第35話 喫茶店にて

 ――喫茶店「イントッカービレ」。


 ここでの面会を提案したのは誠だったが、それはこよりとベルクートにも容れられた。


 先に着いた誠とアリツィヤは、店の入り口からやや離れて、表通り沿いのガラス窓にほど近い、四人がけの席に並んで腰を下ろしている。

 前回に訪れたときは、二人がけの席に差し向かいで座ったものだったが。


(つまらない用事で来てしまったな)


 いつかは、アリツィヤとの歓談のためだけにここを訪れたいものだ、と思いながら、誠はちらりと隣のアリツィヤの横顔を窺った。彼女もまた、やや緊張したような面持ちでプラムティーを口に運んでいる。唇を湿すためだろう。視線を外すと、目の前で湯気をたてているホットコーヒーが目に入る。まだ少し熱そうだ。


 しかし、張りつめているのも嫌なものだ。あえて、周囲に目を向けてみる。よく調和のとれた調度類は、普段ならば落ち着いて見るだけの価値があるだろう。

 店の奥にあるオーディオから流れる、つややかな声楽曲も同様だ。雰囲気を愉しむための所を、どこか冒涜してしまっているような気分になる。


 そして、何もできぬまま、ただ時間の経過を待つ。

 掛け時計の針がきざむ周期的な機械音のみに、意識を投じる。余計なことを考えないために。


 数分ほども過ぎたとき。

 不意に、ドアベルが涼やかな鐘の音を慣らした。


「――釘乃君」


 ドアを開けて入ってきたのは、こよりの姿だ。


「…………」


 それに続いて、無言のベルクートが顔を覗かせる。


「紙宮、こっちだ」


 誠はこよりを手招きした。近づいてくるこよりの背後に、しごく落ち着いた足取りで、ベルクートがつき従う。同時に、かれの身にまとう平服の、右袖が空であることにも気づく。


(……腕はどうした?)


 あの戦いの夜。誠たちがベルクートの手を借りて離脱したその時には、かれは腕を負傷してはいなかった筈だ。つまり、そののちの出来事で、右腕を喪ったということになる。

 「王」か、と誠は小さく呟いた。隣のアリツィヤもまた、その言葉に反応する。


 しかし、この場にベルクートを連れてきたこよりからは、突然の右腕の喪失を気にする様子は微塵も感じられない。――という事は、すでに何かしらの術を用いて、「彼は初めから隻腕であった」と受け入れられているのかもしれない。


 ならばあえて言及はするまい、と、誠は思った。


 そのこよりが、まずテーブルを挟んで席に着いた。誠の正面だ。そして、ベルクートがアリツィヤの前に座る。四人が着座したところで、こよりが口を開いた。


「……釘乃君、えーと」


 微妙に困ったような表情をしている。


 それもそのはずだ。たった一度すれ違っただけ、ということになっているベルクートが、どのような理屈でアリツィヤに渡りをつけようというのか。間に挟まれたこよりも、どう切り出したらいいのか悩んでいるようだ。


「まずは、改めて自己紹介でいいんじゃないか。……アザトさん、ですよね」


 言いながら、誠は一瞬だけベルクートと視線を絡ませた。かれは頷き、


「はい。私は、アザト・ユリコフといいます。農学を学ぶためにロシアから来ました。こよりさんの家にホームステイさせてもらっています」


 そう言って、ごく自然に目礼をした。

 のちに、アリツィヤの言葉を待つかのように視線を落とす。

 アリツィヤもまた、典雅に一礼し、


「私は……アリツィヤ。旅行者です。縁あって、この町に滞在しています」


 と、ごく簡潔に語った。


 そこに、カウンターから伝票を手にしたウェイトレスが近づいてくる。この小さな店の、唯一の従業員だ。

 ご注文はお決まりですか、と彼女が言うと、先程からメニューのドリンク欄を見ていたこよりは、


「アイスミルクティーをお願いします。アザトさんは?」


と、メニューをベルクートに手渡す。


 かれは、しばらく眺めたのちに一言。


「カフェ・スラブを」


 ウェイトレスが去り、注文した飲み物とともにふたたび彼女が現れるまで、しばし白茶けたような時間だけが流れた。


 テーブルに新たに置かれたアイスミルクティーと、バニラエッセンスの香気を発する、ホイップクリームの乗ったロシア式コーヒー。こよりは戸惑ったような微妙な表情で、ずず、と音を立ててストローを吸った。ベルクートは、どこか懐かしむようなほろ苦い表情を浮かべながら、ゆっくりとコーヒーの香味を味わっているようにも見えた。その様子には、戦いのさなかに見せるような獰猛さは感じられず、年齢相応の落ち着きのようなものが、誠には見て取れた。


