第5話 紙宮
魔術師の家に着くまでに、ベルクートは十数分ほども歩いた。
落ち着いたたたずまいの路地には、木造の家屋が密集して立ち並んでいる。日本の持つ都会的なイメージと
古い家々からは、生活の音が漏れてくる。
耳慣れない言葉とともに聞こえてくる物音は、食事の後片付けの音だろうか。
すこし強い風が吹く。駆け抜ける清らかな冷たさに、路地を歩く人々は襟をかき合わせる。
その脇を通り過ぎるときに、かれらは皆「寒い」と呟いていた。
(寒い、か)
祖国に比べれば、ここの気候は快適だ。
……だが、ここの気候を心から楽しむためには、まず己の心胆を寒からしめるものを始末する必要があった。
そして、ベルクートは「魔術師」の家に着いた。
ここを糸口にして、全ての面倒事を片づける必要がある。
その家の玄関をくぐると、ベルクートは婦人の案内に従ってブーツを脱いだ。
「せっかく遠くから来られたのに、汚いところでごめんなさいね」
おそらくは四十代半ばほどの女性は、しきりにお辞儀をしながら「どうぞどうぞ」と奥へと導いた。
「……ありがとうございます」
この国の言葉についてはまだ不如意ではあったが、婦人の好意は分かる。ベルクートの言葉に婦人はにっこりと笑った。
婦人の笑顔を見て、ベルクートは再び、ここには観光で来るべきであった、と思った。
薄暗い屋内の天井はだいぶ低く、畳敷きを踏みしめながら歩く。ちょうどベルクートの額のあたりに梁が巡らせてある。
注意しなければ、ここに通ううち遠からず痛打を食らう日が来そうだった。
婦人に勧められるままに進んだ先には、初老の男が低いテーブルの側に座していた。
かれに挨拶しようと、口を開こうとした時、「――ようこそ、日本へ」と、かれは流暢なロシア語でベルクートに言った。
「始めてお目にかかる。あなたが日本の魔術師なのか?」
「一応そうだが、『魔術師』と言えるほどでもないな。まあ、たまに『賢人会議』から寄越されてくるお客さんを案内するのが仕事だ。まあ、こっちにおいで」
そう言いながら、かれは立ちつくしたままのベルクートに手招きをした。ベルクートは誘いに応じた。
かれが座る低いテーブルの裾には、厚手の綿入れが垂れている。かれの座る姿を真似て、ベルクートが綿入れのなかに脚を入れると、内部には膝下をくつろげるだけの大きな空間があった。そして、なにか熱源があるのか、ほんのりと暖かかった。
知らず、不思議そうな顔をしていたのだろう。かれはベルクートの顔を見ながら、
「この掘炬燵はね、私のお気に入りなんだよ。他の家ではなかなか見られないぞ。どうだい?」と言いながら、嬉しそうに笑った。
その言葉に応じて、ベルクートも笑みを浮かべる。
「非常に快適だ。穏やかな気分になる。このまま眠ってしまいそうだ。……だが、先に仕事の話を片づけておこうか」
「そうだな」
男は面持ちを引き締め、すこし背筋を伸ばした。改めてベルクートはことの経緯を説明することにした。
「まず、ここまでの流れを話しておこうか。まず、本国における『賢人会議』支部、つまり東方教会より、俺は派遣命令を受けた。その目的は、魔術師アリツィヤの捕獲。……アリツィヤ。『完成者』だ」
「そのあたりは連絡を受けている。アリツィヤは、当初フランスの地方都市で目撃された。が、そのまま東方に向けて逃走。その道行きで、各国の魔術師が追討令を受けアリツィヤに対峙するも、そのことごとくが敗北したという。……だが」
「そうだ。アリツィヤは追手をひとりも殺していない。なにが彼女に不殺を誓わせているのかは知らないが、これは珍しい事例だ。殺してしまうほうがよほど楽だからな。あまたの敗北者たちにとって、これは……幸甚の一語に尽きる」
語尾が濁るのをベルクートは自覚した。
そして、心のなかにわだかまる苛立ちも。
