第16話 心の変化
誠は、暴漢に重傷を負わされたアリツィヤを伴って、再び診療所の門をくぐった。
扉をノックすると、町橋先生が眠たげな目をこすりながら出迎えてくれたが、血まみれのアリツィヤの姿を認めると、すぐに処置室へと案内してくれた。
「アリツィヤ、……どうして外に出たの?」
誠は、そう訪ねずにはいられなかった。
どうして彼女が、またも傷つかなければならないのか。
その問いに、アリツィヤは息をつきながら、ゆっくりと答えた。
「あの男……ベルクートは、私の居場所に気づいていました。だから、この病院を壊してしまうのが嫌だから……外に出て、話をすることにしました」
と、かすれた声で囁くように答えた。
「あの男との話って……」
これだけでは、まだ何も分からない。だが、酷く消耗しているアリツィヤを見ると、いまはそれ以上の質問をする気にはなれなかった。
アリツィヤの腕の怪我を、町橋先生が確かめている。
血みどろの病院衣の袖から露わになっている、アリツィヤの傷。
蛍光灯の明かりを受けて、いまも赤く濡れそぼる創傷が、ひどく生々しい色をたたえていた。どのような凶器で傷つけられたのだろうか、そこは肉がはぜ、筋肉どころか骨にも至りそうなほどに損壊している。じっと見ていると、気が遠くなってしまいそうだった。
その傷を見て、町橋先生は「ただの刺し傷ではないな……何があったの?」と彼女に訊いた。しかし、その問いにも、アリツィヤはただ「すみません」とだけ答えた。
要領を得ない返答に、すこし先生は首をかしげていたが、やがて、「……ひどい傷だな。しかし、まずはここで出来る限りの処置をしておくよ」と言い、器材の準備を始めようとした。
が、そのとき、「待ってください」と、アリツィヤは制止した。
「なぜだね?」と先生が強く訊くと、アリツィヤは答えぬまま右手を傷に添えて、
「 」
と、耳慣れない異国の言葉を呟いた。
かすれた声でありながらも、どこか音楽的な響き その韻を、一語で説明するならば、――「呪文」。そうとしか言いようのない、まるでこの世のものではないような言葉だった。
誠や町橋先生ではない、何者かに向けられた言葉がアリツィヤの唇を離れ、ほんの一呼吸ほどの時間が過ぎた時。
「――あ」
アリツィヤの傷口のあたりが淡く輝き出した。灯明のようにかぼそくはあったけれど、どこか気持ちのよい光だ。
「…………?」
その暖かな光は、傷を押さえているアリツィヤの右手指の間から漏れている。
どのような作用で光が生まれるのかは全く分からないが、その光によってアリツィヤの身体が癒され、痛みが鎮まっていることだけは誠にも分かった。
町橋先生もまた、その不思議な現象に引き込まれるようにして、光を見つめていた。
――その光は、十数秒ほどもアリツィヤの左腕に宿っていた。やがて光が収まり、アリツィヤが右手を離したときには、創傷の流血も止まり、引き裂かれ飛び散っていたはずの組織の回復が、早くも始まっていた。患部の引きつれが生じることもなく、このまま安静にしていれば、綺麗に回復してしまうことだろう。……だが、こんな現象がありえるのか? 現に起こったこの出来事は、果たしてどのような業によってなされたものなのか。
「……これは、どういう事だ?」と、町橋先生が呟く。
当然の疑問だ、と誠は思った。だが、こんな出来事を説明するための言葉を見つけるのは、誰にも出来ない筈だった。
――まさに、有り得ない現象だ。
誠と町橋先生が沈黙していると、アリツィヤはすこし躊躇いながら、言った。
「これは……神の、加護。ひとの心身の回復を望む心に応える……恩寵です」
「…………」
加護、恩寵。あまりにも非現実的な言葉に、誠は言葉を失った。
町橋先生も同様に絶句していたようだったが、やがて、「……とりあえず、手当の必要は無くなった、ということで良いのかな。話したくなければ構わないが、どうしてこんな時間に外に出て、負傷するような目にあったのか教えて貰えないかな」と、アリツィヤに訪ねた。その穏やかな口調に、しばし逡巡していたアリツィヤも、ゆっくりと口を開いた。
「はい。……私の魔術師としての知識を欲する者たちが、私を捕らえようとしています。だけど、私には、この地でなさねばならない目的があります。……だから、追い払わなくてはいけませんでした」
「アリツィヤ、その『追手』が、あの男なのか?」
ほんの少し前まで、アリツィヤの前に立ちふさがっていたあの男。
法衣のような服を着て、月にきらめく幾本もの投げナイフを手にした、あの暴漢のことだ。
誠がそう訊くと、はい、とアリツィヤは答えた。
