緋翼の姫君 -Wandering Princess-

ささはらゆき

第一章 王宮編

第1話 王女・夏凛(一)

 朝の陽光が剣をきらめかせていた。

 みごとな長剣であった。

 淡い日差しは抜き身の刀身に触れたとたんに光の粒となって弾け、あとには濡れたような艶やかさだけが残る。

 刻々と変わっていくその様子を矯めつ眇めつしながら、少女はほうとため息をついた。

 大きく見開かれた黒い瞳は、好奇心と興奮とでらんらんと輝いている。


「きれい――」


 ほとんど無意識のうちに口にした感嘆の言葉は、しかし、傍らの少女にはおよそ理解しがたいものであったらしい。

 まだ幼さの残る顔を恐怖にこわばらせながら、脇から剣把におそるおそる手を伸ばす。

 それは剣の重みを支えるためでもあり、不意の動作を制するためでもあった。


夏凛かりんさま、あまりお顔を近づけては危のうございます」

「ちっとも危なくなんてないわ。あなたも持ってみる?」

「いいえ、私は――」


 夏凛と呼ばれた少女は、ふっと相好を崩す。花がほころんだような笑顔であった。


「もちろん冗談よ。それにしても、せつは臆病ね。李旺はあんなに剣の扱いが上手なのに」

「兄上は特別です。とても真似は出来ません」

「そうかしら?」


 いたずらっぽい笑みを浮かべたまま、夏凛は長剣を高く掲げてみせる。

 そして、ふたたび差し伸ばされた薛の手を振り切って、


「私ね、毎朝寝所から近衛兵の調練を眺めてるのよ。本当の剣を持ったことはないけど、扱い方は分かっているわ。あなたの兄上は、いつもこんな、ふう、に……」


 得意げな言葉に合わせるように、犀利な剣尖けんせんはさらに頭上高くへと持ち上がっていく。

 細身の剣とはいえ、いま夏凛が手にしているのは正真正銘の真剣である。人を殺傷するだけの威力を秘めた武器は、少女の腕力で自在に操れるほど軽くはない。

 はたして、均衡バランスを崩した夏凛は、おおきく後方にのけぞった。


「姫さまっ!!」


 薛が悲鳴を上げたときには、夏凛は派手に尻もちをついていた。

 夏凛の手を離れた剣は、そのまま近くの柱に突き刺さり、刀身には相変わらず美しい光の綾目が揺れている。

 あわやというところで難を逃れた当の本人は、きょとんとした面持ちでその光景を見つめるばかりだった。


「姫さま、お怪我は!?」

「平気、平気……ちょっとお尻が痛いけど」


 乱れた襦裙ドレスを直しながら、夏凛は照れくさそうにはにかむ。


「それより薛、あんまり大声を出してはだめよ。私たちがここにいることが知られたらどうするの?」

「そろそろ戻りましょう。あまり遅くなっては、女官長に気づかれてしまいます」

「もう手遅れよ」


 夏凛はこともなげに言うと、


「いい機会だわ。どうせ叱られるのなら、今日はめいっぱい探検しましょう? もしかしたら、この場所には二度と入れないかもしれないもの」


 呆然と立ち尽くす薛に背を向けて、薄暗い武器庫の奥へとさっさと駆け出していた。


***


 その日――。

 ただでさえあわただしい朝の王宮は、に包まれていた。

 一群の女官が渡り廊下をしずしずと進んでいく。遠目には貴人の側仕えらしい雅やかな立ちふるまいとしか見えない。

 それも当然だ。

 幼い頃から骨の髄まで宮廷女官としての作法マナーを叩き込まれた彼女たちは、どのような事態が出来しゅったいしようとも、決してスカートをからげて宮中を駆けずり回ったり、ましてや狼狽を表情に出すことはない。

 


