけられたこともあるが、一度として王の威厳といったものを感じたことはないのである。

 人の好いおじさん――言ってしまえば、国王・賛に対する印象はそれに尽きる。

 国王に対してそのような印象を抱いているとは、王女である夏凛はむろん、隣に座っている兄・李旺にも言えないことであった。

 その李旺はといえば、はしゃぐ夏凛のそばにそっと歩み出ると、声を潜めて言った。


「姫さま、ここは神聖な朝議の場です。くれぐれも自重なさってください」

「そのくらい言われなくても分かっているわよ、李旺」


 予期せぬ接近に多少声をうわずらせながら、夏凛はぷいと顔を横に向ける。 

 三人が肩を寄せ合うように身を置いているのは、大広間の一角に設けられた隠し部屋だ。

 本来は近衛兵の待機場所であるそこからは、はめ殺しの格子窓を通して室内を見渡すことが出来る。ひとたび玉座に変事が起こったなら、十数人からの近衛兵が一斉に小部屋を飛び出し、国王を危険から守るのである。

 もっとも、それも他国の使者が国王に謁見する場合に限ってのことだ。

 成夏国の身内だけで執り行われる朝議の際には、せいぜい一人か二人の近衛兵が形式的に待機することになっている。

 夏凛と薛は、近衛兵の副長としてもともとここに詰めるはずだった李旺の、言うなればである。


――私も今日の朝議を見学したい。


 つい先刻、夏凛が前触れもなくそう言い出したとき、周囲の大人たちは一様に腰を抜かしかけた。

 遊びと食べることにしか興味がないと思われていた王の末娘が、まさか政治の場に関心を向けるとは夢にも思わなかったのだ。

 熱でもあるのではないかと訝っても、王女は常と変わらず血色もよく、健康そのものである。


――国王陛下のお仕事を学ぶのも王族の大事な務めです。そう思わなくて?


 そう言われては、大人たちはぐうの音も出ない。

 ただひとり、女官長だけは夏凛の腹の底になにか別の意図があることを見抜いていたようだったが、あえて反対することもなかった。たとえ何を企んでいたとしても、日頃の勝手気ままなふるまいを考えれば、行き先を告げてくれるだけ幾分ましというものであった。

 結局、李旺と薛がお目付け役につくことを条件に、朝議の見学は許可されたのだった。


「ねえ李旺、剣貸してっ」

「……何に使うおつもりです?」

「決まっているわ。朱鉄がお父様に失礼な口を利いたら斬るのよ」


 佩剣の柄に抜け目なく伸びた夏凛の手をやんわりと押しのけながら、李旺は呆れたように首を振る。


「いいですか、姫さま。私たち近衛兵は国王陛下と群臣がたを危険から守るためにここにいるのです。刺客に手を貸しては本末転倒というものです」

「失礼ね。私は刺客じゃないわ。お父様を悪いヤツからお守りするのよ!!」

「同じことです――」


 不服げに柳眉を逆立てる夏凛をよそに、李旺は格子窓の外にすばやく視線を走らせていた。

 大広間の雰囲気が先ほどまでとは一変したことを感じ取ったためだ。


「お静かに。朝議が始まりますよ」


***


「朱宰相、ご登殿――!!」


 廷吏が大音声を張り上げたのと、百官がざあっと左右に割れたのは、どちらが早かったのか。

 敬意というよりはむしろ、ふいに姿を見せた危険な獣を恐れるような動作であった。

 並み居る群臣のあいだを悠然と進んでいくのは、しかし、獣とは真反対の美しい青年だった。

 今年で三十六歳になる朱鉄は、どのような養生法によるものか、二十代のころと変わらない麗姿を保ち続けている。

 その卓抜した手腕と栄達ぶりを快く思わない者のなかには、夜ごと生娘の血をすすって若さを維持しているのだと噂する者さえいるほどであった。

 そんな根も葉もない陰口も、当人を前にしては、にわかに信憑性を帯びる。

 それほど魔性めいた美貌の持ち主なのだ。

 東方に生まれた人間にはめずらしいくっきりとした目鼻立ちと、切れ長の双眸がひときわ目を引く。深い琥珀色を湛えた瞳は妖しいほどになまめかしく、ひとたび眼差しを向けられたなら、女ならずとも腰砕けになるにちがいない。

 しなやかな長身を包む朝服の丹色にいろは、成夏国の格式において国王の深緋に次ぐ高貴な色とされている。有司百官のなかで唯一、国王の片腕である大宰相だけが身につけることを許された特別な色であった。

