第2話 王女・夏凛(二)

 かつて、大陸東方には偉大な王がいた。

 大小の部族の頂点に立った王は、あまねく四海に法を敷き、天下万民のために私心なきまつりごとを執り行った。

 絶えまない戦乱と苛政にあえいでいた東方の民にとって、その施政は干天に降り注いだ慈雨にほかならなかった。

 まさしく天が人の世に遣わした王であるとして、彼はいつしか聖天子と呼ばれるようになった。


 さて、聖天子には九人の子があった。

 彼らはいずれも聡明で仁愛に富み、民を慈しむ善良な性質を父から受け継いでいた。

 長兄から末弟に至るまで、その全員が聖天子の後継者として申し分のない傑物であったと言ってよい。

 すぐれた器量を備えた九人兄弟は、国にさらなる繁栄をもたらす一方、父親である聖天子に跡継ぎを決定することを躊躇させる要因にもなった。

 やがておのれの命数が尽きることを悟った聖天子は、国を九つの地方に分け、子らに一つずつ分け与えることを選んだのだった。

 兄弟による各地方の分割統治――九人の王が平等に並び立つ

 すくなくとも、その時点では最も公平で賢明な選択であるはずだった。


 それから七百年あまりの日月じつげつが流れた。

 九国が平和のうちに共存した最初の百年あまりは、歴史のなかに一瞬あらわれた奇跡と言うべきであろう。

 聖天子の御世みよが遠ざかるにつれて、盤石と思われた兄弟の結束は次第に風化していった。

 本来であれば九人の子孫が手を取り合って治めるべき国は、天下という甘美な権力の器に成り果てた。聖天子が世を去ったあと、玉座はもはや覇権の象徴以外のなんらの意味も持たなかった。

 しょせん人間は他者を見下し、蹴落とし、利益を独占するように宿命づけられた生物である。

 人の血は、気高く神聖な血を侵し、代を重ねるごとにその性状を人本来の色に塗りつぶしていった。

 そこに巧言令色をもって君主に取り入る佞臣ねいしんや、私欲にまみれた汚吏どもが加われば、もはや政治の堕落は避けようもない。

 いつしか国々が憎しみ合い、互いに血で血を洗う戦争に明け暮れるようになったのは、当然の帰結といえた。

 終わりの見えない戦乱の末に九国のうち二国はすでに滅び去り、現存する国家は七つ。


 すなわち、

 

 成夏せいか

 華昌かしょう

 鳳苑ほうえん

 海稜かいりょう

 玄武げんぶ

 沙蘭さらん

 延黎えんれい


 である。


 なかでも肥沃で人口稠密ちゅうみつな土地を与えられた成夏・華昌・鳳苑の三国はみずから「中原」と称し、その国勢は実際に東西南北の各辺境に位置する沙蘭・海稜・玄武・延黎といった国々をはるかにしのいでいる。

 覇権は七国のあいだで揺れ続けている。

 どの国もそれを目指しながら、しかし東方を統べる絶対の覇者はいまだ現れていない。いまなお天地にただよう聖天子の遺志が、一強の出現をかたくなに妨げているようであった。

 ときに烈しく干戈を交え、ときに合従連衡を繰り返しながら、七国はいつ終わるともしれない乱世の只中にある。

 そんな時代、夏凛は成夏王国の第十九代の王・賛の末娘として、王都・成陽で産声を上げた。

 それから、十二年――。

 成夏国は、天紀てんき七六八年の秋を迎えようとしている。


***


 夏凛は薄いもやのなかを漂っていた。

 ぬるい湯のなかにいるような感覚。

 天も地も溶け合い、まじりあって、その輪郭はもはや見いだせない。

 そんな夢と現実うつつの境界は、いつまでも浸っていたくなる心地よさに満ちている。

 なにもかもが曖昧で不確かなまどろみのなか、どこからか呼び声が聞こえた。


「姫さま、姫さま――」


 せつの声であった。


「いまは喬老師せんせいの講義中ですよ。お目覚めになってください」

「んん……大丈夫……ちゃんと食べたから……」

「ぜんぜん大丈夫じゃないです!!」


 薛は夏凛の肩を前後に揺さぶるが、姫君の意識は半ばまで夢の世界に留まり続けている。


「ほっほっほ、気持ちよくお休みになっていたようですな」


 二人のやりとりを壇上から見ていた白髪白髯の老碩学は、呵々とひょうげた笑い声を上げた

 今年で齢七十三になる喬子雲きょうしうんは、成夏国随一の賢人として天下に知られた人物である。

 古今の歴史と文学に通暁するだけでなく、浩瀚な知識は兵学や医学といった分野にまで及んでいる。その頭脳には一国分の蔵書が詰め込まれているという世間の評判も、あながち大げさな表現ではないのだ。

