第49話 別れの言葉
アリツィヤとあの少年はどうしているだろうか。
不意に、彼女らの姿がベルクートの脳裏をかすめた。
それも、戦いに臨んだときの二人ではなく、町中で出会ったときの平服の二人だ。
アリツィヤにとっての戦う理由は、『王』を討伐したことで失われた。彼女がこのまま
己の胸中にかつて宿っていた彼女との戦いへの渇望が、いまや薄れかかっているのを感じる。そのきっかけは、『王』との戦いが終わったあとの、アリツィヤの貌だった。彼女と『王』のあいだに、果たしてどのような関係があったのか、それは分からない。だが、もはや彼女は戦うための理由を喪っていた。
「……ならば、逃げよ、か」
ベルクートは呟いた。
賢人会議。脅威となる敵対者は退け、在野の知識は奪う。行動原理は単純なものだ。それゆえに、アリツィヤが組織に捕捉されぬように振る舞えば、ベルクートをはじめとした現代の魔術師との接点は失われるはずだ──。
そんなことを考えていたら、横合いから声をかけられた。
「おい! 何をぼんやりしているんだ? せっかくこの僕が見送ってやってるのに」
ルーカだ。傍らにはキアラの姿もある。かれの背後には、紙宮夫妻とこよりが控えていた。
「ああ、すこし考え事をしていたんだ。悪かったな」
「ふん。そんなことは飛行機に乗っている間にいくらでもできるだろ。この際挨拶でもなんでもいいから、何かしゃべれ」
「すぐに期待に応えてやる」
ルーカと言葉を交わしているさまを、こよりはきょとんとした顔で眺めている。その理由は言うまでもない。意思そのものは、祐三の打った心話の式によって通じているものの、発話そのものは、お互いがお互いの自国語で行っているからだ。
「アザトさんとルーカ君、結構仲がよかったのね」と、こよりが顎に手を当てながら、のんきな調子で言う。
「いや、それは誤解だ。私は今日をもって失礼させてもらうが、こよりさん、大変だろうが、どうかルーカの面倒を見てやってくれ」
「大丈夫。わたし、にぎやかなのは好きだから。……アザトさんはこれからどうするの?」
「帰ったら……そうだな。久しぶりに、子供のころを過ごしたところへ顔を出してみようか」
「里帰りね」
こよりと気楽に言葉を交わせるようになったのは、やはり、戦いが終わってからのことだ。穏やかな祐三の語りに比べると、若いこよりの喋り方はなかなか意味を掴むのが難しかったが、それも慣れた。だが、この国の言葉の勘所を掴みかけたころには、こうやって離れなければならない。
ベルクートは、足下の
こよりの次に語りかけてきたのは、祐三だった。
「そういえば、ささやかだけど土産物があったな」
と、かれは紙包みを手渡してきた。
「ありがとう」と、ベルクートはそれを受け取り、右腕で支えて、中を覗いてみる。
「いい匂いだ。昼食と、この小瓶は……ウォトカか。そういえば、ここに来ている間は一滴も酒を飲んでいなかった。感謝する」
と、ベルクートは酒瓶を摘み上げて微笑んだ。
「さて、そろそろ出発しなければならない時間だ。紙宮の方々には、ほんとうに世話になった。……ありがとう。ルーカと妹君は、十分に身体をいたわってくれ。協力に感謝する」
それだけを告げて、ベルクートは小さく頭を下げた。紙宮家の人々とキアラは微笑みとともに手を振り、ルーカは追い払うように手を払った。
「なにが協力に感謝だよ。これは仕事なんだ。感謝されるいわれなんかどこにもない。お前はさっさと飛行機に乗って、シートで酔っぱらって寝てしまえばいいんだ」
「もちろん、そのつもりだ」と言いながら、ベルクートは紙包みを掲げてみせた。その様子を見て、珍しくルーカが笑った。少年らしい笑顔だ。
別れは済んだ。
「それでは」と、ベルクートはかれらに背を向けた。その際に、不意に予期せぬ一語がこぼれた。「……また、な」
幸運にも、その言葉に疑問を差し挟む者は現れなかった。ルーカでさえも。
──また、か。
市街への道を歩きながら、ベルクートは考えた。
存外、ここでの短い日々を好ましく思っていたのだろうな、俺は、と。
ああ、悪くはない。いずれ訪れよう、という箇所があるということは、それがないよりははるかに良い。
そのことに思い至ったとき、なぜかふたたび、アリツィヤたちのことを想起してしまった。たびたび思い浮かぶということは、なにかが鍵になり、忘れがたい存在となってしまったということか。
だが、彼女らは彼女らでうまくやるだろうさ、とベルクートは思った。
戦いの後で、消滅してしまったあの騎士の言葉が真実であれば、もはや、アリツィヤの彷徨は終わったということだ。そして、今はどうか知らないが、やがて彼女の傍らを、あの少年が占めることになるだろう。
彼女らは、いずれひとところに落ち着く。そのことが知れているものを、こちらが心配してやる道理はない。
そうだ。彼女の彷徨は終わったのだ──。
俺は俺で、なすべきことを為すだけだ。
とりあえずは、祖国に戻り……いや、それより先に、美味い昼食とともに、旨いウォトカを飲む。
全てはそれからだ。ああ、悪くはない。
《了》
彷徨のアリツィヤ 谷口 由紀 @yuki-taniguchi
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