第41話 楽園へ続く門

「何だ……これは!」


 ベルクートの声音が、その異変に震える。


「…………!」


 詠唱を続けるルーカは、心のざわめきに耐えるかのように、紡ぐ言葉をより靱くする。


 そして、ロートラウトだけが凄絶せいぜつな笑みを浮かべた。


「──アリツィヤ、見るがいい。おまえの主が辿り着いた、ひとつの解答を」

「……ええ」


 アリツィヤの面持ちは硬く凍り付いている。


 その異変を前にして、誠はようやく立ち上がることに成功した。

 肉体的な損傷はない。だが、もはや精神が朽ちかけているのが自分にも分かる。ロートラウトを現界に喚ぶための力が、己には大きすぎたのだ。


 だが、今。誠が用いた魔術などとは比較にならないほどの巨大な力が、『王』のもとに集い、充溢していくのがはっきりと分かる。


(始まる。……何かが……?)


 王の頭上に、破裂しそうなほどの力感にみちた歪みがうねった。それは「異界」が現れるときの前兆に酷似していた。だが、そこから生まれたのは異界の断裂ではなかった。一点の光芒が生まれ、同時に猛烈な圧迫感は一瞬にして消え去った。闇に穿たれた針穴のような光は、ごく穏やかに広がっていく。そこには、もはやベルクートの『狩猟場』による制限は全く及んでいないようだ。あまりに強大な魔力が凝集したことが、聖句による強制力をも打ち破ったようだ。


(いや、消えてはいない。全てが……あの光の内に)


 混濁した意識を、広がりゆく光が貫く。

 目を細めて眩さをこらえながら、誠は周囲を見渡す。


「鮮やかだな……。目を閉じるな。真白き闇の中を見通すといい」


 軽やかな笑声とともに、ロートラウトは言った。その言葉には、心からの感嘆が込められているようだ。


(何が起こっているんだ?)


 言われた通り、誠は目を凝らして光の中を見つめ続けた。視神経を通して脳を灼くかのような光だ。だが、その光はやがて穏やかなものになっていく。


「これは……!」


 誠は目を疑った。他人はどうかと思い、ベルクートとルーカを見やる。彼らもまた、言葉を失っている。


 『王』の頭上で、光とともに拡散したもの。それは、まさしくもうひとつの世界だった。これまでのような、ただの空間の断裂ではない。言うなれば、それはこの世ならぬどこかに通じる「門」とでも呼ぶべきもの。


 ここに至って、初めて誠は、王の用いる力が『異界』と呼ばれる理由を真に理解した。


 虚空に切り開かれた「門」。その向こうには、異なる世界の風景がはっきりと見える。鮮やかな空の青と、草原の緑。その二色が、世界の天地を隔てていた。そして、彼方には、そよ風にゆらぐ樹木の枝葉と、その周辺に戯れる小動物の姿が見える。……まるで幼児が画用紙に書き殴った世界をそのまま具現化したような、あまりにも単純な光景だった。まさしく、楽園がそこにあった。「ひとの心を安らげるための要素」以外の何者をも見いだすことができない。


「平和な光景……いや、違う。これは心を砕かれた者の庭だ」


 誠は呟いた。その言葉に裏付けはない。ただ直感だけが、認識の正しさを保証する。


 人の心を委ねるには、その世界は美しすぎた。例えるならば、それは宗教画の背景のようなものだ。凡人が背負うには、あまりにも生硬せいこうに過ぎるのだ。

 夢想の世界。人界の昏さを根源まで拭い去ったあとの……ただの虚構。


 ただ見ているだけで、誠は不安と怯えが膨らんでいくのを感じて、たまらず目を背けそうになる。


 だが、そんな自分に向けられた声があった。


「誠。あれこそが『王』の求めた世界だ。あそこへの道筋を作りたいがために、奴はアリツィヤに魔道を強い、そして私を生贄とした。……こんなことを言うのもなんだが、君が私に仮初めの身体を与えてくれたことに、感謝するよ」


