第42話 望む未来と重なる力

 だが、その失われていく感覚はごく短時間に終わった。


『……アリツィヤ! 結局、貴様のいきつくところは「犠牲」か! ……馬鹿め!』


 突如として誠の感覚に突き刺さったのは、ロートラウトの罵倒の声だ。

 その一喝によって魔術が破られたことに、アリツィヤも驚いているようだった。


「……ロートラウト、あなたがどう思おうと、私は構わない。……私がなすべきことは、この場から、皆を生還させること。そのために私が支払うべきものを惜しむつもりはありません」


 ロートラウトの声音は、それ自体が破魔の力を秘めていた。これもまた、アリツィヤの記憶から学んだ魔術のひとつなのだろう。そうでなければ、詠唱中の魔術を遮ることなどできはしまい。

 同時に、知覚の障壁を破られたことで、アリツィヤが秘匿していた知識が瞬間のうちに誠の脳裏に行き渡る。

 アリツィヤが導こうとした魔術。それは、誠がこれまでに触れたものより、遙かに旧い魔術だった。


『──生贄を差し出し、勝利を祈念する』。


 近代の魔術が完成するよりもさらに過去のこと。魔術の業に触れるために求められたのは、まさに一個の生命、ひとつの存在だった。「量」として魔力を差し出すこととは根本的に異なり、犠牲となる事物の全存在そのものを費消することにより、地域や国家、軍勢の運命すらも左右するほどの変化をもたらす。原始的でありながら、最も効果的な魔術。


 それこそが、アリツィヤとその君主の秘蹟「供犠魔術」だった。


 誠の知覚しうる領域に、アリツィヤの意図がほんのわずかな時間だけ行き渡り、そして途絶えた。アリツィヤがふたたび知覚の防御を巡らせたのだ。


 だが、誠には分かった。その一瞬だけで事足りた。

 アリツィヤが「何を」犠牲にしようとしていたのか。

 それは、彼女の肉体、彼女の魂に他ならなかった。


(なぜ……『王』を倒すことが、それほどまでに大事なのか!?)


 誠は、まるでこれまでの全ての時間……アリツィヤと過ごしてきた数日間が、今まさに消え去ろうとしていたことに気づいたとき、崩れ落ちてしまいそうなほどの虚脱感に襲われた。


「アリツィヤ……きみ自身を犠牲にして勝利を得たとしても、それが何になるんだ!」


 薄氷を渡るような戦いの果てに辿り着いたところに、彼女の姿がないということ。誠はその情景を想像しかけたが、その不吉さに耐えきれなかった。


「誠さん、私は……この戦いののちに、私が生き残り、その先の日々を過ごしていく未来を思い描くことができません。私の生命の縦糸とは、……私の主、王の凶行を止めること。その目的を失ってのちの私は、たとえ生き残ったとしても、やはり過ぎ去りし時代の残滓に過ぎないのでしょう。誠さんと過ごしたこの数日は、このうえなく幸せなものでした。小さな口約束を待ち遠しいと願う気持ちを、人として生まれてはじめて、そう思うことが出来ました。ですが……私はその日々を諦めることができます。たとえ、どんなに惜しくても。なぜなら、私はもう人ではないのですから」


 アリツィヤの表情は、誠が思っていたよりもずっと澄んでいた。だが、その迷いのなさこそが、より強い苛立ちをかきたてる。


「……目的なんか、これからいくらでも作ればいいだろう! ひとりで作れないというのなら、俺もいる! ……アリツィヤがどう思おうが、俺は、ここできみを失いたくはない!」


 わずか数日。たったそれだけで、別個の人間の間に分かちがたい絆ができるのだろうか。その答えはアリツィヤが明確に示している。誠の存在など、所詮はアリツィヤにとっては新たなる生贄、本来の目的を果たすための素材に過ぎなかったのかもしれない。だが、彼女は誠を生贄にすることを選びはせず、苦しくとも限られた魔力をもって、これまで戦ってきた。そう、今さえも!


