第43話 聖句

 それは、まるで悪夢のような光景だった。


『王』が身に纏う「門」の狭間から、真白い火焔がしゅうしゅうと噴き出している。立ち上る肉を焦がす煙と熱せられた空気が天を衝き、まるで禍々しい儀式の生贄のようだ。


 その姿の凄まじさに、誠は一歩退いた。他の者も同様だった。ルーカなどは、まるで己の力に怯えているようにも見えた。


 その肉体が一個の火柱となるも、『王』の周囲からはまだ「門」は失われてはいない。全身を炎に嬲られながらも、一歩、また一歩と幽鬼のような足取りで誠たちに近づいてくる。


「──油断するな。まだ『王』は生きている。──いや、肉体があれほどまでに損なわれようとも、まだ捧げられた魂が力を失っていないと見える」


 ロートラウトは、皆をかばうように一歩先んじた。彼女の纏う上衣の白十字が、まるでほんの数瞬後の『王』の墓標のようにも見えた。


 生きながら灼かれる『王』。それに相対し、長剣を構えるロートラウト。


「正々堂々たる戦いを経て敗れた者にならば、その魂の安楽を祈ることもできるだろう。この戦いにおいて、われらに怯懦きょうだはなかった。だから、貴様の魂の安楽を祈ってやりたいと思う。だが、その魂はもはや貴様のものではないのだったな……」


 そう呟いたのちに、彼女は剣を水平にして、切先を『王』に向けた。


「ならば、滅びたる魂の行き着くところで、また相見えよう!」


 そう告げたのちに、ロートラウトは『王』の肉体を衝いた。


 アリツィヤの魔術によって強化された剣が、かれの胴を貫く。

 その刃はわずかながらも「異界」の力を帯びたもの。刃によって裂かれた箇所は、そのままこの世界からは消え去ってしまう。その剣による創傷そうしょうは、たとえ完成者の力をもってしても容易には癒せぬもの。


 『王』はもはや、身をかわすことはなかった。まるでロートラウトを抱き留めた木偶でくのように、身じろぎすらもしなかった。

 ゆっくりと、『王』の肉体がロートラウトにしなだれかかる。かれの身を堅固によろっていた「門」も、ついに綻び、解けた。剥き出しになったのは、残酷なほどに焼け焦げた、丸腰の男の姿だった。ロートラウトが剣を引き抜くと、かれはロートラウトの目前で膝をつき、そして前のめりに倒れた。


「…………」


 とどめを刺したロートラウトは、無言だった。

 他の者もまた、だれも口を開こうとはしなかったが、やがてルーカが安堵の溜息を漏らしたとき、はじめて皆の緊張がひととき緩んだ。


「……終わったのか? ベルクート、ひとまずは引き上げよう」


 ルーカがそう呟き、ベルクートも頷き、ああ、と呟こうとした。

 だが。


「────!」


 『王』の遺骸に背を向けたままのロートラウトは、そのまま前方に飛び込んだ。姿勢を整え振り向くと、そこには一筋の「門」が鎌首をもたげていた。それはまぎれもなく『王』のものだった。もはや「門」はひどく細くなり、この現界に溶け出してしまいそうなほどに薄れている。だが、その鋭さは疑うべくもなく致命的なものだ。


 『王』の肉体だったものが、ゆらゆらと立ち上がる。もはやそこには生命の気配はない。ただ、いまだ喪われていない力の依代としてのみ存在しうる。


「……これが、魂を捧げる、ということなのか……」


 誠は呟いた。そして、恐怖した。だが、それは『王』に対してではない。この信じがたいような力を、ひとたびはアリツィヤも求めたという事実に対してだ。


 破滅をもたらす妄執は、もはや『王』のものではないのだろう。かれの魂は何者かに召し上げられ、その者が飽くまでのひとときの間だけ、『王』の願いの形骸けいがいが行使される。

 そうだ。もはや『王』は滅びた。かれの願いも滅びた。残されたものはただひとつ、ただ暴れ狂うのみの力だ──。


「──うおぉぉぉぉっ!」


 ベルクートが吠えた。

 すでに短剣を使い果たした彼は、ただ一本残された左腕で天を衝き、凄まじい勢いで呪文を詠唱している。


「うっ……ああ……」


 残念ながら、ルーカはもはや有効な呪文を用いるだけの余力を残していなかった。怯え、後ずさりながらも、その眼差しは必死で目の前の怪異を捉え続けている。


 『王』の遺骸は、その両手を虚空にかざした。その手の示す先に、かれの周りを護衛していた数条の「門」の全てが、一箇所に凝集する。そして、弱々しい光とともに、また異界の深奥を見せるかのように広がり始める。誰もが、その光景に見覚えがあった。これは、さきほどかれが示した秘蹟の劣化した模倣にすぎない、と──。


