第44話 かりそめ

「ロートラウト、それは……」


 彼女の身体は、まるで蒸散するかのように崩壊しつつあった。ひとたび無から生じた有形の物体が、ふたたび無へと還る。あらかじめ定められているかのように。


「案ずるな、誠。君に借り受けた魔力によって生じたこの身体は、あくまで仮初めのものだ。私は、きみが支払った代価に相応しい働きをするために、ここに馳せ参じた。用が終われば消え去るのは、当然のことだ」


 そう言って、ロートラウトはいまもって微かに異界の力を宿した剣を、足下に突き立てた。そのまま、アリツィヤに向き直る。


「アリツィヤ、最後にひとつ問おう。……きみの宿業はこれで片付いたな?」


 その問いかけに、アリツィヤはさびしそうに微笑みながら、ええ、と答えた。


「……そうか。良かった……」


 心から安堵したかのような、笑み。

 それは、誠がはじめて見る、彼女の安らかな表情だった。

 のちにロートラウトは、旧い言葉による呪文の詠唱を始めた。


「       」


 その言葉が鍵であったかのように、地面に突き立てられた彼女の剣にまとわりつく「門」が膨れあがり、地をつたって溢れ出す。それは疾く誠たちの周囲を駆けめぐり、奇妙な文様を真黒く描き出す。その過程を確かめ終えたロートラウトは、満足げに吐息をついた。


「……さて、これで終わりだ。みなを『王』の異界より帰還させる術は為された」


 だが、彼女の身体の崩壊は止まらない。その様相をじっと見つめていたルーカが、うめくように呟く。


「おまえが何を思い、どんな理由でこの戦いに臨んだのかは知らない。だけど、おまえの犠牲のうえで拾った勝利など、僕は嬉しくない! 認めないぞ! ……ふざけるな! なんだよ、そんな身体になりながら、最後まで格好つけやがって」


 最後の言葉は激昂とともに吐き出された。そんなルーカの姿を、ロートラウトはどこか懐かしそうな表情で見つめていた。


「西欧の完成者たちをことごとく焼き尽くした『イタリアの双子』とは思えない台詞だな。そこにいるロシアの聖句術師とつるんでいるうちに、すこし調子が狂ったようだ、なあ?」


 と、ロートラウトはベルクートを眺めやる。ベルクートは小さな笑みを浮かべながら、そうかもな、と頷いた。


「そういう怒り方をする奴を、昔にも見たことがあったよ。そいつは鼻持ちならない奴だったが、嫌いではなかった。まあ、気にするな。さっきも言ったが、この身体はひととき借り受けた、仮初めのものだ。時間が限られているのなら、その間になすべきことを為そうとするのは当然だろう。ちび助……いや、ルーカ。きみのこれからの時間を守れてよかった。きみは……どんな大人になるのだろうな」


 そうロートラウトが語りかけると、ルーカは目を伏せ「分からないよ」とだけ呟き、そのまま一言も喋ることはなかった。


 そして、まるで残された時間の終わりを示す鐘のように、周囲に展開した黒色の文様がひときわ強く闇を揺るがせる。それとともに、周囲の風景が急激に変化していく。まるでこの世界から切り離され、遠ざかっていくかのように。その光景に、なぜか誠は心がちくりと痛んだ。この清浄な世界は、かつて『王』が心に抱いていた理想の地、だという。この世界は、主なき時間に果たして存在し続けうるのだろうか。なにより、ひとの理想が潰えるさまを、これ以上は見たくはないのだ。


 文様は正しく作用し、誠たちは完全なる暗黒に包まれる。周囲の者はだれ一人として見えなくなった。そのとき、ふいに誠のもとに届く思念があった。


「……誠。私が消え去るまでの少しの時間を、私にくれないか」


 ロートラウトの声だ。


「もちろんいいさ。さっきはあまり話せなかったから、このままお別れだったらどうしようか、とすこし不安になってたところなんだ」


「すまないな。……できれば、ゆっくり話したかったんだ。思念による意思のやりとりは、言葉ほどにはせわしくない。それに、あのまま長々と話していて、崩れゆく肉体を君の記憶に残したくはなかった」


 その言葉に、誠は返事をしなかった。ロートラウトは続ける。


「まずは、君と交わした約束を果たせて良かったよ。アリツィヤと君を必ずや無事に帰す、と。何も分からぬままに巻き込まれた君にも、これからの時間を約束したかったんだ。あのイタリアの子供と同じように」


「……ありがとう、ロートラウト。でも、あなたとも、できれば……アリツィヤと同じように、これからもずっと喋ったり、色々なことを教えてもらいたかったよ」


 そう答えながら、誠は言いしれぬ感情を持てあましていた。


 ロートラウトは、アリツィヤの生贄たる存在だ。誠と同様に。

 だが、彼女はその定義通りに生贄となり、命を落とした。その魂はアリツィヤに内包されたまま今に至り、ついには己を犠牲としたうえで消滅する。

 そして、なぜ誠がその道筋をたどることなく生存したか。それは、アリツィヤとロートラウトが、ともに誠の存在を守ってくれたからだ。


 そのことを、素直に喜べなかった。どこか、不公平だ、と感じてしまう。

 いや。そうではない。

 仮に自分とロートラウトの立場が逆転したとして、果たして自分はロートラウトのように振る舞えるのか。その答えがおそらくは否であることに、誠は気づいている。


(自分を殺した張本人を赦し、救い、そして全くの無関係である人間を、その魂を犠牲にしてまでも守り抜く。……あなたの行動は不可解だった。でも、俺には直視できないくらいに……眩しかった)