(しかし、こよりを同席させた状態で、あまり突っ込んだ話はできないな)


 こよりの話しぶりから察するに、まだベルクートの正体については知らないようだった。この場で魔術師がどうこう、という話をするのは得策ではない。誠はアリツィヤに思念を伝えた。先日、ともに戦いに臨んだときと同じように、今も魔力と意識の共有を可能にする術式を受けている。


(アリツィヤ。俺は紙宮と一緒にここを出るよ。何かあったら知らせてくれ。すぐに駆けつけられるようにしておくから)


 その思念に呼応するように、アリツィヤはちらりと誠の様子を窺ってきた。一瞬だけ視線を合わせて、すぐに外す。


(……ええ、お願いします。ですが、ここでかれが仕掛けてくることはないでしょう)


(何故?)


(片腕を喪ったかれには、もはや攻防を両立しうるだけの術はありません。そのことは、本人がいちばんよく分かっているはずです)


(……ああ。それじゃあ、あとは頼むよ)


 それだけを伝えて心話を打ち切ると、誠は自前のコーヒーを手早く飲み干した。

 そして、目の前でミルクティーをすすっているこよりの脚を、ちょんと爪先でつついた。テーブルの下での出来事だ。


「……なによ」


 ストローから口を離して、こよりが言う。


「それ飲み終わったら、俺たちは出ようか」


 そう小声で水を向けると、こよりはさらに困惑を深めたように、


「えっ? ……そりゃ、私はいいけど、釘乃君はいいの?」


 と訊き返してきた。


「いや、だってさ、今回の主役はアリツィヤと……アザトさんだろ? 俺たちがいたんじゃ、話なんかできっこないぜ」


「いや、そうじゃなくって。釘乃君はアリツィヤさんを放っといてもいいの? って事。別にいいならいいけどさ」


「いや……俺は」


 アリツィヤをちらりと見る。彼女は微笑んでいる。


「べつに構わないさ」


「……ふーん、ならいいかな」


 どうも納得しきっていない調子だが、こよりは一応は頷いて、ミルクティーの残りをずずず、と吸い上げた。


 ――店内にアリツィヤとベルクートを残して、誠はこよりと連れ立って外に出た。


(だけど、そう遠くに行くわけにはいかないか)


 隣を歩くこよりの姿は寒そうだった。先ほどまで、暖房のきいた店内で、よく冷えたミルクティーなどを飲んでいたのだ。きっと長居をするつもりだったのだろう。


「ううう……寒い。あの二人は放っとくとして、私たちもどこか暖かいところに行こうよ」


 手袋をはめた手をこすり合わせながら、こよりはそんなことを言ってきた。


「ああ」


 返事をしながら、周囲の町並みを見回す。住宅街にほど近かった喫茶店から離れて、いまは商店街の入り口あたりを歩いている。日曜の午前中だ。人通りはそれなりにある。


 しばらく歩くうちに、店内にテーブルを備えた洋菓子店をこよりが見つけたので、そこに入ることにした。


「――ラ・パティスリー・みのり屋……。独特なセンスの店名ね」


「名前はともかく、まずは入ろうか」


 店名の印刷が入った自動ドアを抜けると、ふわりと甘い空気に包まれる。まずは入り口の近くに積まれたトレイを手にとって、ガラスケース内のケーキ類を物色する。誠はビターチョコムースとクランベリーのケーキを選んだ。ドリンクはホットティー。こよりは随分長いこと悩んでいたようだが、やがて目的のものが決まると、店員に颯爽と告げた。