「姫さまは見つかりましたか?」


 ふいに背後から声をかけられて、女官たちは示し合わせたみたいにぴたりと足を止めた。

 そのまま身体をくるりと旋回させ、ゆっくりと一揖いちゆうする。一糸乱れぬ挙動であった。


「いいえ。こちらにはおられないようです」


 努めて冷静さを装ってはいるものの、女官たちの声はわずかに震え、うわずっている。


「左様ですか――」


 一方、応じた声には何らの感情も顕れていなかった。

 まだ若い女官たちと、すでに三十年あまり宮中に仕えている女官長の経験の差だ。

 深い年輪が刻まれた顔貌かおは、木彫りの面みたいに無表情を保っている。


「あなたたちは宝物庫のあたりを探してみなさい。私は書庫を探します」

「女官長、まさか姫さまは宮殿の外に出られたのでは……?」

せつがついているなら、その心配はありません。身体を張ってでもお止めするよう言いつけてあります」


 きっぱりと言い切って、女官長はふっと息を吐く。

 呼吸というなにげない所作。そこに秘められた焦燥は、当人以外には読み取れるはずもない。

 実際のところ、長年王族に仕えてきた女官長も、王の末娘である夏凛にはほとほと手を焼いている。

 およそ王女らしからぬ振る舞いに日々翻弄され、気苦労のあまり宮廷薬師くすしに胃薬を処方してもらっているのは、他人にはけっして口外出来ない秘密だった。


「姫さまにも困ったものです。十二歳ともなれば、婚約者を決めねばならない年頃だというのに……」


 女官たちの視線が一点を向いたのはそのときだった。

 渡り廊下のむこうから、淡褐色の軍袍をまとった青年が近づいてくる。

 年の頃はまだ十七、八といったところ。しなやかな身体つきと端正な面立ちの美丈夫であった。

 戛然と響いていた足音が熄んだ。一瞬の静寂を挟んで、先に口を開いたのは女官長だ。


「これは、李旺どの……」

「先ほどからあちこちを探し回っておられるご様子。なにかお困りのことでも?」

「じつは……」


 わずかな逡巡を飲み込んで、女官長はこれまでのいきさつを語りはじめた。


「なるほど。今朝がたから夏凛さまの姿が見えない、と」

「近衛兵の副長である貴殿あなたのお力を借りるのは心苦しいかぎりですが……」

「王族がたをお守りするのが我々の使命です。なにより、我が妹がついていながら姫さまをお諌め出来なかったのであれば、李家の面目に関わることでもあります」


 しばらく腕を組んで沈思していた李旺だが、やがてはたと思い立ったように一歩を踏み出していた。


「李旺どの、心当たりがあるのですか?」

「確証はありません。しかし、姫さまが近ごろ興味をお持ちになっていたことなら分かります」


 精悍な面差しにやわらかな微笑みを浮かべ、李旺は自信ありげに言った。

 自分を見つめている女官たちの頬に差した薄朱色うすあけいろに気づいているのかいないのか、


「どうかここは私に任せていただきたい。かならず姫さまを見つけてお連れします」


 それだけ言って、青年は足早にその場を離れていった。


***


「ねえ、薛! 見て! 見て!」


 夏凛は兜をかぶり、薛にむかってぶんぶんと手を振ってみせる。


「どう? 強そうでしょう?」

「姫さま、そのようなものを被ってはいけません。見つかったら怒られてしまいます」

「大丈夫、もとに戻しておけば分からないわ」


 その言葉とは裏腹に、夏凛は兜をかぶったまま、ふたたび武器庫の探索を始めていた。


「薛は剣や鎧は嫌い?」

「私は……よく分かりません。父様や兄上には女子おなごの触るものではないと言われました」

「ふうん――」


 夏凛は面白くないというように鼻を鳴らす。


「私は好きよ。琴や書を習うよりも、剣術や馬の乗り方を教わりたい。そうだ、こんど李旺に頼んでみようかしら?」

「姫さまは……夏凛さまは、成夏国の王女殿下です」


 つぶやくような薛の言葉に、夏凛はそれきり黙り込む。

 皆まで言わずとも、薛の言わんとすることはあきらかだった。


 この時代、王室に生まれた女子の役目はひとつしかない。

 他国の王室、あるいは国内の貴族に嫁ぎ、王家の血を残すこと。

 成夏国をふくむ東方七国において、それは高貴な血を引く女が社稷しゃしょくのために出来る唯一の貢献と信じられている。

 求められるのは良き妻、賢き母としての資質であり、剣術や乗馬といった野蛮な技術はそれから最も遠いものだ。

 夫の庇護なしでは一日とて生きられないなよやかで従順な妻。物言わぬ人形にも似た貞淑な貴婦人。

 生まれ持った性質や才能にかかわらず、宮廷の女子教育が理想とする人物像は畢竟そこに行き着くのだった。


「私、やっぱり変なのかしら――」


 夏凛はさびしげに言って、兜を脱いだ。

 顔にかかった黒髪を払うこともせず、近くの壁に背をもたせかかる。


「おかしいのは分かっているわ。男でもないのに剣が好きなんて。間違って女に生まれてしまったみたい」

「そんなことはありません!! 姫さまは亡くなった前王妃おきさきさまに似てとてもお美しくあられます。お肌は玉のように白くてなめらかですし、おぐしは漆よりもつややかでいらっしゃいます。こうしてお仕え出来ることは、私にとって何よりの光栄です」