 おそらくは、あのルーカという少年も同じような気持ちを抱いていたのだろう。あの眩しさには己を重ねきることができない。だから、怒った。誠はほぼ確信をもって、そう思った。


 そんな錯綜した思念は、ロートラウトに余さず伝わってしまったようだ。


「……誠。きみもそうだが、若い者は自分自身の尺度で他の者を計りたがる」


 そんな説教じみた言葉の陰には、彼女のすこし照れたような心情が感じられた。そして、こう続ける。


「きみは、私に与えられた長い長い時間を忘れているようだな。……なるほど、たしかに当初はアリツィヤを心の底から憎んだものさ。わが魂を喰らって生き延びた悪鬼め、と。だが、そのうちに彼女の心にやどる悔恨かいこんを知るようになる。私がいかに執念深くとも、悔いている相手を責め続けることは難しかった。それに気づいたのがきっかけで、私はアリツィヤと少しずつ言葉を交わすようになった。……きみも知るように、彼女はなかなかの難物だよ。まだ行いには迷いが残っているし、心もかたくなだ。しかし、それだけに興味深い人物だ。それから長い時間がかかったが、やがて私はアリツィヤを気に入るようになった。さて、きみはどうかな。私と同じように『生贄』として選ばれたる身でありながら、私などよりもはるかに短い時間で彼女に好意を抱くようになったようだが」

 最後には、すこしからかうようなニュアンスが混じっている。


「……ほっといてくれよ」


「ははは、悪かったな。……だが」と、すこし改まった様子になる。


「なんだ?」


「今後のことだ。きみがこの数日で得た縁をどうするか、だ。このまま全てを捨てて、もとの毎日に戻るのが……おそらくは最良だ。かなうならば、きみにはそれを選んでもらいたいとさえ思う」


 いつかはこの問いが来る、と誠は思っていた。この数日間を、ただのひとときの交わりと見るか、それとも、これからの行く末を定める変革の兆しと見るか。

 しかし、ロートラウトが勧める「無視」が上策であるとは思わなかった。これをきっかけに、変わりたい。……できうるならば。


「ロートラウト、もし俺が魔術の道に進むことを望むとしたら、あなたはどう思う?」


 誠の問いかけに、彼女は小さく溜息をついた。

「……この数日間で、君はいくつかの戦いを経験したな。そのさいに、きみは耐え難い苦痛と恐怖を味わい、そして魔術師たちの心休まらぬやりとりを耳にした。それらを天秤の片方にかけたとして、その反対側にはなにが載っている? それだけを教えてくれないか」


 わかりきった、問いだった。


「俺も、やっぱり彼女に魅せられたんだよ。アリツィヤに。あなたと同じだ」

 そう答えると、ロートラウトは困惑と納得が同居しているような笑みを浮かべながら、言った。

「……やはり、きみと私は、どこかしら似通っていたのだろうな。だからこそ、彼女の魂に強く惹かれた。……ならば」

 と、彼女は語尾を引き締めた。

「おそらくは、彼女は近いうちにここから離れるだろう」


「……どうして? もう『王』は倒されたというのに」


「そうだな、そこで良しとしてくれればよかった。だが、彼女のことだ。あの『異界』についての謎を解き明かそうとするに違いない」


「……『異界』か。あそこに、まだ何の用があるんだ?」


「かの地へと至る門そのものが、『王』の攻撃の要だったことは覚えているな。そこに生きながら飲み込まれた多数の人間がいる。アリツィヤは、かれらを救おうと考えているのさ」


 かれの思い描いていた楽園。それはけして架空の存在ではなく、定められた道筋さえあれば、相互に行き来できる、確たる世界だというのだろうか。


「できるのか?」


「そういう力を持った魔術師は、絶無ではないと聞く。アリツィヤならば、その秘蹟に賭けて、また長い長い時間を費やすだろう。……それが成就するころには、きみの寿命は尽きているかもしれないがね」


「…………」


 アリツィヤは、数百年を生きる完成者。それに比して、数十年も生きれば潰える定命の者である誠。末路に待つものは、確実なる別れだ。それを知ったればこそ、ロートラウトは当初に離別を促したのだろう。


 だが、と誠は思った。


「ロートラウト。たとえ途中で俺だけが降りることになったって、それでもいいんだ。ぎりぎりまで、俺はアリツィヤのそばにいるよ。……あなたがこうやって、ぎりぎりまで俺の事を見ていてくれるように。だから」


 そう話しながら、誠はロートラウトの知覚が散逸しつつあることを感じていた。


 ──だから、誠は最後に伝えた。


 ありがとう、ロートラウト、と。


 その言葉に反応するかのように、暖かな心性だけが伝わってくる。


 もう、言葉は還ってこない。

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