第40話 騎士

  脳裏に響いた声の主、それはロートラウトのものだった。


「……誉めてくれるのは嬉しいけど、今はそれどころじゃないんだ!」

 気を散らされた苛立ちから、あえて突き放すような態度を取ってしまう。


(……そうだな、そうかもしれないな。だが、すこしだけ時間を寄越すんだ。――この戦いに勝ちたいのなら。そして、この戦いに生き残りたいのならば。それが嫌なら、さよならだ。もう二度と言葉を交わすことはないだろう)

 以前のような、言葉遊びを思わせる軽やかさはない。有無を言わせぬ調子に、誠は少しひるんだ。

「どういう事だ」

(誠、君はいまの戦力で、この戦に勝てると思うか?)

 その問いに、何をいまさら、と誠は吐き捨てた。今は一瞬たりとも隙を作りたくはないというのに、そんな問答を行う時間などありはしない。

「ロートラウト! そんな下らないことを喋ってる場合じゃないだろ! 勝てるかどうかなんて関係ない、全力を出し切ってやるさ! あなただって言ってたじゃないか。『戦いは博打だ』と――」


(のぼせるな、青二才!)

 誠がそう言いかけたとき、ロートラウトは鋭く言い放った。


「…………」

(全力を尽くせば勝てるのであれば、この世に敗北者などはいない。敗者たちはみな、持てる力の全てをもって戦い、そして負けたんだ。死力を尽くしてさえもなお及ばぬ世界はある。だが、その世界に踏み入れる資格は、まだ君にはない。そして、勝てる見込みのない戦いに、君の若い命をあたら失わせることはできない。……そのことは、わかってくれるだろう?)


 真理だ。頷くのも悔しいが、誠は黙って頷いた。

「……なら、まだ、他に有効な手立てがあるのか? 今の俺が出来ることで」


(ああ。私からはひとつだけ示すことができる。それが最善の方法であるかは分からないが、少なくとも君とアリツィヤたちを守ることはできる。……約束しよう)

 ロートラウトの言葉に、またいつもの軽やかさと穏やかさが戻った。誠は姿なき彼女の言葉にうなずいた。


(よし、誠。今から私が指し示す魔術を使うんだ)


「……魔術? ロートラウト、あなたは騎士ではなかったのか?」


(アリツィヤの魂に、数百年ばかり厄介になっているんだ。ひとつくらいの余技はできるさ。それに、この魔術は、おそらく君がアリツィヤの記憶を探ったとしても見つけることはできないだろう――)


「…………?」

 その言葉に、誠は疑問を抱く。ロートラウトが得られる魔術は、アリツィヤの知識に由来するものでしかない。そうであれば、誠がアリツィヤから得られない魔術とは、アリツィヤとロートラウトの間のみに共有されうる魔術にほかならない――。

 そのことに思い至ったとき、アリツィヤが鋭く叫んだ。

「いけません、ロートラウト! それだけは!」


 だが、ロートラウトはその声を無視した。

「さあ、誠。心を穏やかに保て。そして、私が伝える手続きをなぞるんだ」


「だけど、アリツィヤが……」


「彼女のことを気にするなとは言わない。だが、この一度だけでいい、私の言葉を信じてくれ。その信頼にはなんとしても応える。君と……アリツィヤを、守ってやろう」


「……分かった」


 誠がそう答えるのを確認したのちに、ロートラウトはこう続けた。

「……アリツィヤ。お前の甘さは、嫌いではないよ。だが、今この時においては、それは厭うべき弱さだ。それくらいは分かるだろう? もしも分からないのなら……もう話すべきことはない」


「…………」

 果たしてアリツィヤがその言葉に頷いたのか。それは分からない。だが、ロートラウトは返答を待たずに言った。

「いくぞ、誠」


「ああ」

 ロートラウトの精神に、己の知覚を委ねる。外界の情報から徐々に遠ざかり、感覚の全てが彼女からの思念に満たされる。

 アリツィヤとは異なる感覚だ。淀みなく、迷いがない。

 奔流のように流し込まれる思念を、余さず自分自身の肉体によって表現する。

 言語情報はいうに及ばず、一個の肉体によって示しうる全ての「意味」が、ひとつらなりの呪文を描き出す。



『       』



 かつてないほど複雑な呪文に、誠は夢中で心を沿わせた。

 そして、正しき手続きにより「意味」は成立し、それに相応しい返答が、この世界にもたらされる。


(だけど、この呪文は──)

