第48話 ひとときの別れ
昼まではまだ時間があるかな、と、誠は携帯電話の液晶画面を見ながら呟いた。
あの晩の戦いから、一週間とすこし。いまはもう、平穏な日々を過ごしている。
『王』を倒したあと、満身創痍となったアリツィヤを抱えて戻ったのは、自宅ではなく、町橋先生の診療所だった。アリツィヤの素性を問わずに保護してくれるのは、やはり、先生しかいなかった。家族にあらためて説明するだけの猶予もなかった。
そうだ。結局、アリツィヤを……誰かを守るためには、また別の誰かの力を借りなければならない。それが、いまの自分なのだ。家族をはじめとして、これまでともに過ごしてきた人々の日常をかき乱すことなく、変化を受け入れる。そのためには、独力でどうにかできるような力が必要となるのだ。
力。今の自分を省みるかぎり、まだ足りないものはあまりにも多い。
だが、それらひとつひとつを得るだけの時間があるのだろうか。
先のことを考えていると、不安が押し寄せてきそうになる。
情けないな、と呟きそうになったが、それを口にすることだけはやめた。
そんな自己認識は持ったところで意味はない。これから、どうするか、だ。
誠は頭を数度振って、目指していた所の門を叩いた。
──『町橋診療所』。
ほんの一週間ほども前まで、誠とアリツィヤの戦いを支えてくれたところ。
見慣れた廊下を歩み、誠はアリツィヤがいる病室のドアをノックする。
「はい」と、聞き慣れた声の返事。
ドアを開ける。認めた人影はひとつ。アリツィヤだ。
いまの彼女は、戦いのまえに町橋夫人から頂いた私服に身を包んでいる。穏やかな色彩の上下に、首許をいろどる優しい桃色のスカーフ。
ベッドのマットレスの上には、やや大きな鞄がひとつ。布団や敷布はきちんと畳んである。
「今日、出ていくんだったね」
「……ええ」
アリツィヤは、すこし寂しそうに微笑む。
今日、アリツィヤは日本を発つ。そのことは、数日前には聞いていた。
数日前。祖国のありし地へと戻り、『王』の異界への道を探るつもりだ、と彼女は言った。アリツィヤの知りうる断片的な魔術知識のみでは、異界への門を完全に導くことはできない。そのうえ、『王』はその秘奥を他人に語らぬままに倒れている。ゆえに彼女は、いま一度現地に向かい、史料を紐解くところから始めなければならない、と言う。
おそらくは彼女がそう決心するであろうことは、誠も予感していた。『王』の死によって全てを終わらせることを、彼女は望まない、と。
しかし、いつかはその呪縛を断ち切り、アリツィヤに安寧をもたらしたい。
そう心に決めたのは、ロートラウトと約束を交わしたから。
だから、アリツィヤについていこう。
そう決心したことを、誠はアリツィヤに伝えていた。数日前のことだ。
そのとき、彼女は微笑み、そして、ほんのすこしだけ悲しそうな顔をした。
──ありがとう。でも、いけません。
誠は訊いた。なぜ、だめなんだ、と。
アリツィヤは、その問いに答えのまま、こう言った。
──誠さん、あなたの家族と、友達。その方々の顔を、声音を、思い出してみてください、と。
そう言われた時、誠はすこし憮然とした。別れることになるのは、もとより承知の上だ、と。
だが、その言葉を実際に言いかけた時、アリツィヤはまるで叱るかのように、誠の両頬に手を当てた。
──その方たちとの関係は、いま断ち切ってしまっていいものですか、と。
誠は答えられなかった。だが、アリツィヤは、返答がないことに安心したかのように、淡く微笑み──よき別れを求めなさい、と言った。
その言葉を額面通りに受け取れば、何も言わずに別れるのではなく、なにか区切りをつけて別れるほうがよい、ということに過ぎない。その奥の意味をはかりかねて、誠は黙ったまま、返答できずにいた。
アリツィヤは、そんな内心を見透かすかのように、言葉を続けた。
──心を通わせた人たちと、互いに笑みを交わして別れたならば、その人たちは……心のなかで永遠に生きるのです。長い旅路であなたが膝を折りそうになったときに、支えてくれるものは……その人たちです、と。
その言葉は、あまりに真っ当すぎて、気恥ずかしいとさえ誠は思った。まるで宣教師だな、と。
しかし、アリツィヤの旅路と重ねて思うときに、その言葉はひどく悲しいものに思えた。彼女が「納得のいく別れ」など、得られた筈はないのだ。
ロートラウトが彼女を赦すまでに、どれだけの時間が必要だったのかは分からない。
だが、それまでの彼女の孤独を思うと、誠は胸がひどくざわめくのを感じた。