 その謦咳けいがいに接することは学問を志す者にとってなによりの憧れであり、成陽の市中でいとなむ私塾には国内外からの入門希望者が引きも切らない。

 塾生にみずから教授する傍ら、こうして定期的に王宮に赴き、王族の子弟に進講を行っているのだった。


「王女殿下にはちと退屈な話でしたかな」

「ううん……寝てない……ちゃんと聴いてたわ……」

「ふむ――では、いにしえの聖天子が子どもたちに与えたのはなにか、お答え願えますか?」

「……つきたてのお餅? あったかくて、ふわふわの……」


 喬子雲は糸のように細い目を見開き、我が意を得たりとばかりにぽんと手を打つ。


「いやはや、これは当たらずしも遠からず――姫さまはまったく聡明であらせられることよ」


 夏凛は寝ぼけまなこをこすりながら、どうやら老師せんせいに褒められたらしいことだけは理解して、にへらと得意げな笑みを浮かべたのだった。


「今日の講義はこのあたりにしておきましょう。この続きはまた来週です。王女殿下、夜更かしはほどほどになされませよ」


 弟子とおぼしき少年に付き添われて王宮を出る老師を見送りながら、夏凛の意識はふたたびまどろみのなかに沈んでいった。


***


「ふわあぁ――」


 誰憚ることなく大あくびを放った夏凛の口を覆うために、薛はあわてて手を差し出す。


「姫さま、そのように大きな口を開けては……」

「薛、あなた口を閉じてあくび出来るの? よっぽど不気味よ、それ」


 講義を終えた夏凛と薛は、宮殿の私室で一休みしているところだった。

 夏凛にしてみればとでも言ったところだが、側仕えの者がそのようなことを指摘出来るはずもない。王の末娘の日々は万事この調子であった。


「それにしても、今日はいい天気ね。眠くなるのも仕方ないわ」


 言って、夏凛と薛はさんさんと陽光の降り注ぐ縁側テラスに出る。

 宮殿を囲むように巡らされた車道を、一両の馬車が馳駆していったのはそのときだった。

 国王が用いる馬車には及ばぬものの、威風堂々たる外観は、それが特別な人間のためにしつらえられた乗り物であることを雄弁に物語っている。


「ねえ薛、さっきの車……」

「朱宰相の車ですね。今日は国王様の御前で朝議があると兄上がおっしゃっていました」

「ふうん……」


 その名を耳にした途端、夏凛はいかにも不満げに眉をひそめた。


 朱鉄。あざなは憲伯。

 成夏国の大宰相であり、この国の政治の実権を握っている男。

 まだ三十代の半ばという若さにもかかわらず、その辣腕ぶりを見出され、地方官から国政の中枢に抜擢された俊才である。現在の成夏国がまがりなりにも中原の大国として繁栄を謳歌しているのは、この男の存在によるものと言っても過言ではない。

 もし朱鉄がいなければ、たびたび他国の侵攻を受け、飢饉や天災に見舞われてきた成夏国は、見る影もなく荒廃していたはずであった。


「……私、朱鉄あいつあんまり好きじゃない」

「姫さま、高貴な方が家臣の好き嫌いを公言なさってはいけません。喬老師も貴人は万人に懸け隔てなく接しなければならないと――」

「だって、本当のことなんだから仕方ないでしょう」


 夏凛はふんと鼻を鳴らし、拗ねたように唇を尖らせる。


「ねえ、薛。お父様は朝議が終わるといつも疲れた顔をなさっているわ。きっと朱鉄にひどいことを言われて虐められているのよ。お父様は成夏国このくにで一番偉い方なのに、許せない」

「でも、大人はみんな朱宰相はとても立派な方だと……」

「そうだとしても、私はキライなのっ!!」


 同意しようとしない薛に腹を立てたのか、夏凛はこれみよがしに頬をふくらませる。


「ああ、でも、義弟おとうとの朱英将軍は好きよ。朱鉄とちがって意地悪そうな顔してないし、それに李旺の武術の師匠だものね」


 朱英は朱鉄の妹婿であり、やはりまだ三十にも満たない若者だが、成夏国軍でも指折りの名将として知られている人物である。

 隣国との合戦では連戦連勝、向かうところの敵なしの勇名は、いまや国じゅうの老若男女に膾炙している。

 いったい誰が言い出したのか、この兄弟は『成夏国の二珠にしゅ』とも呼ばれている。口さがない他国人は、しばしば『成夏王に過ぎたるもの』という枕詞をそえて。


「薛、せっかくだし私たちも見に行ってみない?」

「何をですか?」

「決まってるじゃない。朝議よ。もし朱鉄がお父様にひどいことを言ってたら、私がおもいっきり叱りつけてやるわ」

「そんなことをしたら、また兄上や女官長に叱られますよ!!」


 想定通りの反応を示した薛に、夏凛は待っていましたとばかりに不敵な笑みを浮かべる。

 そのまま薛の顔に自分の顔を近づけると、ひっそりと耳打ちをしたのだった。

 

「私にいい考えがあるの。何も心配せずに任せておきなさい」

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