 アリツィヤは、誠の剣幕に驚きはしたようだが、すぐに冷静さを取り戻した。


「……誠さん。忘れていらっしゃるかもしれませんが、私は『王』の凶行を一度は手助けしたのです。私と『王』がともに消え去り、誠さん、あなたはまたもとの平和な日々に戻る。……それが最善であると、私は思います」


「アリツィヤと『王』がともに消えれば、全ては解決するということかい。……そんなもの、俺は、嫌だ! 確かに以前のような日々にも愛着はある。だけど、かなうならば、これからの日々にも、今と変わらずアリツィヤがいてほしいと思う。……いや、そんなまわりくどいことを言いたいんじゃない!」


 長い長い彼女の彷徨が終わり、その果てにあるものが、ただの消滅であるのだとしたら、そんなものは認めたくはなかった。そう。


「良かったら、もうしばらく俺とここにいてくれ。俺は、アリツィヤと一緒にいたい、一緒に生きていたいんだ」

 たどり着いたのは、どこにでもあるような陳腐な言葉だった。だが、そのほかに言うべき言葉はない。


「……誠さん」


 アリツィヤは逡巡していたが、やがて微笑み、頷いた。


「諦めていたものを、失うべきだと思っていたものを……再び得られるとあなたは言ってくれる。私は……なんて幸せなのでしょう」


 アリツィヤが諦めていたもの。失うと信じていたもの。それは、ただの平穏な日々でしかない。だが、平穏をなげうつことでしか届かない処があり、誠自身がそこへの梯子を外してしまったことは確たる事実だ。


 そんなことをちらりと思ったとき、ロートラウトが力強く笑った。


「ははははっ! 誠、君がくだらぬ心配をする必要はない! 君はただ……アリツィヤと生き残れ。余力があらば、今宵の戦を覚えておくといい。いずれ酒飲み話の種にでもなるだろう。われらの争いなど、所詮はその程度のもの。これからを生きるものたちの夕べをひととき埋める、浮世離れした法螺話ほらばなし。……それでいいんだ」

 そう言い切り、ロートラウトはふたたび『王』のもとに向き直る。


 『王』の秘蹟は完成しつつあった。かれの背後に広がる『門』は、すでに誠達が目にしていたもとの世界を覆うかのように広がりつつあった。まるで、世界そのものが、新たな世界に置換されていくかのようだった。


「これが、本当にヒトの業なのか……」


 ベルクートが呟く。かれの行いうる全ての術が、もはや『王』には全く通用しなかった。肉を穿ち魔力を漏出させる短刀は、『王』のもとに届くまえに、正面を守る『異界の門』に撃ち墜とされた。天上より導かれる聖雷は、『王』の脳天を撃つ前に、異なる世界へと飲み込まれてしまう。


 その様子を見たルーカは、持てる魔力をこめた火焔を撃てずにいた。渾身の魔力をこめた火焔を放てるのは、おそらくは一度きり。かれもまた躊躇っているのだ。


「……おい、どうすればいいんだ! ロートラウトだったか。お前、なんとかして奴を黙らせろよ! さっきから『異界』の門が守りを固めていて、全く手出しができない! 偉そうな口をきくんだから、そのくらいやってみせろ!」


 ルーカの後先考えない罵倒に、ロートラウトは笑って答える。


「はははっ、元気なちび助だ。了解した。もとよりそのつもりだ。口を出すだけで済んでいたら良かったんだが、どうもお前たちは頼りないからな」


「クソッ、言ってくれるよ」


 ルーカがぼやいた。


 ロートラウトは、まるで距離を測定するかのようにゆっくりと『王』との間合いを詰めた。その動作に反応するかのように、『王』は身を守る異界の一部をもって、彼女を迎撃しようとする。細竹が撓しなうように、幾筋もの異界の門がロートラウトに斬りかかる。


 無理だ、と誠は思った。門はまさしく絶対の刃だ。存在そのものを断ち割る力は、何者であろうが抗うことはできない。


 その筈だった。無数の刃に囲まれたロートラウトは、なす術もなくなますになる。

 だが、彼女をひととき包んだ門の群れは、まるで失速し、蒸散するかのように消え去った。


「……!」


 ベルクートとルーカ、そして誠は息を飲んだ。

 黒い繭から孵るかのように、ロートラウトは姿を現した。無傷だ。


「──アリツィヤ。そうだ。それでいい」


 彼女がぽつりと呟く。


 ロートラウトの手に握られた長剣は、誠が見たところ、以前と何の変わりもないように見えた。だが、その剣先が揺らめくたび、刀身の輪郭が滲むようにぼやけていることに気づいた。