「あの男……ベルクートは、『賢人会議』という組織に属する聖句術師です。私を捕らえるために派遣された、追跡者。そして、ちょうど彼と戦っているときに……マコトさんが、私をかばってくれました」
そう言って、アリツィヤは左腕を押さえながら微笑んだ。その笑みは、どこかぎこちない。回復は進みつつあっても、まだ痛みが消えたわけではないのだろう。
もっと早くあの場所に着いていれば、アリツィヤはこんな怪我をしなかったのかな、という考えが、誠の心にちらりと生じる。また、あの男を結果的に「逃がしてしまった」事が、後々になって祟ることになるのかもしれない。あの時は、いったいどう振る舞うのが正解だったのだろうか。
そう考えたときに、誠はぽつりと呟いてしまった。
「あの時、戦いの邪魔をして……良かったのかな」
そんな誠の独り言じみた言葉に、アリツィヤは穏やかに頷いた。そのときの貌に宿るのは、初めて目にしたのと同じ、心に染みいるような、やさしい微笑み。
「おそらく、マコトさんが止めてくれなかったら、私か彼か、どちらかが生命を喪っていたでしょう。互いに傷つき、疲れていました。どちらにも、手加減をする余裕などはなかったから」
と、アリツィヤは訥々と答えた。
その仮定が確かなものであるのかどうかは、誠には分からない。だが、アリツィヤが自分に配慮してくれたのだろうということは、誠にもよく分かった。
「そのベルクートとかいう人が、大人しく引き下がってくれて良かったよ。あいつがお構いなしに襲いかかってきたら、俺にはどうしようもなかったし」
「……そうですね。彼には、マコトさんを巻き添えにしてでも私を倒す、という道があった。しかも、それが最も有効な手立てであった筈です」
「運が良かった、って事かな」
「おそらく、そうでしょうね。――そして、彼が無差別に死を撒き散らす人間ではなかった、ということです」
その言葉を聞いて、誠は安堵のため息をひとつついた。
――そうだった。彼……ベルクートには、無関係の人間を守る義理など全くなかったのだ。冷静に考えてみれば。後先考えずに割り込んだことは、今になって思えば、無茶と言われても文句の言えない行為だった。だが、アリツィヤの言うとおり、極限のところで己を律する何かが、かれにも在る、ということは確からしい。
その事について誠が考えているとき、会話がふと途切れた。沈黙。
あらためて、誠はこれまでの経緯について考えた。
ここまでの説明を聞いても、まだ分からないことはいくらでもある。
魔術師。
賢人会議。
追手、ベルクート。
神
目的。
……アリツィヤ。
隣に立つ町橋先生にしても、数多の疑問を抱えていることが、その複雑な表情から伺えた。
もっともっと、訊くべきことはある。
……だが、それらをいま全て訪ねるのは、無理があった。
それに、アリツィヤの貌には濃い疲労の色が看て取れた。苦痛を見せないようにしているものの、こうやってただ喋るだけでも、いまの彼女には負担となっているのだろう。
その様子を汲んでか、町橋先生は口元に微笑を浮かべ、言った。
「それじゃ、詳しい話はまた今度だな。今はゆっくり休んでもらおうか。……すこし待っていてくれ。薬を出しておくから」
誠も、その提案には異存はなかった。
(訊きたいことはある……いくらでも)
薬を取りに出た町橋先生に続き、誠も病室を出ようとした。
「……それじゃ、おやすみ、アリツィヤ」
と、誠が処置室を出ようとした時。
「あ、あの」と、アリツィヤがおずおずと声をかけてきた。その仕草が、これまでの気丈な振る舞いに比して、すこし似つかわしくないように思えて、誠は戸惑った。
「どうしたの?」
「まだ、マコトさんにお礼を言っていませんでした。……まず、助けてくれて、ありがとうございました」
「う、うん」
「それから……もうひとつ。私が眠っているときに、お見舞いに来てくれたのですね。そのときに、素敵なお菓子をくれました。甘いクリームの入った、素敵なお菓子を」
そう言って、アリツィヤは微笑んだ。
とても、素朴な笑みだった。
「すごく、美味しかった」
改まって礼を言われて、誠は対応に困ってしまった。
「いや、小遣いで買ったものだから、そんなに高いものじゃないんだけど……」
「……本当に、嬉しかったです」
「あ、ああ。じゃあ、また買ってくるよ」
そう言い残して、誠はアリツィヤに背を向けて、急いで処置室を後にした。
ああいった言葉をかけられたのなら、どういう顔で応対すればいいのだろう。
部屋のドアを閉めるときに、誠はそう自問した。
答えは、結局分からなかった。
ただ、心拍数だけが常ならぬ早鐘を打っていた。
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