第47話 春、穏やかな日
早朝。ベルクートは、居室に乗り込んできた少年のわめき声で目を覚ました。
「────! ────!」
何を言っているのかは全く分からない。異国の言葉だ。だが、この声音には十分すぎるほどの聞き覚えがある。
ルーカ・リナルディ。「イタリアの双子」と呼ばれる魔術師だ。
むろん、この少年に入室の許可を与えてはいない。朝も早くから喚かせる許可も。布団と呼ばれる寝具のぬくもりを楽しむための時間を削り取る権利もまた、与えた覚えはない。
「――やかましい。朝から何の用だ」
知らず、眉間にしわが寄るのを感じる。誰だって、たたき起こされるのは不愉快なものだ。
ぼんやりとした視界がゆっくりと通常に戻っていき、不鮮明だったルーカの貌がはっきりと見えるようになる。相変わらずの仏頂面だ。
……その背後には、かれの妹、キアラ・リナルディの姿も見えた。やや姿勢がおぼつかないが、杖で身体を支えるようにして立っている。
彼女は、ベルクートに対して、小さく頭を下げた。兄の非礼を詫びるように。
そのとき、もうひとりの人物が文句を呟きながら入室してくる。
「……ルーカ君、いくら友人の部屋だからって、なんの断りもなくずかずかと入ってはいけないよ」
これは、聞き慣れたこの国の言葉。紙宮祐三の声だ。
「その正論を伝えたくば、ルーカに分かる言葉で言ってやってくれ。それからもうひとつ。俺とルーカはいつ友人になった?」
そう言うと、祐三は少々薄くなった頭を掻きながら答えた。
「ああ、悪かったね。だが、出会ってからだいぶ経って、ともに大きな事を為したんだ。そろそろ
その気楽な物言いに、ベルクートは目を細めた。
「生まれかけた友誼は、今しがた奥に引っ込んだ。……とりあえず、この騒音源と意思疎通できるようにしてくれ。スイッチがなければ目覚ましを止めることもできない」
+ + +
着替えたベルクートは、そのままルーカ達の待つ居間に向かった。
思い返せば、始めてこの屋敷に足を踏み入れたときに通されたのが居間だった。
「……失礼する」
室内に入ると、そこには多くの人の姿があった。
祐三は読みかけの新聞から目を離すと、笑って手招きをした。
「アザト君、朝から騒がせてしまってすまんね」
ルーカは意外にも静かにしている。なぜなら、その目がテレビに釘付けになっているからだ。
キアラは座椅子にもたれかかりながら、ベルクートに会釈した。
「……おはようございます」
彼女の顔色は、まだすこし青白い。
「おはよう。もう動いて大丈夫なのか? 一昨日に目覚めたばかりなのだから、無理をするな」
「いえ、できれば身体を動かしたいんです。そのほうが、気分も良くなりますから」
「そうか」
先の戦いのあとも、キアラの昏睡状態は一週間近くも続いた。紙宮宅の一間で、こんこんと眠り続けていた。目覚めたのは、ほんの一昨日前だ。身体の各所には、後遺症として強い痺れが残ったことを祐三から聞いた。だが、それでも目覚めてくれたことは喜ばしいことだ。なによりも、気の毒なほどに憔悴していたルーカに、もとの活力が戻った。今朝方のような子供っぽい振る舞いも、その反動なのだろう。
そんなことを考えていたときに、ベルクートは横あいから声をかけられた。
祐三の娘、紙宮こよりだ。出会ってすぐの頃の、こちらを
「あ、そこに座ってて! すぐにお茶を持ってくるから」
「ありがとう」
勧められるままに、掘炬燵の一辺に腰を下ろす。四辺のうち、テレビの対面となるところをルーカが占めている。その横に、キアラ。祐三とベルクートは、その両隣に座る格好になる。
頃はおりしも四月の中旬。多少は寒気も残ってはいるが、春の終わりも遠くはない。炬燵布団を外すのも、そう遠いことではない。
(その頃には、俺はここにはいない)
今日、明日中にはここを退去する。ベルクートはそう決めていた。ここまでの出来事を記した報告書は、昨日の晩に書けた。戦いによる身体の不調は、祐三の
そんな考えを切り出そうとしたときに、ルーカが口を開いた。
「……祐三、ベルクート。今日はキアラを迎えに来たんだ」