「本当?」

「薛は嘘は申しません!!」


 ふだんの引っ込み思案もどこへやら、鼻息も荒くまくしたてる従者に、夏凛はこらえきれずに忍び笑いをもらす。


「ありがとう。私も薛と一緒にいられて幸せよ」

「姫さま……」

「だから、今日はとことん付き合ってもらうわ」


 問い返す暇も与えず、夏凛は薛の手を引いてずんずんと武器庫の奥へと突き進む。

 通路を挟んで設置された棚には、刀剣や槍だけでなく、弓やいしゆみといった兵器類が所狭しと並べられている。

 やがて、甲冑が整然と並ぶ一角を抜けたところで、二人はふと足を止めた。


「なにかしら、これ――」


 夏凛の目の前には、四隅に車輪のついた箱のようなものが置かれている。

 高さは大人の背丈ほどもある。二人の少女にとって、それは生まれて初めて目にする物体だった。


「車? それにしては、人が乗る場所が見たらないけれど」

「姫さま、得体の知れないものに触ってはいけません。もしお怪我をなさったら……」

「すこし見るだけよ」


 言って、夏凛は興味津々といった様子で箱の周りを調べはじめた。 

 薛もあわててその後を追いかける。


「何に使うのか見当もつかないわ。武器庫ここにあるということは、いくさの道具なんだろうけど――」


 いい加減に諦めかけたところで、箱の一面にたてかけられた梯子が目に止まった。

 薛の制止も聞かず、夏凛はさっさと梯子を登っていく。


「なに? これ?」 


 箱の上面は大きく開いていた。

 より正確に言うなら、巨大な板が四面にかけられているのだ。内部にあるものを隠すためであることは言うまでもない。

 いま、夏凛の眼下には、大小の歯車や綱が複雑に絡み合った器械がひっそりと横たわっている。

 その正体がかつて他国との戦争に使われた攻城用の大型投石機であることは、むろん夏凛には知る由もないことだった。

 夏凛を追ってきた薛は、暗闇に横たわった巨獣を彷彿させるを見て、ちいさく悲鳴を上げた。


「姫さま、私、怖いです。早くここから離れましょう」

「せっかくここまで来たんだから、もうちょっとだけ……あっ!!」


 夏凛の目の前で薛は板のへりをすべり落ち、器械の内側へと落下していった。


「薛っ!!」

「私は大丈夫です。姫さまはそこにいてください。けっして降りてはいけません」


 けなげな声をかき消すように、がちり――と耳障りな音が生じた。

 どこかで滑車が回りはじめたのだ。

 複雑巧妙な機構からくりは、長い年月を経ても機能を喪ってはいなかった。

 内部で絡み合った無数の綱と糸、そして強力なばね仕掛けのうちにひそかに駆動力を蓄えたまま、かりそめの眠りに就いたにすぎない。

 ふいに外部から衝撃を与えられたことで、巨大な兵器は予期せず息を吹き返したのだった。

 もっとも、ここには敵の城塞に投じるべき石はない。滑車はむなしく回転し、やがて停止するはずだった。


 と、薛の身体がおおきく沈んだ。

 足元の滑車がスカートの裾を巻き込み、飲み込もうとしているのだ。

 駆動力の残滓のこりかすにすぎないとはいえ、数百キロから一トンもの岩石を飛ばす力を秘めた兵器である。

 停止するまでのわずかなあいだに華奢な少女一人を噛み砕く程度は造作もない。


「薛、いま助けるから!!」

「姫さまは来てはなりません!!」


 悲痛な叫び声が夏凛の耳を打った。


「いま手を伸ばしたら、姫さままで巻き込まれてしまいます」

「でも、このままじゃ薛が――」

「私はどうなろうと構いません。お仕えしたときから、この生命は姫さまに捧げたつもりです。あなたさえ生きていてくれれば、それで――――」


 言い終わるまえに、薛の右手は力強く引かれていた。


「姫さま、なぜ!?」

「さっき自分で言ったでしょう? 私はあなたの主人で、成夏国の王女よ。従者の命令なんて聞かないわ」


