第19話 年相応

 ――ここに来ると、ほんの数日前から連なるとても奇妙な出来事が、すべて嘘になってしまったような気がする。そんな錯覚を招くような穏やかさが、この場所にはあった。


 いつもどおりに通う高校の、見慣れた教室。そこに整然と並ぶ席のうち、教室中央のあたりが誠の場所だ。椅子に腰掛けながら、背もたれに体重をかけて、椅子の前脚二本をふわりと浮かせた。

 そのままうまくバランスを取って、後脚だけでシーソーのように支える姿勢を保つ。

 ぼんやりとしながら過ごす、端から見たら間抜けな姿勢での休憩時間。あと一時限の授業が終われば、ここから開放されるのだ。


(……早く残りの授業が終わらないかな)


 そんな妄言を心の中で呟きながら、はや心は町橋内科診療所に移ろっていた。


 そうだ。アリツィヤの顔を、今すぐにでも見に行きたい――。


(魂のつながりだのを差し引いても、これだけ気になるってことは……うん)


 あの人のことが、とても気になる。

 たしかに興味本意かもしれないし、まだまだ希薄な縁ではあった。

 だけど、だから、できればでいいから……もっと仲良くなりたい。


(こんな感情が、俺にもあったんだな)


 ちょっとした驚きだった。

 これまでは、自分はもっと淡泊な性格をしているものだと思っていたのだから。

 と、物思いにふけりながら、傍目には暇そうな動作でゆらゆらと椅子バランスをとっていると。

「――うりゃ!」と、後方から何者かが椅子の後脚をこつんと蹴った。


「……っと!」

 結果、誠はバランスを崩して後ろにつんのめりそうになる。が、その人物が絶妙のタイミングで背もたれを支えてくれたおかげで、誠は大事なく前方に前脚を着地させることができた。


「……何だよ」

 と、誠が振り向くと、そこには後ろの席のクラスメイトである「小科蓮太こしなれんた」の姿があった。

「なんだ、コシレンか」

 極めてありがちなあだ名だが、彼はクラス中の誰からもそう呼ばれることに、きちんと納得できているらしい。それはそれで凄いことだ。


 そして、件のコシレンこと蓮太は、その名に似合わぬなかなかに細面で男前な顔をにやつかせて、誠のつむじを指でつついてきた。

「誠、なんかここんとこ機嫌いいじゃん。良いことでもあったの?」


「良いこと? ……ああ、あったよ」


「どんなの?」


「すごくいい人と知り合いになれ……そうになってる」


「女?」

 彼からの、おそろしく直截的な質問だ。


「……そうだけど」

 と、誠がすこしだけためらいながら答えると、蓮太はさらに突っ込んだ質問をぶつけてきた。


「まじか? どんな感じなの? 顔かわいい系? それとも綺麗系? 髪とオッパイとお尻と脚はどうなの? あと服とか」


「えっと、顔は、すごく綺麗……だった。髪はサラサラの金髪だったし」


「金髪ってことは、外人さん?」


「多分」


 と、誠がそこまで答えたところで、蓮太は興奮の叫び声を上げた。

「うおおっ! まじ? 金髪美女と知り合いって! 信じらんねえ! じゃあさ、あとオッパイとお尻と脚は?」


「……そんなこと俺に訊くなよ……」

 現時点では答えられないし、もし分かったとしても、それを広言できるほどアグレッシブな性格ではないしな、と誠は思った。


 それにしても、である。蓮太のストレートな質問の後半部分……ありていに言えば、オッパイとか脚とかお尻とか……への解答に、いつか辿り着ける日が来るのだろうか、と、誠は思い悩んでしまうのだ。テレビドラマを見ていても、少しアダルトなシーンが出ただけで気まずくなってしまうような家庭に暮らす自分が、果たしてアリツィヤとそんな関係になれるのだろうか。そして、あわよくばその先に存在するはずのさらにアダルトな……。


 と、妄想はとめどなく流れ続けていたが、ふと我に返る誠だった。


(……あ、いけね、おもいっきり思考がワープしちゃったよ)


 数秒前までの自分の発想の、その貧困さに赤面しつつも、当面の目標である「でも、もっと仲良くなりたい!」を実行することには、大いなる意義を感じていた。


(よし、とりあえず頑張ろう)

 ……と、決意もあらたに誠が面を上げると、そこに見えるのは、やはり鼻の下を伸ばしっぱなしにした蓮太の姿だった。

「誠ぉ、だからさ、まずはその金髪様のオッパイだって」

 と、相当にフランクな質問を連呼する蓮太。黙っていれば美男子グループの末席を暖めることも可能なのだろうが、内面がすべてを台無しにしているなあ、と誠は考えるのだ。もちろん、質問に対する解答など持っていない。


「だから俺に訊くな!」

 と、誠が蓮太の顔を押しのけようとしていると、そこに二人の女生徒が、見るからに苛々した様子で近づいてくる。

 紙宮こよりと、その友人の柚木藤乃ゆのきふじのだった。


 すこし化粧っ気があって、でも童顔で、そして快活そうな印象のこよりと、和風でありながらもちょっとキツい顔立ちの藤乃。二人は、誠たちの前に並び立つと、まずはこよりが口を開いた。

