瑞希が紡ぐ群像劇は、やがて『二〇一五年八月二十四日の告白』を結ぶ。

大創 淳

序幕 始まりは、初子から。

第一話 春の風は、第二の人生を迎える道しるべ。


 登場人物一人目・北川きたがわ初子はつこの場合。



 ……何が悪かったのか?


 と、自問自答を繰り返して、もうすぐ三十五年になる。


 今となっては、所詮しょせんは過去のこと。

 過去は未来を築く土台にすぎないから、もうあの日に帰ろうとは思わない。


 ……けれども、机の上にある一通の手紙は、また遠い過去へ戻そうとする。


 その手紙をつづったのは、星野旧一ほしのもとかず。わたしが教師になって、初めて受け持ったクラスの男子生徒。そしてその手紙が、この子の最後の言葉になった……。


 まるで昨日あった出来事のように、わたしは今も、覚えている。

 あの日、あの交わした言葉たちが、今でも鮮明に聞こえてくる。



「卒業までもう少しですね」


「えっ?」

 耳を疑った。


「はい」「いいえ」

 と、この子の口から、それ以外の言葉を聞いた人は、お家の人を除けば、わたしだけだと思う。そんなこの子が、自ら話しかけてきたのは、この日が初めてだった。


 この子と出会って、もう二年が過ぎた頃の話だ。


 この子は、体育を苦手としている。国語・数学・英語……などの五教科の成績は、良くはなかったけれど、決して悪くもなかった。大人しくて……大人しすぎて、逆にそれが目立っていた。基本的には優しい子。妹が二人いて五人家族。後は『坊ちゃん刈りの真面目という言葉が似合う男の子』が、この子の特徴だ。


 それらのことも踏まえながら、


「そうね。卒業しても、困ったことがあったら相談してね」

 と、わたしは、言葉を返した。


 この子は、少しうつむいて、

「もう困ったこと……あります」


「なあに?」


「僕は先生が大好きです。できるなら卒業したくない。まだ一緒にいたいです」

 と、この子は顔を上げると、涙目になっていた。


 ……愛の告白?

 それよりも、もっと純粋。


 この子のあどけない瞳が、そう物語っていた。


旧号きゅうごう、卒業しなきゃ、あなたの人生、進めないわよ」


 わたしがつけたこの子のニックネーム。あの有名な、バイクに乗って大地を駆ける特撮のヒーローみたいで、何だかかっこいいでしょ?


「…そうですね。変なこと言って、ごめんなさい」


「いいのよ。卒業しても、あたしでよければ、会いたくなったら会いに来ていいのよ」


「はい。先生、ありがとう!」


 この子の、初めて見る満面な笑顔がそこにあった。



 ……でも、その約束が果たされることはなかった。


 あまりにも早すぎる死……。

 この子は、卒業式を迎えられなかった。



 窓を開けると、白いカーテンがなびいた。その向こうにはベランダが……。


 ここは三階。お別れの時が来た。


 この風の強さを利用して……この子の最初で最後の手紙を両手で破った。

 この子の言葉が迷うことなく、舞い散る桜の花と一緒に、この場所から、新しい季節へ旅立てるようにと、願いを込めた。


 すると、

「ママ!」

 って、呼ぶ声が聞こえた。


 この様に、わたしのことを呼ぶ子は世界で一人しかいない。髪が白くなって還暦を迎えたおばあちゃんのことを、孫みたいに小さな子が「ママ」って呼ぶわけがない。そのことを、ほんの少し頭の片隅に置いて、ベランダから見下ろせば、ショートボブの丸顔とは不釣ふつり合いな、艶のある黒に、緑色の昆虫を連想させる派手なライダースーツを着た女性が、ヘルメットを抱えて、こちらを見ていた。


 そして、言うの。


「駄目だよ、ベランダからゴミ捨てちゃ」


「あっ、ごめんごめん」


 その女性は……やっぱり似合わない。その子は、わたしの娘だ。


 今日はアルバイトの最終日だったそうで、明日から教職にく。

 わたしと同じで……って、パパもか。やんちゃしていた子だけど、それも似合わないほど童顔で小柄。学校へ行くと、生徒の中に混ざってしまいそうだ。


 ……と、まあ、そんなことまで想像したけど、かえるの子はやっぱり蛙みたい。

 それは、この子が高等部に進学する朝のことだった。



「わたしもママみたいな先生になる」


瑞希みずき、いつも言ってるけど、『ママ』じゃなくて『お母さん』でしょ。……まあ、それはそれとして。お母さんみたいな先生になったら大変よ」

 と、わたしは笑いながら言った。


 ……本当は反対だった。この子に、わたしと同じ思いをさせたくない。


 でも、この子自身、気づいてないかもしれないけど、きっと、この子が本当になりたいのは、わたしではなくて『パパみたいな先生』だと、そう感じた。


 なぜなら、わたしは『数学の先生』だった。パパは『国語の先生』で、この子も明日から『国語の先生』になる。……それでも、


「わたし、あこがれてたの。ハッピー先生に」


 それは、わたしの名字が『くれない』で、まだ白衣の代わりに法被はっぴを着ていた頃、当時の生徒たちがつけてくれた大切なニックネームだ。

 旧号も、わたしのことを、そう呼んでいた。



 そして瑞希は、わたしが長年に渡り、席を置いていた千里せんりの私立大和やまと中学・高等学園から教師生活をスタートする。またそこは、この子の母校でもあった……。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る