「えっと、この『春期限定いちごタルト』と、『おいしいココア』をお願いします!」


 会計をさきに済ませて、誠とこよりは窓際のテーブルについた。今度は最初から差し向かいに座った。


「……まあ、四人でお見合いするのもばからしいから、こうやって二対二で別れるのが正解だったのかもね」


 と、こよりは幾分リラックスした調子で言った。


「そりゃそうだ。俺だって、あの二人の横で、何をしゃべればいいのかなんて分からないよ」


 と答えると、こよりはうんうんと頷きながら、目前のタルトにさっくりとフォークを入れた。


「……いやほんと、アザトさんったら唐突なんだもん。『前に出会った人が忘れられない。もう一度会いたいから、こよりさんの友達に連絡を取ってもらえないか』だって。第一印象だと、もっと落ち着いた人だと思ってたんだけどな……」


「……確かにな」


 苦しい言い訳だ。そんな情熱的な台詞が似合う男ではないだろうに。

 チョコムースにフォークを入れながら、誠はこよりに話すべきこと、訊くべきことを考えた。


(また情報収集か。我がことながら、似合わないことをやってるよ)


 心のなかで自嘲しながら、目の前で熱いココアに息を吹きかけているこよりを見る。


「……? どうしたの? ぼんやりして」


「いや、何か話そうかな、と思ってたんだけど、ちょっと考えがまとまらなくて」


「まあ、私はアザトさんのこととか喋ろうと思ってたんだけどね」


 そう言って、こよりは、はあ、とため息をついた。混乱しているような表情だ。


「どんなこと?」


「あの人、なーんか、色々と隠し事してるっぽい」


「…………」


 それはそうだ。隠し事もなにも、かれが学生を名乗って紙宮の家に滞在していること自体が、偽装にすぎないのだから。


「まあ、ああいう不思議な雰囲気のお客さんはこれまでにもいっぱい来てたからいいけどね。……お父さんもお人好しというか、なんというか」


「紙宮のお父さんが、アザトさんみたいなお客さんを呼んでるのかい?」


 誠がそう訊くと、こよりは強く頷きながら、タルトの上のいちごをフォークで突き刺した。


「そう。お父さん、大学の留学生支援センターに勤務してるんだけどね、その縁で外国からの留学生のお客さんがすごく多いの。とはいっても、そんなに長く滞在した人はあんまりいないけどね。入れ替わり立ち替わりって感じ。もう慣れちゃった」


「へえ」


「……今回来たアザトさんは、日本語でのお話も出来るし、ちょっと素敵だから少しでも喋ってみたいなって思ったわけ。でも、前にも話したけど、お父さんとばっかり話をしてるし、普段は外に出ずっぱりだから、なかなか機会がなくってさ。で、ようやく一緒に外に出られたと思ったら、今度は道でばったり会ったアリツィヤさんに一目惚れ。……ねえ、こんな事ってある!? ていうか、私、なんか悪いことした!?」


 憤慨とともに、こよりはタルトの台座を割り砕き、まだ熱いココアをきゅーっと飲み、そしてむせる。せっかくの美味しいデザートセットが悲惨なことになっている。


「……いや、その……ご愁傷様。たぶん、紙宮は悪くないと思うよ」


「だよねー。基本的に私は悪くない。でも、アリツィヤさんに魅力的に負けていることは……認めなくもない。ていうか釘乃君はアリツィヤさんを放置しておいて平気なの? もしかしたら、アザトさんに取られちゃうかもよ!」


 怒りの矛先が、よく分からないうちに誠に向きそうな気配になっていた。


「あ、いやその、でもほら……アザトさんにもチャンスをあげろっていったの、紙宮じゃないか」


「あー、その、私は立場上そう言っただけ! 釘乃君には、それをはねつける権利ってものがあるの! あったの! なんで、そうしないの!」


「……多分、そんな恋愛ドラマみたいな話にはならないと思うから」


 あの二人が語らうべきは、ただひとつ。次の戦いについてだけだ。が、その前振りの白々しさは、まさしく茶番だった。

 だが、こよりは誠の言葉を、すこし誤解したようだった。


「……ふーん。アリツィヤさんのこと、信じてるのね」


「ああ」


 その誤解を解くのは、もうすこし後でもいい。

 答えながら、誠はビターチョコムースの切片を口に運んだ。

 ほろ苦く、そしてかすかに甘かった。


 困難ののちの喜び。全てがそうであって欲しい、と誠はふいに思った。

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