第20話 期待と不安
全ての授業が終わって、掃除当番も終えて。
「さて、それじゃお先に」
と、クラスメートに声をかけ、誠は教室を飛び出した。
廊下、階段を経て、靴箱のところに着いたとき。
「あ、釘乃君」と、誠に声をかける誰かがいた。声の主を捜すと、そこには、先に掃除当番をすませた紙宮こよりがいた。
手には、靴と履き替えた上履きを持っている。玄関から差し込む夕日を背にして佇むその姿は、逆光によってセミロングの髪が光の繊維のように輝いて、日頃の元気な雰囲気とはまた異なる、すこし神秘的な印象が生じていた。
「……紙宮か。これから、家に帰るんだろう?」
誠は一瞬だけ、そのたたずまいの美しさに気後れして、声をかけるのをためらってしまった。だが、そんな誠の内心に反して、こよりはほっこりと微笑んでくれた。
「うん。釘乃君にアイディアを貰ったあとにね、フジノンと細かい所を詰めたの。とりあえず、私たちの知ってる限りで一番雰囲気のいい喫茶店に行こうかと思ってる。……あの人が『一緒に行ってもいいよ』って言ってくれたら、になるんだけどさ」
やはりこよりは、彼女の家にホームステイしている留学生に声をかけることを逡巡している様子だった。
こよりと件の留学生がうまく行くかどうかは、誠にはまったくフォローのできない事だった。しかし、いまのこよりの気持ちは、まったくの他人事ではない。 誠もまた、可能ならばアリツィヤと一緒にのんびりと街を歩けたらなあ……などと思っていたのだから。
「……大丈夫だと思うよ。紙宮が誘えば、きっとその人も喜ぶよ」
なんの裏付けもない励ましではあるけれど「紙宮にも上手くいって欲しい」と思う気持ちは確かだった。
その言葉を聞いて、こよりは頷いた。
「……ありがと、釘乃君。これまであんまり話したことなかったけど、なかなかフレンドリーなんだね。それに掃除もさぼらないし。いいとこあるじゃん」
「まあね。……ところで、まだ、その留学生の人の名前、聞いてなかったような気がする。どんな名前の人なの?」
と、誠が名前を尋ねると、こよりは指で空中にスペルを書くような仕草をしながら答えた。
「うん。『アザト・ユリコフ』って人。普段はちょっと無口だし、お父さんとばっかり話し込むのがアレだけど、なんだかあったかい雰囲気の人なの。……出来るなら、もっと仲良くなりたいな」
会ったことはないけれど、その人柄はいまの紙宮の笑顔がはっきりと示しているな、と誠は感じた。
「きっと、仲良くなれるよ」
そう、こよりに言い、そして誠は自分にも言い聞かせようとした。
+ + +
――そして、町橋内科診療所。
「こんにちは。失礼します」
挨拶もそこそこに、誠は玄関口で靴をスリッパに履き替えて、通い慣れた待合室を通り抜ける。ベッドで休んでいる他の患者さんに配慮して、極力よけいな物音をたてないようにして、なるべく静かに歩いた。
(アリツィヤの病室は……と)
板張りの廊下を、古びたポスターを脇目に見ながら通り抜けて、誠はその部屋に着く。
「……こんにちは」
と、部屋を覗き込むのと同時に言った。
室内には、簡素なベッドの上で上体を起こしてくつろぐアリツィヤの姿があった。
今日はすこし冷えるせいか、アリツィヤは病院衣の上に薄手のカーディガンを羽織っている。パステルカラーのピンク色のカーディガンは、白い肌のアリツィヤによく似合っていた。
誠の挨拶に気づいたアリツィヤは、
「……こんにちは。どうぞ、こちらに来てください」と、まだ少したどたどしい発音で答えた。
その返事に誘われるように、誠は室内に入り、ベッドの傍らのパイプ椅子に腰掛けた。
「アリツィヤ、体調はどう? ……もし大丈夫だったら、これ、食べてよ」
そう言って、アリツィヤに紙包みを差し出す。中身は、作りたてのエクレアだ。以前にシュークリームを買ったのと同じ洋菓子店のものだった。学生服を着た高校生が入るには少しばかり敷居が高い雰囲気の店だが、アリツィヤの笑顔を思えば、さしたる障害ではない。
(……でも、バカの一つ覚えって思われるかもしれないか)
洋菓子系で外したなら、次は和菓子系でトライするか、羊羹なら喜んでくれるかな……などと考えながら、誠はアリツィヤの表情を伺った。
「ありがとう、誠さん。すごく、美味しそうです」