 だが。


「……下がれ!」


 ロートラウトが鋭く叫んだ。


 それとほぼ同時だった。『王』の頭上に広がった異界が、爆発的な勢いで広がった。

 天を蓋うかのように広がった異界は、やはり澄み渡った平和な空と大地だった。もはや力が尽きつつあるのか、方々に綻びが生じてはいたが、それがかえって『王』の妄執を感じさせた。


 それは、まるで限界を知らぬかのように広がっていく。


「……この世界が……塗り替えられるのか……?」


 誠は呟いた。だが、それに頷こうとするものは誰もいない。誠とても、認めたくはなかった。


「ひとりの男が差し出した魂の見返りに与えられる力としては、破格に過ぎるな。……神は、かれの遺志を愛し給うたか」


 ロートラウトは言った。そして、ベルクートのほうを顧みた。かれの必死の詠唱にもかかわらず、周囲の状況からは、その願いに応える様子が伺えない。


「──だが」と、ロートラウト。


「かれの願いを愛するものは、なにも神に限ったことではない。……アリツィヤ、君もまた請い願うがいい! そのための必要なものは、既に捧げられてある。誠! 君はアリツィヤの言葉を漏らさず聞いておくがいい。君がほんとうにアリツィヤを必要とするならば」


 その声に呼ばれるかのように、アリツィヤはゆっくりと進み、ロートラウトの前に出て、ぼろぼろになった『王』の遺骸と相対する。


 その様子を、誠は見つめていた。だが、もはや意志の力で肉体を支えるのも限界に達していた。

 知らず、誠は膝を落としていた。だが、両手を大地に突き、上体が落ちるのだけはかろうじて防ぎ、アリツィヤの背中を見据える。


 今や、視界に映るものは、アリツィヤと『王』、その二者のみ。


 いつしか周囲の景観は、完全に『王』の異界にとって代えられていた。一目見て、ただ「寒々しい」とだけ思った、完全なる平和を体現する、穏やかな草原。

 周囲を見回す。そこには、この戦いの参加者を除いた何者をも存在しなかった。


(この世界に、かれは何を納めるつもりだったんだろう)


 ここは、ただの空虚な器だ。そして今、ここはその器の深奥を意味する。


「……皆、取り込まれたのか……?」と、ルーカが呟く。それがおそらく事実であろうことは、誠にも知覚できた。


(これは……負けた、ということか?)


 誠がそう自問したところに、アリツィヤの思念が届く。


(……勝敗という意味においては、私たちは勝ちました。『王』は……滅びたのです)


 アリツィヤは、未だに立ちつくしている『王』の遺骸、その頬に手を触れる。

 かれの青ざめたようなはだも、月光をたたえたかのような髪も、もはや存在しない。そこにあるのは、ルーカの必殺の秘蹟によって灼き尽くされた、みじめな焼死体だ。だが、その遺骸は、いまだに何者かによって、滅び去ることを許されずにいる。


 アリツィヤは、ゆっくりと呟いた。


「──『王』よ、御身の夢見ておられた楽園は、いま、滅びました」


 穏やかな声音とともに、彼女は『王』の頬を撫でる。生者の頬を慈しむように。


「しかしながら、統べるものがなくとも、そこにひとの姿がなくとも、世はかわらず在りつづけ、その地に安らぐものを待ち続ける。願わくば、御身の魂に神の慈悲が与えられますように。どうか、御身が……あなたの魂が、あなたの夢見たこの地に、ひととき安らぐことが許されますように。──どうか」


 それは、『王』に捧げられた、ささやかな祈りだった。


 死闘を繰り広げ、たとえ亡骸となってもその力と妄執を失わなかった仇敵への、祈り。

 かつての君主への、祈り。

 そして、愚直に抱き続けてきた希望をいま手放そうとする者への……祈り。

 その言葉がすべて空へと溶けたとき、アリツィヤの目前で、かれの遺骸は崩れ去り、消滅した。

 まるで、迷いを断たれたかのように。


 誠と、ベルクートと、ルーカ。三人は、無言のまま見つめていたが、やがてベルクートだけが、アリツィヤのもとに近づく。


「……去りゆく魂には、導きがいるだろう。ロートラウトではないが、怯懦きょうだなき敵には、それなりの礼を尽くすべきだ」


 そう言って、かれは葬送の聖句を詠む。魂が審判の地へと迷わず進めるように導くためのものだ。その傍らで、アリツィヤは呟く。


「……実のところ、かれの魂がほんとうに許されて在るのかは、分かりません。一度は供物として捧げられた魂が、何処に行くことになるのか。それはまだ、誰にも分からない」


 その言葉に、ベルクートは首を振った。


「われらの教義は、魂の不滅を信じる。今この時くらいは我々の流儀にならうといい」


 アリツィヤは微笑みながら頷いた。


 そうして、ベルクートの詠唱が止んだとき。


「──さて、私の最後の務めを果たさせてもらおう」


 と、いつしか皆の背後に立っていたロートラウトが言った。


 その言葉に反応して振り向くと、誠は彼女の身体に異変が起こっていることに気づいた。

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