「ちょっと小科君、さっきからバカみたいなことわめいて、何考えてるの?」

 と、言う。それに藤乃も同調して、「もう、コシレン君も誠君も信じられない!」と、誠たちを一緒くたにして抗議をぶつけてくる。


 一緒にするな、俺は被害者みたいなものだろう……と誠が応じようとすると、それに先んじて、蓮太はこう答えた。

「うるせーな、いま忙しいんだよ! お前らみたいなお子さまに用はねえ。いま一番大事なのは、誠の彼女の金髪オッパイ様の話なんだよ!」


 その言葉を聞いて、露骨に顔をしかめる女子二人。

 明らかに引いている藤乃が、蓮太に言う。

「最低ね。私たちも大事な話してるんだから、横でバカみたいなこと言ってうるさくしないで! 誠君もね!」

 蓮太に向けられた藤乃の鋭い視線がそのまま横滑りして、誠にも突き刺さる。


「だから俺は関係ないって。……ところで、柚木たちの大事な話ってなに?」

 と、誠は露骨に話をそらそうと試みる。とりあえず話題の主役を、もうちょっとマシなものにシフトさせる必要があった。


「え、私たちの? あー、うん。こないだコヨリンのところにさ、ホームステイ……っていうか、留学生の人が来たって話があったでしょ?」


「ああ」

 どうやら、話題の転換は成功しそうだ。


「その人がさあ、たしかになかなかのイケメンさんだったらしいんだけど、肝心のコヨリンにはあんまり構ってくれないみたいなのね。……じゃ、ここからはコヨリンに訊いてよ」

 と、藤乃はこよりの肩をずずっと押した。こよりは、もう、と呟きながらも、誠と蓮太の前に立ち、渋々ながらも説明を始める。


「……えーとね、こないだホームステイの人が来るって言ったよね。それで、ここ数日は一緒に暮らしてるんだけどね、その、なんか思ったほど親しくなれないなーって思ってるの」

 こよりの家にホームステイしているのは、話によれば、ロシア人の青年らしかった。


「なんで? 家族の人と上手くいってない、とか?」

 と、誠が訊くと、こよりは首を振って否定した。

「ううん。なんか、うちのお父さんとは仲がいいみたいなの。男同士で書斎にこもって、外国語でお喋りしてるんだもん。わたしなんか蚊帳の外だよ? なんかちょっとガッカリしちゃった……」

 そう言って、こよりは口をへの字にした。


「紙宮も紙宮で大変だなあ」

 誠がそう呟くと、こよりと藤乃も頷いた。

「でさ、なんかいいアイディアがないかなーって、私たち相談してたの」

 と、藤乃が言った。


「……うーん」

 紙宮こよりと、その家庭にホームステイしているロシア人青年との、交流の糸口。とりあえず、誠は思いついたことをこよりに訊いてみた。

「そのロシアの人ってさ、日本語話せるの?」


「割と。最初はちょっとカタコトっぽかったけど、すぐに慣れてきたみたい。わたしより絶対頭いいと思う」と、こより。


「じゃあ、二人っきりで街を歩いても余裕だよな。……それなら、一緒に買い物したりとか、映画見たりとかしたらどうかな」

 誠はそう提案した。……だが、これらは全て「誠がアリツィヤとしたいこと」を、そのまま口に出しただけだ。率直に言えば、陳腐で短絡的。だが、これこそが交際の王道だとも誠には思えた。


「直球だな」と、蓮太。

「でも、悪くないと思う。やるだけやってみれば?」と、藤乃。


 二人のなげやりな相槌のおかげで、口から出任せの誠の提案にも、多少の説得力が生まれた。あとは押し切るだけかな……と誠は思ったが、押し切ってその先に何があるかは、あまり考えていなかった。どうせ他人事だったので。


 肝心のこよりは、派手な外見に似合わずもじもじとしている。

「えー、そういうのってさ、ちょっといきなり近すぎないかな、距離的に。それに、あの人の勉強の邪魔になったら気まずいし、わたしなんかと歩いても嬉しくないかもしれないし……」


 肝心なところで引っ込み思案になって、こよりはいじいじと机に指をこすりつけている。その仕草を見て、本気かよ、と誠は思ったので、さらに率直な意見をぶつけてみることにした。


「いまさら何言ってんだよ。紙宮はそういう可愛らしいとか初々しいのが似合う顔じゃないだろ。きっと向こうも、紙宮に日本人女性っぽい慎みは期待してないと思う。だからさ、そのままの紙宮でぶつかればいいと思うな。化粧が派手なんだから、態度も派手で。どうかな?」


 その言葉を聞いて手遊びを止めた紙宮は、納得しているのかムカツイているのか微妙な表情をした。


「……なんかムカツくけど、言いたいことは分かるよ。要はわたしらしい態度でアプローチしろってわけね。化粧うんぬんは、ほんとうに余計なお世話だけど」

 不平をこぼしながらも、うんうん、とこよりは頷いた。


「そう。第一ラウンドで、いきなり変化球でなくってもいいんじゃないの、って事だ」

 と、誠は強引にまとめた。これで一件落着だな……と思いながらも、誠の気はそぞろだった。早く町橋先生の診療所へ行きたい。そうだ、紙宮の家のお客さんは逃げないだろうけど、アリツィヤは、ひょっとしたら今にも消えてしまうかもしれない人なんだぞ……と。


 なし崩し的に話がまとまったので、こよりと藤乃は、ありがと、と気のない感じで礼を述べて、さらに計画の細部を詰めるべく、二人で相談を始めていた。……基本路線さえ定まってしまえば、あとは問題ないだろう。


 取り残された誠と蓮太。ふたたび平穏が訪れたものの、まだ授業は一時限分残っていた。

(ああ、早く終われ!)

 そう熱望する誠の傍らで、蓮太がのんびりと言った。


「まあ、紙宮のことは片づいたからいいとしてだ。問題はお前の彼女の金髪オッパイ様について、だよな……」

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