 このとき、ロートラウトは獰猛な笑みを浮かべた。


「どうやら私はかなり執念深い性質であったようだ。ここで奴と戦えることが……震えるほどに嬉しい!」


 溢れんばかりの気迫とともに、ロートラウトは長剣を構えた。その半歩後ろで、アリツィヤが追随の姿勢をとろうとした。だが、

「アリツィヤ! 剣を持つのは私の務めだ。お前は魔術師としての務めに戻れ」

 と、ロートラウトが制した。

 アリツィヤは黙って頷き、はじめて大剣を己の意志で手放した。ロートラウトの模倣としての剣士ではなく、永き時を生き抜いてきた魔術師として。


 既にベルクートは「狩猟場」の詠唱を止めている。左手に手挟んだ短剣に聖句の力を宿し、次なる一撃に備えていた。


「惨めなものだ。最後の最後で、頼みの秘蹟が全く通じんとはな」


 その苦々しげな呟きとともに。


 ルーカの秘蹟「火焔密集陣」はすでに完成した。彼の両脇では、巨大な火柱が解き放たれる瞬間を待つかのように轟々と猛っている。


「いつでもブチ込んでやれる。これで……奴を黙らせる」


 その目は、ただ王のみを見据えていた。


 残された誠は、このとき、己の魔力がほとんど失われていることに不安を覚えた。


(俺が……今……出来ることは……)


 魔力もあらかた使い果たし、もはや呪文の詠唱さえもおぼつかない自分など、この場に存在する意義はない──誠はそう思った。もう倒れ伏してしまえばいい。これから先は、力ある者たちがきっと良いようにしてくれる。もしそうならずとも、それは余人にとっても不可能であったに違いない──。


 そんな思考が脳裏をよぎった時に、アリツィヤからの叱咤するかのような思念が届く。


(……誠さん。私は、私のやるべきことを、いまからします。おそらく、これで最後です。あなたの……あなたの力を貸して下さい)


 最後、とアリツィヤは言った。その思念にやどる強さに、誠はすこしひるんだ。


(アリツィヤ、今の俺になにが出来る? ……もう、俺にはなんの力も残っていないんだ)

 偽らざる気持ちだった。だが、アリツィヤは振り向くと、誠を励ますかのように微笑んだ。

(大丈夫です。この魔術に必要なものは、あなたの魔力ではありません)


 魔力を消費しない魔術……そのようなものがあるのか、と誠はちらと思った。だが、その疑念をかき消すかのように、アリツィヤはさらなる言葉を重ねる。


(私の紡ぐ言葉に、あなたの唇を沿わせてください。……これまでに、そうしてきたように。何も変わりはありません)


 要は「怖れるな、落ち着け」ということか、と誠は思った。だが、それを伝えるアリツィヤの思念こそが、どこかに焦りのようなものを隠しているように感じた。そこに疑いは残るが、アリツィヤの言葉に抗うだけの理由はない。誠はそのまま頷いた。なにより、疲弊しきった精神が、疑念を問いただすだけの余力を持っていなかった。


(……これじゃあまるで、人形だな)


 従うと決めたとたんに、彼女の言葉は、まるで呪的な力を持っているかのように、するりと誠の思考に染みこんでしまう。アリツィヤの心は、あまりにもよく馴染む。「あらかじめ自分がそうすべきだと思っていたかのように」。


 唇が、腕が、手指が、ひとりでに動くかのように魔術を行使しはじめる。

 だが、自分が何を詠唱しているのかは、全く見えてこない。



『       』



 これまでに用いてきた魔術は、詠唱することでその呪文がなにを体現するのかを、アリツィヤの知覚を介して知ることができた。だが、この呪文がもたらす感覚は、全くの空虚だ。おそらくは、アリツィヤ自身が感覚を遮断しているのだろう。


 だが、長い長い呪文を詠唱していくことで、封じ込めていた疑念がどんどん膨らんでいくのを誠は感じた。

 ──駄目だ。この呪文は、なにかとりかえしのつかないものを求めている──!

 止めたい、止めなければ、と誠は願った。

 だが、もはや己の肉体が、アリツィヤの意思を体現するためだけの機械と化していることを誠は今更のように知った。


(…………)


 肉体と思考が完全に遊離してしまったことで、無風のうす暗がりのなかで膝を折りうずくまるかのように、全てのできごとが急速に現実感を失っていった──。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る