そのとき誠は、自分でも気づかぬうちに、アリツィヤを抱きしめていた。アリツィヤはしばらくそのままでいたが、やがて誠の耳元で、しずかに囁いた。
──だから、納得いくまで、友や家族との時間を過ごしなさい。そうして強くなったあなたとならば、きっと、どこまでも歩いていける。
誠もまた、アリツィヤの耳元で呟く。
──でも、できれば、すぐにでも一緒に行きたいんだ、と。
そう言ったときに、アリツィヤは誠の背に回した腕に、よりいっそうの力をこめて、言った。
──大丈夫です、誠さん。あなたが待つのではありません。私が、あなたを待ちます。大人になって、素敵になったあなたを迎える日を楽しみに、私は待っています。……あなたは、どんな大人になるのでしょうね……。
やがて、誠はアリツィヤから離れた。彼女は、鞄から一冊の本と、紙片を取り出して、誠に渡した。
これは、と誠が問うと、それが魔術書と、魔力感知の魔術を示す呪術手順であることを彼女は答えた。
魔術書は、初級の魔術を指南するためのもののようだった。まだ、誠の知識には、アリツィヤと知覚を共有していたころの残滓が残っているせいか、ぽつぽつとではあるが、その記述言語を拾い読みすることができた。だが、その知識はやがて薄れる。知識を固着するための最良の道具は、言語に他ならない。これを学ぶこともこれからの課題になるだろう。
──そして、この魔術は、と、誠は紙片を指して訊いた。
アリツィヤは、それは地図です、と答えた。誠がアリツィヤのもとへ至るための、道筋として。この魔術により、誠はアリツィヤ固有の魔力を感知することができる。それこそ、この世界のどこにいようと。
……そして、今。
町橋夫妻に別れを告げた誠とアリツィヤは、中心市街の駅を目指していた。
四月の終旬が始まろうとしている。ごく短期間の異変は終わり、また、もとの毎日が始まる。
だが、それがこれまでの日々ではないことだけははっきり分かる。
明日から始まる日々は、きっと、なんの変哲もない日々だ。だが、目指すべきゴールは明らかに違う。
そのことを、いまはもう理解しているつもりだった。
アリツィヤに心配をかけぬよう、つとめて明るい話題を選んで、誠は道すがらアリツィヤと話した。
家族のこと、友達のこと、そして、これまで過ごしてきた日々のこと。
ごく他愛のない話だったが、アリツィヤはひとつひとつ耳を傾けてくれた。
そのうちに、二人は駅へとたどり着いた。
「……ここですね」
「ああ」
駅から空港へと向かい、空路にてアリツィヤは本国へと戻る。旅券などの備えは遺漏ないとのことだ。
「よくパスポートが用意できたな」と誠が訊くと、アリツィヤは困ったように苦笑いした。
「……この国ほど取得が難しくなかったのですよ」
「なるほどね」
それはさておき、誠が見送るのは駅までという約束だった。
人で混み合う構内に入り、改札口近くの券売機で空港線の片道切符を一枚買うと、誠はアリツィヤに手渡した。
「……気をつけて」
「ええ」
「アリツィヤが言ってたこと、全部をきちんと片づけるまでに何年かかるか分からないけど、必ずそっちに合流するから。そのときには、アリツィヤを手伝えるようになっておくから。……必ず」
「はい。立派になったあなたを待っています。……でも、今のあなたの顔は、見納めですね……」
そう言いながら、アリツィヤは誠の頬に手を当てて、彼女の眼前に引き寄せた。
「……え」
「──あなたの顔を、いつでも思い出せますように……」
小さくそう呟くと、アリツィヤは誠に優しく接吻をした。
ごくささやかな、しかし忘れがたい柔らかな感覚が唇に触れる。
「……あ」
誠が目を閉じる前にアリツィヤの顔は離れた。紅玉のような瞳が遠ざかり、あとにはかすかな香りだけが残される。
誠がなにも言えずにいると、アリツィヤはすこし悪戯っぽく、しかしかすかに寂しげに微笑んで、言った。
「──また、会いましょう。……必ず。」
そしてふと気づいたように
「これもまた、『待ち遠しい』という気持ちですね。時の流れを幸せに待てる日がくるなんて……誠さんのおかげです」
と華やかな笑顔を向けた。
その言葉に、誠はせいいっぱいの笑顔を作って、頷いた。
「必ず、アリツィヤに会いに行くから」
それ以上の言葉はもう必要なかった。
改札を抜けて、人ごみに紛れていくアリツィヤを見送ると、誠は帰途に着いた。
──ひとときの別れだ。やるべきことは沢山ある。
己に言い聞かせるように呟きながら。
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