 違う、と誠は感じた。これまで、このごく短い期間に触れたいくつかの魔術とは、根本的になにかが違う。

 この魔術の詳細は、けしてひとときでは把握しきれない。だが、これがなにか、とてつもないものを代償に求めていることだけは分かった──。


「う、あぁぁぁっ……!」

 言いしれぬ怯えが背筋を舐める。だが、もはや後戻りはできない。成立した魔術が、それにふさわしい代償を求めて狂い暴れ始める。


 刹那、がくん、と力が抜けた。

 失われたのは、生命を生命たらしめる力だ。


「……なんだ、これは……」

 ただの一声も発することができず、誠は地に手をついた。

 人間存在の基幹たる魔力がとめどもなく失われていく。精神は疾く汚損され、思考を維持することすら困難になる。

「…………」


 だが。崩れ落ちそうになる思考を支えてくれたものがいる。

 ロートラウトと……アリツィヤ。


「誠さん……」


 如何なる魔術を使っているのかは判然としない。だが、アリツィヤから委譲された魔力が、千切れ飛びそうな精神をつなぎ止めてくれていることだけは分かった。


 そして、ロートラウト。


「──よく、やり遂げた」

 その声は、すでに心の中のみに響くものではない。


「ロートラウト……!」

 名を呼びながら、誠は面を上げた。倒れ伏した体を起こし、その声の主を仰ぎ見た。


 そこに見えたのは、かつてアリツィヤが見せた幻そのままの姿だった。

 動きを損なわないように工夫された甲冑に身を包み、白地に黒十字をあしらったサー・コートを纏っている。暗雲をぬって高みより差しおろす月光を受けて、真鍮のごとき金髪は、王冠のように輝いていた。背には、たすきがけに負った長剣が一振り。


 その姿は、確かに幻ではなかった。


 彼女は、力づよい笑みとともに、言った。

「じかに見えるのは、これが初めてだな、誠。君の魔術によって、私はふたたび現世における肉体を得た。……苦しかったろう。だが、それに見合う以上の働きを……私は君に捧げよう!」

 宣言するかのように言い放ち、ロートラウトは背中の剣を抜いた。両手持ちの大剣だ。


 誠は、上体を起こした姿勢のまま、残りの力を振り絞って、彼女の剣に魔力を付与した。鈍い鋼の輝きをたたえた刀身に、わずかながらも、更なる輝きが宿る。

「……無理をするな。だが、感謝する」

 ロートラウトの言葉に、誠は頷く。もはや発声することも困難なほどに疲れ切っていた。


(……これで……いま、俺に出来る事は出来たかな……)

 このまま崩れ落ちて昏倒してしまいたい。肉体はそれを望んでいる。だが、この戦いを見届けたい、という望みだけが、かろうじて意識をつなぎとめていた。


 誠は『王』を、そして『王』に向かっていく二人を見た。


「──終わらせてやる!」

 ロートラウトは一瞬のうちに間合いを詰めた。狩猟場の歪みすらも切り裂くほどの一撃を、あやまたずに『王』の肩口に撃ち込んだ。閃くように鋭く、そして砕くように重い。アリツィヤの剣技が彗星のような鮮やかさであるのに対し、ロートラウトの剣は地表を叩き穿つ流星のようだ。


 その一撃を『王』はからくも受け流す。それはアリツィヤの魔剣に比べればはるかに劣る、わずかな魔力を帯びた剣による一撃にすぎない。だが、そこには魔力の干渉を幻視してしまいそうなほどの力が込められている。


 ロートラウトの剣勢を殺しきれず、『王』は大きく体勢を崩した。ぐらり、と馬上の体が揺らぐ。そこにアリツィヤの次なる刃が横薙ぎに撃ち込まれた。


「──ぃやあぁぁっ!」

 既に姿勢を崩していた『王』は、襲い来るアリツィヤの剣を凌ぐことはできなかった。魔力の注がれた切先が、『王』の左肩を捉えた。ざくりと沈み込んだ刃から、魔力が溢れる光芒となって放出される。その光は傷を灼き広げ、肉体の奥へと浸襲していく。


「──────!」


 『王』の苦痛の声を、誠ははじめて耳にした。アリツィヤの知覚を介するまでもなく、それは理解できる。

 『王』の肉体は地に墜ちた。それとともに、これまでかれを支えていた軍馬は、一声もいななくことなく霧のように闇に溶けていった。おそらくは、主の魔力を借り受けることで、かりそめの姿を支えていたのだろう。


 『王』は立ち上がり、アリツィヤとロートラウトはふたたび剣を構え直す。

 ベルクートの狩猟場は今も標的を捕らえつつあり、ルーカの詠唱は、間をおかずに完成することだろう。


(これで帰趨は決した)

 と、誠は思った。おそらくは、この場にいる誰もがそう思ったことだろう。

 だが、その予断はすみやかに打ち砕かれた。


「……奴め、いまだ力尽きてはいないとみえる」

 ロートラウトが呟いた。


 立ち上がった『王』は、ふたたび身構えることはなかった。それどころか、かれは唯一の武装である長剣を、足下に手放しさえした。

 丸腰の『王』は、ただ佇立している。

 その青白い面貌からは、怒り、恐怖、諦めといった、感情の揺らぎを窺い知ることはできない。


(……命乞いをするような奴では……ない)

 その異様な光景を目にして、誠は思った。


 かれもまた、アリツィヤと同じように苦難にみちた旅程を経てきたがゆえに、この地に立っている。心から餓え、請い希ったものがなければ、かれの魂はその重みを支えることができず、自壊してしまっている筈だ。


 甲冑も、武器をも無くした『王』は、まるで何かを迎え入れるかのように両手を広げた。その無防備な姿は、かれが突如として戦いを忘れたかのようだ。



 だが、その静寂は一瞬にして終わりを迎えた。

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