「あれは、まるで──」


 誠は言いかけた。だが、その先の言葉を発せずとも、その場にいる全ての人間が、誠の意を理解した。


 そう。ロートラウトの剣がまとう揺らめきは、まさに『王』の異界のようだった。

 彼女は剣を試すかのように数度振った。そのたびに生まれる残像は、ひとときたりとも同じ色・形を取らない。


「異界の門に抗うには、また異なる門をもって刃となせばいい、か」と、ロートラウト。

 その独白は、まるで事実を確かめているようだった。

 彼女の剣に付与された魔術こそが、アリツィヤの「次善」の秘蹟にほかならない。


「……ロートラウト。いまの私にできる、せいいっぱいです。『王』の業には及びませんが、どうか──」


 地に膝をつきながら、アリツィヤが言った。おそらく、彼女の限界も近い。


「十分だ」


 刀身を薄く覆った揺らめきもまた、異界への門に他ならない。「王」のもたらす巨大な秘蹟には比べるべくもないほどの規模だが、ロートラウトは満足そうに頷く。


「これが、本来の人の業だ。人が持てる限りの己の力を尽くした業だ。元来、人の力というのはこの程度のものさ。これ以上を……身の程を超える力を望むのであれば」と、ロートラウトは「王」を睨む。


「──人は、その存在を捧げなければならない」


 その言葉を聞いたときに、そうか、と誠は気づいた。

 恐ろしいほどに巨大な「王」の秘蹟。

 それは、かれが己の魂を大いなるものに捧げたればこそのもの。


 かれはアリツィヤの主にして、その業の師でもあるのだ。


 用いる秘蹟は「供犠魔術」。そう、アリツィヤの秘蹟と同じ。

「お前が十分戦えるのは分かった。だけど、勝てるのか?」と、ルーカ。

 その疑念に対して、ロートラウトは「やってみなくちゃわからないさ」、と答えた。


「勝率はどのくらいだ」


「四分六分、といったところか」


「どっちが四でどっちが六なんだ」、とルーカは続けざまに訊いたが、もうロートラウトは答えなかった。返答がわりの気合とともに『王』へと撃ちかかる。


 現状をもっとも把握しているのは、「狩猟場」を破られたベルクートだった。かれは手持ちの短剣を片端から『王』にむけて投げ放った。左手に掴んだ武器に祝福を施し、それを間断なく放つ。現時点においてかれが最も余力を残していることと、そもそも聖句術自体が他の魔術に比して消耗が少ないことが利した。


 ベルクートの短剣は、さながら飽和爆撃のような効果をもたらす。その防御のために割かれた「門」の空隙を縫うように、ロートラウトは長剣を徹す。果敢な攻撃によって、『王』の肉体が確実に傷ついていくのが誠の目にも見えた。


(そうだ、このまま……奴を倒してくれ)


 と、無意識のうちに誠は願っていた。血を流し、苦痛に貌を歪める「王」を見て、誠はそう願ってしまった。そのことに不意に気づいたのは、アリツィヤの心にやどるかすかな悲しみに、ふと気づいたからだ。

 アリツィヤは、すでに「王」の生存を諦めている。かれの凶行を止めるためには、かれを滅ぼすよりほかにない。そう、心に決めている。そして、いまの流れを変えるほどの力は、すでにアリツィヤの中にはない。むろん、誠の中にも。


 誠は、アリツィヤになにごとかを呼びかけようとしたが、それを止めた。いまさら彼女の覚悟を揺るがすようなことは口にしたくなかった。


(そうだ、もう、俺たちは静観するよりほかにないんだ……)


 ロートラウトの剣、そして、奇妙な縁によって共闘することとなった、ベルクートの聖句とルーカの魔術。それらの力によって『王』が滅ぼされるのは、ほんの数分後になることだろう。いかに完成者とて、いかに魂を捧げて得た力とて、それを支える肉体が滅びたならば、もはやこの世界に力を及ぼすことはできないだろう──誠は、そう強く思い込もうとした。


(そうだ、そのまま……終わってくれ!)


 誠の願いに同調するように、ルーカの火焔が解き放たれる。


「──こいつで吹き飛べ!」


 ルーカの放った一撃。それは、かつて見た巨大な火柱の集合体のままではなかった。ルーカの周囲から離れたとたん、急速に凝集し、ほんの手のひらに載りそうなほどのごく小さな火球となった。それは、まるで吸い込まれるかのように、ベルクートとロートラウトが作った間隙のなかに飛び込み、「門」によって守られている『王』の至近にて炸裂した。


「────────!」


 凝集されていた魔力が、灼熱の火焔を噴き上げる。『王』の苦悶の絶叫すらもかき消すほどの爆音が大気を震わせた。

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