紙袋を開いて、すこし小振りなエクレアをそっと掌にのせたアリツィヤは、愛おしむように口許に寄せて、その香りを楽しんでいた。すっと目を細めて微笑むその面差しには、誠を惹きつけてやまない魅力があった。
(……だけど)
その優しげな表情が思い起こさせる、もうひとつの貌がある。ほんの数日前の夜。診療所の外で遭ったときの、血に汚れた凄惨な表情。まなじりは鋭く引き絞られ、張りつめた頬には、敵手への殺気が宿っていた。慈愛と闘争。アリツィヤの貌には、そのどちらもが矛盾なく宿るのだ。
だけど……と、誠は思った。
(アリツィヤが一番似合う本当の表情は、優しさだ)
改めて、誠はそう考えた。そのために、出来ることがあれば……とは思うのだが、アリツィヤの抱えているであろうものに対して、誠はどれだけの助力を行えるのかは、いまだに見当がつかなかった。
また、あの戦いの晩に語りかけてきた「声」……ロートラウトの言葉もある。
あの者は、誠に言った。「アリツィヤを守れ」と。
(ああ、できるなら、やってやるさ。そうしなければ、あいつ……ロートラウトは、俺になにも教えないつもりらしいからな)
あの者の語った、アリツィヤの秘密。
――アリツィヤが生贄を求める、ということ。
――そして、自分がその生贄である、ということ。
生贄である自分がアリツィヤを守るということは、考えてみれば、ひどくおかしな話だ。だが、それを成さなければ、この先にあるものを知ることはかなわない。
(……やってやる。何も知らないままでほったらかすには、ちょっと意味深すぎるからな)
と、誠が記憶を反芻していると。
「誠さん、どうしましたか?」
と、アリツィヤが顔色を確かめるように、覗き込んできた。
「あ、いや、なんでもない……よ」
誠は顔をそむけた。いま思い浮かべている疑問は、この場で訊くには禍々しすぎる。
そんな誠の仕草を見届けたアリツィヤは、紙袋からもうひとつのエクレアを取り出して、誠に手渡した。
「誠さん、よかったら、一緒に食べてくれますか?」と。
「あ、ああ。でも、アリツィヤが全部食べても良かったんだよ?」
「独りで食べても美味しいです。でも、二人で食べたら、きっと、もっと美味しいと思うんです」
慣れない言葉を繰りながら、アリツィヤは微笑みかける。
返事のかわりに、誠は頷いて、エクレアの包装紙を解いた。アリツィヤがそれに倣って、それからふたりで一緒に食べた。子供のおやつの時間みたいだな、と誠は思ったが、気恥ずかしさと同じほどの幸せを感じた。
しばし二人が焼き菓子の味を楽しんでいると、そこに町橋先生が顔を覗かせた。
「ああ、誠君か。今日もお見舞いかね」
「はい」
町橋医師は、いつもと同じ、すこしくたびれた白衣姿だった。手には幾葉かの書類を挟んだバインダーがあり、ボールペンは胸ポケットに数本。その様子から誠は、きっと他の病室を見て回っていたんだろうな、とだけ思った。
町橋先生は、そのままアリツィヤの傍らに歩み寄り、「ああ、美味しそうなものを食べているじゃないか。食欲があるのはいいことだ」と言い、うんうんと頷いた。もちろん、先生が来ることを見越して、エクレアは余分に買っておいた。アリツィヤと目を合わせると、彼女がこくんと頷いて、紙袋からエクレアを取り出した。
「先生も、いかがですか?」
「……いいのかね? なら、頂くか」
そう言って、町橋先生はひょいと摘んで口に入れた。
誠とアリツィヤがエクレアを食べ終わるまで、ひとしきり歓談は続いた。先生が冗談を交えるたびに、どこか固かったアリツィヤの笑顔もほぐれていくようだった。
話題が一息ついた時に、町橋先生はふと切り出した。
「さて、アリツィヤ君。ここ数日で検査を進めてきたが、特にさしたる異常は認められなかったな。……あの時に見た、傷口をすぐに塞いでしまった『何か』にはさすがに驚いたが」
「はい、先生。とても感謝しています。……もう大丈夫だから、近いうちに出て行きます。お金のことも……」
アリツィヤは少し言いよどんでいる。
体調はともかくとして、彼女が保険証を持っていない事は、ここに彼女を担ぎ込んだ時に知っている。おそらくはそれなりに高額となるであろう医療費については、誠の財力では当然ながらどうにもならない。
(くそ、けっきょく俺って何もできないじゃないか)