 それでも、二人を取り巻く状況が好転したわけではない。

 懸命の努力もむなしく、薛の身体はすこしずつ沈下していく。

 それに合わせて、夏凛も板の縁からずり落ちるように器械へと引き寄せられている。

 このまま体力が尽きれば、二人とも滑車に巻き込まれるのは必定であった。


「もう十分です。どうか手を放してください」

「いやよ……!! 私は、あきらめたりしない……!!」


 右手からこみ上げてくる痛みを振り払うように、夏凛は涙声で叫ぶ。

 いよいよ最後の力が尽きようとしたとき、夏凛の身体は背後から力強く抱きとめられていた。

 涙に濡れた目交まなかいをよぎったのは、たしかに見覚えのある横顔だった。


「李旺!?」

「姫さま、無礼をお許しください――薛、そこを動くな!!」


 言い終わるが早いか、李旺は手にした短戟を滑車めがけて投擲する。

 次の瞬間、すさまじい異音が武器庫を領した。駆動部に異物を噛んだことで、機構からくりが悲鳴を上げているのだ。

 李旺は縁に片手でぶら下がったまま長剣を抜き放ち、滑車に因われた薛のスカートを切り離す。 

 そのまま妹を抱き上げると、板を軽々と飛び越え、武器庫の床にあぶなげなく着地したのだった。


「あ、兄上――」

「薛、いったいどういうつもりだ!? 勝手にこんなところに忍び込んだ挙げ句、姫さまを危険に晒すなど……」


 火を噴くような叱責はそこで止まった。

 夏凛が兄妹のあいだに割って入ったのだ。怯える少女を庇うように両手を広げ、黒い双眸は青年をまっすぐに見つめている。


「薛は悪くない。自分の意志でこんなことをする娘じゃないことは、兄のあなたが一番よく分かっているはずよ。私が無理を言ってここまでついてきてもらったの」

「たとえそうだとしても、それとこれとは話が別です。我が妹が姫さまの近習きんじゅとしてあるまじき失態を犯したなら、王宮の規則にしたがって相応の処罰を受けさせなければなりません」

「それを言うなら、私の罪はもっと重いわ。それとも、成夏国このくにの法では、盗賊の手下よりも頭領のほうが罪が軽いのかしら?」


 頑としてみずからの主張を譲ろうとしない夏凛に、李旺もついに根負けしたようだった。


「姫さまがそうまで仰るなら、私としては何も申し上げられません」

「それでいいのよ。たったひとりの妹なんだから、大事にしてあげなくちゃ」


 得意げに胸を張る夏凛に、李旺は苦笑いを浮かべることしか出来なかった。


「そのかわり、姫さまには女官長からたっぷりとお説教を受けていただきます。薛、もちろんおまえも一緒だ。今回の一件はそれで落着ということにする」


 がっくりと肩を落とす夏凛を支えるようにして、李家の兄妹は武器庫の出入り口にむかって歩き出していた。

 道すがら、夏凛はふと気づいたように李旺に問うた。


「ところで李旺、どうして私たちがここにいると分かったの?」

「姫さまは近ごろ朝の調練をよくご覧になっておいででしょう。もしや刀剣や鎧に興味がおありなのではないかと思料したのです」

「ふうん……気づかれちゃってたんだ」

「どのような些細な変事も見逃さないのが我ら近衛兵の務めですから」


 あくまでそっけない李旺の言葉に、夏凛はぷいと横を向く。

 言えるはずもなかった。

 ほんとうに見ていたのは、近衛兵の調練などではなく。

 ほんとうに興味があるのは、武器でも鎧でもないなどとは――けっして。


(すこしでも李旺あなたに近づきたかったなんて、言えるわけないじゃない)


 頬が熱くなっていくのを自覚して、夏凛はちいさく首を横に振る。

 前方に目を向ければ、開け放たれた扉から飛び込んできた陽光が床に白い道をつけている。

 まばゆいほどに光り輝くそのなかへ、夏凛はいち早く駆け出していた。 

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