第17話 導く者
診療所を離れて、深夜の街路を誠は歩いている。
一歩、また一歩と、アリツィヤと離れてゆく道行きだ。
しかし、遠ざかる距離ほどには、「感覚」は離れていかないことを意識する。
「……むしろ、じっさいに顔を見られる距離じゃないほうが、彼女が何を考えているのかが、よく分かるような気がするな」
今もなお、彼女の心のほのかなぬくもりが伝わってくる。言葉ではない何かを介して、彼女の魂の手触りが分かる。戦いに臨むときの激しい気性と、生命を脅かされたときの、底冷えのするような恐怖。そして、さっき感じたような、素朴なやりとりを喜ぶ心。そのどれもが、あのアリツィヤのものだ。
ただ、アリツィヤもまた、自分のことを知ってくれているのだろうか……と、誠は思った。
『自分には、彼女の心が分かっている』という、あまりといえばあまりに身勝手な思いこみは、ひどく恥ずかしいものだ。
とてもじゃないが、面と向かってアリツィヤに訊けるものではない。
仮にもしこれが嘘だったら、いまの気持ちは何だというのか。
勝手に人の気持ちが分かった気になるなんて、とんでもないことだ。
だから、しばらくはひとり、心の内にしまっておこう、と誠は思おうとしていた――。
と、その時。
(その心は、嘘ではないよ)
と、誠の心に直接語りかけてくる「声」があった。
(……えっ!?)
何者かによる唐突なコンタクトに、誠はひどく狼狽する。
だが、そんな誠の気持ちを慮るわけでもなく、その「声」は次なる言葉を継いだ。
(嘘ではない、と言ったんだ。君に)
その「声」の響きは、明らかにアリツィヤのものとは異なるものだった。
しかしその意思は、アリツィヤの思念と重なるようにして届いてきていた。
アリツィヤと繋がるのと同じほどに、この「声」とも繋がっている――!
混乱しつつも、誠はその声に問うた。
(だ、誰なんだ?)
すこし怯えの入った誠の思念を、「声」はあくまで淡々と受け止めた。
その印象は、アリツィヤに比べるといくぶん淡泊でもあった。
(わたしが誰かは、またいずれ説明させてもらう。いま長々と説明する余裕はない。だが、いくつか教えてやれる事がある)
(……何か、教えてくれるのか?)
(ああ。アリツィヤとの魂の繋がりについて、いくつか。知りたければ、教えよう。そうでなければ、失礼させてもらう)
随分と簡素な……というか、ぶっきらぼうな物言いだったが、誠にはそれを断る理由はなかった。
(もちろん、知りたいよ)
そう質問に答えると、声は、ふむ、と頷いたように感じた。
(それでは、まずひとつめ。君にとって、アリツィヤが特別なものであること)
(…………)
その言葉を認識した瞬間、誠は思った。
――そりゃ、そうだろうさ、と。もしかして、そんな下らないことを勿体付けて喋る気じゃないだろうな、と危惧したが、誠はあえて黙っていた。
(そして、ふたつめ。アリツィヤにとっても、君が特別であること)
これも、前者をひっくり返しただけに聞こえる。声の主が、どのような意味合いをこめて『特別』という言葉を使っているのかは、まだ分からない。だが、そのふたつの『特別』には、まだ恐怖心よりも期待感のほうが強い。
(みっつめ。君は二人目の『特別』だ。過去に、君と同じような体験をした人間が、一人いた)
この発言には、すこし気にかかるものがあった。
(……それって、他にも俺みたいに、アリツィヤの心が分かるような気がするやつがいたってことか?)
誠がそう疑問を投げかけると、声の主は明快に答えた。
(そうだ。それについて、どう思うかい?)
すぐさま、そう質問を投げかけてくる。
アリツィヤの思念と出処が同じであるにしては、この声の主には、彼女のような慎みが感じられない。いや、そのまえに、性別や年齢すらも分からないのだが。
それはさておき、誠は質問に答えることにした。
(どう思うもなにも、まだこの現象がどんな意味を持っているのかさえも分からないんだ。……だけど、その人とアリツィヤがどんな関係だったのかは、気になる)
(……関係ときたか。そうだな。互いに心が通い合うのであれば、恋人や朋友のような関係を想像してしまうのが普通だろうな)
(…………)
(だが、かつてアリツィヤと心を通わせたものは、恋人ではなかった。それどころか、友でさえもない)
(じゃあ、どんな関係だよ)
そう訊くと、声の主は再び、ふむ、と言葉を止めた。
誠はかなり苛立ちながら、再度訊いた。だから、どんな関係なんだ、と。
その質問に、しばし考えるような間をおいたのちに、声は答えた。
(――その者は、アリツィヤの……『生贄』だった)
生贄。ひどく古めかしく、そして禍々しい言葉だった。
(……生贄)
誠は心の中で反芻する。その言葉には、あのアリツィヤとは全く相容れないイメージがある。
(アリツィヤが……生贄を?)