アリツィヤが切り出した金の話で、誠までも俯いてしまうのを見て、町橋先生は苦笑した。
「まあ、負担金のことは……後でいいわな。私としても、こういう事は初めてでね。ちょっと先例を調べてから考えることにさせてもらおう。今話しておきたいことは、別の事だよ」
「別……ですか?」と、アリツィヤが訊く。
「そうだよ。体調は回復しつつあると思うんだけど、君がここから全く動かないことが、ちょっと心配でね。ベッドに張り付いたままというのは、あまり良いものじゃない。君の特殊な事情は承知しているが、このまま体力が衰えてしまう事が心配だ」
先生の口ぶりから察するに、普段のアリツィヤはこの部屋に閉じこもりっきりなんだな、と誠は思った。アリツィヤの立場から考えれば、その目的はなんとなく分かる。「体力以外の何か」を回復させるための時間が要ったのだろう。
(アリツィヤが無駄な時間を使うタイプには見えないしな)
でも。
「動かなくても大丈夫なのかい?」あえて、誠は訊いた。
「……ううん、すこし、退屈でした……」
すこし考え込むようなそぶりを見せながら、アリツィヤはそう答えた。退屈。答えたその言葉は、彼女にしては、すこしだけわざとらしかった。
その時、町橋先生は言った。
「ならば、外を出歩いてみるのもいいかもしれないよ。……もっとも、君の事情が許せば、だが」
アリツィヤの「事情」、つまり彼女の追手が、あのときの男ひとりなのかどうかは、誠には分からなかった。表を出歩けば即座に敵に出くわすようでは、散歩などは無理だ。
(……どうだろう)
誠は様子を確かめるように、アリツィヤの横顔を見つめた。彼女はすこし思案しているようだったが、しばらくの時間ののちに、ゆっくりと答えた。
「……そうですね。先生の言うとおりです。明日にでも、外に出てみようかと思います」
「そうだね。適度に身体を動かすこと自体が、疲労回復の助けになる」
と、町橋先生が頷いたとき、誠は意を決して言った。
「あ、あの……もし良かったら、俺も付き合ってもいいかな……」
その言葉を発するための原動力は、至極単純なものだった。
(なんとなく、……なんとなくだけど、彼女と言葉を交わす機会は、今回しかないような気がする)
――勘、と言えば、そうなのかもしれない。アリツィヤと出会う前日から覚えている、あの奇妙な感覚。そして、ロートラウトが語った、いくつかの疑問。それらを明らかにする機会は、たぶん、さほど多くない。
そういったシリアスな目的の他にも、自分がアリツィヤに感じている憧れめいた気持ちに、決着をつけてしまいたくもあった。まっとうな理屈で考えてみれば、誠自身は、どこにでもいる高校生……地域、経済力、人間関係、その他諸々に縛られた、不自由で未熟な存在に過ぎなかった。漫画やドラマのような、鮮やかなストーリーの登場人物にはなれないし、かつて憧れたヒーローのように、アリツィヤと一緒に戦える力もない。
――アリツィヤは、特別なひとだ。だけど、自分は。
そんなことを考えながら、誠はアリツィヤの返事を待った。
アリツィヤの顔色を窺う。考えてみれば、こんな仕草自体が、自分の立場を示しているようで嫌だった。
……そして、数秒ほど。
アリツィヤは、「……ありがとうございます。一緒に来てください」と、微笑みとともに、そう言った。
わずかに残るぎこちなさに、彼女の脳裏に巡ったであろう色々な思考のかけらを感じる。アリツィヤもまた、何かについて意を決したような、そんな雰囲気をかすかに漂わせていた。
「あ、ああ。いい散歩コースを考えておくから、楽しみにしててよ」
「はい。誠さんにお任せします。楽しみですね」
「うん」
誠もアリツィヤも、あえて平凡な言葉で会話を閉じた。
ありふれた約束だ。「……明日、一緒に散歩しよう。」普通なら、そんな気軽な約束など、きっと塀の上の野良猫だって交わしていることだろう。そう、普通ならば。だけど……と誠は思った。
(明日……訊かなければ、確かめなければいけないことは、沢山ある)
きっと明日は、重要な一日になる。
でも、かなうならば、そんな疑念などは別にして、アリツィヤの笑顔が見たかった。
何かを隠して、ぎこちなく笑うアリツィヤの姿が、とても寂しそうに見えたから。
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