 文字通り群臣の頂点に立つ男は、古来の慣習ならわしどおり最後に到着し、国王のきざはしに最も近い場所にひれ伏した。

 夏賛はいかにも大儀そうに頷くと、床につかんばかりに顔を伏せた朱鉄に声をかける。


「来たか、我が股肱よ」

「朱憲伯、御命により罷り越しました。畏れ多くも国王陛下の御尊顔を拝し、恐悦至極に奉ります」

「挨拶はその程度でかまわぬ。おもてを挙げるがいい」


 ややあって、朱鉄はゆったりと上体を起こした。

 ともすればもどかしいほどに緩慢な挙措。

 許されたからといって、貴人にたいして即座に面を上げては非礼にあたる――これもまた古式の作法であった。


「朝議の開始にあたり、まずは北方の戦況を報告申し上げます」

「うむ」

「先ごろ華昌国の侵略を受けた北方の六郡のうち、すでに五郡までは我が軍が奪還に成功しております。敵の主力部隊は雫河れいがのほとりまで撤退しつつあり、目下、朱英将軍と”四驍将”が各地で残敵の追討に当たっております」


 朱鉄は深く息を吸い込むと、意を決したように言葉を継いでいく。


「国王陛下にはさらに三万の兵士を将軍のもとに送り、国境を越えて敵を追撃することを許可願いたく……」

「朱宰相、それはならぬ」

「――」

「国境を超えることはまかりならぬ。華昌国の兵が雫河を渡ったのを確かめ次第、将軍らを引き上げさせよ」


 進言を却下されても、朱鉄は眉一つ動かさない。

 ふたたび仮面を貼り付けたような顔を伏せ、あくまで慇懃に反駁を試みる。


「お言葉なれど、いまは華昌国に痛手を与えるまたとない好機にございます。華昌王・せいは貪婪にして、その本性は豺狼のごとき奸邪の輩。みすみすこの機を逃せば、の国はいずれふたたび我が成夏国の領土を侵すのは必定です。天下の静寧のため、なにとぞ華昌国征伐のご下知を賜りたく――」

「華昌国は大国である。攻め入ったところで、我が国の兵をいたずらに損なうだけであろう」

「ならば、せめて我が義弟・朱英の軍だけでも行かせてください」


 朱鉄は平伏したまま、なおも食い下がる。


「英は若輩といえども、戦場で兵馬を用いさせれば右に出る者はおりません。かならずや敵を大破し、陛下に吉報をもたらしてくれましょう」

「朱宰相、どれほど言葉を重ねても私の意見は変わらぬ。華昌国がふたたび攻め寄せるというなら、そのときはまた退ければよいだけのこと。国境の戦に勝ったからといって、それ以上の深追いはならん」


 そのとき、朱鉄はどんな表情を浮かべていたのか。

 国王の足下に額づいた姿からは、何の感情も読み取ることは出来なかった。

 朱鉄も人の子である以上、その心中は穏やかではないはずだ。

 百官のあいだににわかに緊張が高まっていく。いかに赫赫たる功績がある大宰相といえども、これ以上国王の意向に逆らえば、その地位は安泰ではない。

 わずかな沈黙のあと、朱英は抑揚の乏しい声で応じた。


「ご叡慮、しかと承りました。――」

「国境には必要なだけの守兵を残し、朱英将軍らはただちに王都に帰還させるがよい。しかるのち部隊を解散し、徴募した兵士は褒美を与えたうえでそれぞれの故郷に帰すように」

「御意」


 ゆるゆると持ち上がった朱鉄の顔には、なんらの憾みの色も浮かんではいなかった。

 国王に対する深い失望も、成夏国くにの行く末への不安も、けっして他人の前で顕わにすることはない。

 すべての情念を胸のうち深くに飲み下して、鉄面のごとき無表情で国家と主君にひたむきな忠誠を捧げる。

 十三年前、地方から招聘されてはじめて王宮に参内さんだいしたときから何も変わっていない。それが朱鉄という男だった。


 その後の朝議は大過なく進んでいった。

 朱鉄が国内のさまざまな問題に関する報告を行い、国王はその一つひとつに裁可を与える。

 ときおり国王から予期せぬ質問を向けられても、朱鉄はけっして動じることなく、的確な答えを返していく。

 この天与の賢才に恵まれた大宰相は、国王が疑問を抱くであろう事項をあらかじめ予想し、そのすべてに納得の行く答えを用意してから朝議に臨んでいる。かつて若干十四歳で最難関の官吏登用試験に及第した俊才にとって、その程度の芸当は造作もないことであった。

 北方の戦を巡る一瞬の緊張が嘘であったかのように、国王と朱鉄は水と魚のごとく相和してまつりごとに取り組んでいる。

 ようやくすべての議題が片付いたとき、日差しは早くも黄昏の色を帯び始めていた。

 成夏国の定例の朝議は、こうして幕を閉じたのだった。

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