ルーカは、紙宮宅からすこし離れた市街にあるホテルに滞在している。本来ならば、祐三やベルクートに深く関わるつもりなどはなかったようだ。これまでにかれらがそうしてきたように、戦い、勝ち、引き払う──そうするつもりだったのだろう。
その言葉に祐三が、ふむ、と呟いた。
「そんなに急ぐことはないよ、ルーカ君。キアラ君の体調が調ととのうのを待ったほうがいい。なんなら、君もここに詰めていればいいだろう」
その申し出に、ルーカは頷きかけたが、すぐにかぶりを振った。
「いや、これ以上、カミヤの家に世話になるのは……なんというか、心苦しいんだ。それに、ベルクート」
と、唐突にルーカはベルクートに向き直る。
「なんだ、藪から棒に」
「その右腕、まさか放っておくつもりはないだろうな?」
そう言って、ルーカはベルクートの空袖に視線を落とす。
「いや、本国に戻ったら加療を受けるつもりだ」
「そうか。なら、僕たちと一緒にお前もイタリアに来い。どんな手を使ってでも、もとどおりに戦える義手を作れる、イタリア一の工房を探してやる」
その言葉は、とても冗談として受け流せるような勢いではなかった。
「唐突な奴だ。べつにお前が気に掛けるような事でもないだろう。お前がすべき事は、お前たち兄妹の今後について考えることだ。俺のことは放っておけ」
そう言って、ベルクートは突っぱねた。だが、ルーカは諦めない。
「僕のせいだ」
「どうした」
「僕のせいで、キアラもお前も痛手をこうむった。だから、僕はキアラとお前に対して、なんとしても償いをしなければならな……」
と、そこまでルーカが言いかけたとき。
「……もう」
と、キアラが兄の鼻先を指で弾いた。
「痛っ」
顔をしかめるルーカ。そんな彼をよそに、キアラは祐三に向き直る。
「祐三さん。……私が目覚めるまでずっとお世話してくださって、本当にありがとう。お言葉に甘えて、もうしばらく、ここに逗留させていただいてよろしいですか?」
「もちろんだよ」と、祐三。その返答にキアラは微笑んだ。傍らでルーカが何か言いたそうにしていたが、結局は黙ることに決めたようだ。
「それから……」と、キアラはベルクートに話しかける。
「あのとき、わがままをいってごめんなさい。いま思えば、あなたの言葉に従うべきだったと思う」
あのとき、とは、ルーカ兄妹がアリツィヤに戦いを挑んだ晩のことだ。アリツィヤの封印が解けぬベルクートを置いて、二人は戦いに出た。結果として、介入してきた『王』によって、キアラは魔力を使い果たし、ベルクートは右腕を失った。確かに犠牲は大きかった。だが。
「……さあな。俺の言葉通りにして、あそこで追撃の手を緩めていたとしても、その結果が素晴らしいものになったかは分からない。むしろ、敵手に対応の時間を与えることは、往々にして下策だ。だから、君に言うべきことも兄君と同じだ。『気にするな』。……それでいい」
「……はい」
キアラは安堵したかのように微笑んだ。最後に、彼女はルーカのほうを向いた。
「……兄さん」
「な、なんだよ」
すこし狼狽が見える。
「お願いです。……私と一緒に、もうすこし、ここにいて下さい。兄さんがいるここに還ってこれて、良かった。だから、もっと一緒にいて下さい」
と、キアラはゆっくりと言った。ルーカはしばらく動けずにいたが、やがて「……ああ」と、かれにしては言葉少なに言った。
「いるさ。僕は、キアラのそばにいる」
──一件、落着か。
居並ぶふたりの兄妹を見てそう思ったベルクートは、炬燵から立ち上がる。
ちょうどそのとき、台所からこよりが戻ってくる。
「あ、みんな、お茶だよ。……って」と、ベルクートを見とがめて言う。
「またアザトさんってば、どっか行こうとするんだから! 朝の団欒くらい、つきあってよ!」
その剣幕に、ベルクートは苦笑いしながら答える。
「……そうだな。それでは、一杯いただくよ」
と、彼女の持つ盆の上から、湯飲みをひとつ摘み取った。
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