(そうだ)
声はまたしても明快に答えた。だが、その迷いのなさが、誠にはかえって忌々しかった。
(いや、その……生贄って……アリツィヤがそんな事をする筈が……)
誠は二の句を継げずにいた。だが、そんな誠の気持ちをあえて封じるように、声は言った。
(戸惑う気持ちも分かる。だが、その事から分かることがあるだろう)
(それは……)
答えたくなかった。
だが、声はためらうことなく言った。
(そう。アリツィヤと心が通じること。それが、生贄の資格を示すものだ)
(じゃあ、俺もそうなのか?)
(そうだ)
(なら、これから俺はどうすればいい!? アリツィヤから離れるべきなのか?)
(……そうだな。できるものなら、な。……さて、そろそろお開きだ。これ以上、きみに話し続けるだけの力が残っていない)
と、声は急速に萎れていく。この言葉に限っては、勿体付けるための嘘ではないようだ。
去りゆく声に、誠は最後の質問をぶつけた。
(すまないが、もうひとつだけ教えてくれ! ……あなたは、誰だ)
誠の誰何に、声は一呼吸の間をおいて、答えた。
(私の名は、ロートラウト。他にも教えてやれることがあるが、聞きたくば、果たしてもらいたい事がある。望まないのであれば、これでさよならだ)
去り際につきつけられた選択。これもまた、無骨な問いかけだった。
誠はしばし考えた。そうだ。逃げるという手もある。逃げて、逃げて、全てを捨て去って、この不思議な縁を振り切ってしまえるほどに遠くへ。アリツィヤがいかなる人物であっても、所詮は他人だ。たったひとりとの縁を切ったところで、一体どれほどの影響が俺の人生にある?
些細なものだ。そうに違いない。
だが。
(……わかった)
(どうする?)
声は問うた。
ゆっくりと、答える。
(ロートラウト、俺がしなければならない事を、教えてくれ)
アリツィヤとの繋がりを捨てることを……捨てたくない。誠は、そう思った。
それが正しいのかどうかは、今の時点では全く分からない。
だが、心のどこかに、あのときのアリツィヤの顔が思い浮かんだのだ。
誠の持って行った手土産を、喜んでくれたときの、彼女の顔。
あの素朴な笑顔を、できればもう一度見たいと思ったから。
そんな誠の返答に、ロートラウトは三たび、ふむ、と頷いた。
少し時代がかった口癖に、誠は(もしかして中年の男だろうか)とも思ったが、そんな事を問いただす余裕はなさそうだ。
声は、誠に言った。
(……そうか。ならば……アリツィヤを、守ってくれ)
(俺にできるのか?)
(やるのさ。君が彼女を守り続ければ、彼女の戦いにも、勝ちの目が出てくる)
(……分かった。やってみる)
(そうだ。いい返事だ。……では、また会うことになるな。さよなら)
その言葉を最後に、姿なき声の主……ロートラウトは、誠の問いかけに応じなくなった。
――結局、ロートラウトが誠に教えてくれたのは、不穏な事実だけだった。
アリツィヤが、生贄を欲すること。
自分が、その生贄の資格を有すること。
……そして、それ以上の事を知るためには、アリツィヤを守らなければいけないこと。
付け加えるならば、ロートラウトという人物についても知る必要があった。
今後のことを考えると、不安は大きい。
だが、分からないことだらけのままで逃げ去るのではなく、別の道を選んだのだ。
(正しいか正しくないかは……あとで考えるさ)
ただ、気分は悪くなかった。きっと、この選択は間違っていない。
そう思う理由に根拠などほとんどない。
ただひとつ、確かだと思うのは。
(アリツィヤの笑っているところを、もっと見たいんだ)
それだけだった。
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