「そうだ。俺はアリツィヤのお情けか気まぐれで生かされているのだ」と。
そんなベルクートの内心を汲んだのか、男はすこし強引に話題を変えようとした。
「……とはいえ、近代魔術の精粋を学んだ魔術師たちを片端から退けるとは、おそるべき魔術師だな。『完成者』たちは、しょせんは過去の存在だという。たとえ禁忌とされる魔術を識っているとはいえ、概してその詠唱句は洗練されておらず、永く生きすぎた身体は、基幹魔力にも乏しい。また、数百年もの時を経ることで、精神は鈍磨する。……ゆえに、かれらは現代の魔術師の敵ではなく、ただ『捕獲』の対象となる。そう言われていたものだった」
男の言葉は、ベルクートにも聞き覚えがあった。きわめて長い寿命と、それゆえに低下する生命力、精神力。「完成者」というかれらに捧げられた大仰なふたつ名が、しかし、時として嘲りの言葉ともなりえることは、そこに由来していた。
男は言葉を続けた。
「生体にはたらきかけ、その寿命を伸長する。とくに高度なものは、擬似的なものであれ、不老不死を実現したという。過去、数多くの人間が渇望した不老不死を、彼らは手に入れている。たとえ、そのために大きな代償を支払ったとしても。その誉れをもって『完成者』と呼ぶ……のだったかな?」
「ああ」
ベルクートは頷いた。
「ほとんどの完成者は、あなたが知るとおりのものだ。長い生命をもてあまし、結局何事をも成すことができず、ただ妄執のみに捕らわれて生き続ける、なかば怪物のような存在だ。……だが、なかには例外もいる」
「アリツィヤか」
「そうだ。あの女がどれほどの時間を経てきたのかは知らない。だが、その精神は磨滅しておらず、魔力は現代の魔術師でさえ比肩するものは少ないだろう。……少なくとも、俺ひとりで仕留めることは難しい」
「そんな化け物の相手を、君ひとりで担うこともあるまい。本部はもっと人員を寄越してこないのか」
男が疑問を述べると、ベルクートはすこし考え込んでから、答えた。
「しょせん、末端の魔術師では、本部の意向を知悉することはかなわない。……だが、ここに来るまでに、いくつか興味深いことを聞いた」
「何かね」
「他にも複数体の完成者が確認されたらしい。それもアリツィヤのように大きな力を持つものが」
「……こちらには連絡は来ていないぞ」
男は渋面をこしらえた。
「本部は情報を周知させる気はないのだろう。俺も、道中で聞いただけだ。だが、おもに中東に出没しているようだ。イスラム教徒の戦士たちはもちろん、コプト教会・アルメニア使徒教会の騎士たちが対応に忙殺されていると聞く。……既に、相当数の戦死者が出たようだ」
「異教徒同士が手を結んでさえ、事態を収拾しきれないのか。そのような重大事を、なぜ周知しないのだ」
男の苛立ちは、ベルクートにも分かった。自分とても、ろくに情報も与えられずに戦わざるをえなかったのだから。
「……分からん。本部の秘密主義は度し難い。……だが、もはや中東の戦力だけで対応できる状態ではない事は確かなようだ。現に、ロシア……東方教会からも多数の魔術師が中東に派遣されたという。要は、いま最大の危機は、中東にあるということだ。アリツィヤは確かに強力な魔術師なのだろうが、現時点では注力するに値しない存在である、ということらしいな」
「…………。なるほどな。ともあれ、本部からの通達があるまでは、君はここに留まりアリツィヤを追うことになるのかな?」
男は、ベルクートの瞳を見据えながら言った。かれが始めて見せる、ひとを試すような鋭さを備えた眼差しだった。
ベルクートは、その視線を受け止め、答えた。
「……ああ。ひとたびは負けたが、今の俺にはまだ生命がある。ゆえに、再戦を望む。……その戦いに勝利を望みうるだけの力が今の俺に残っているかどうかは知らん。だが、まだやれるつもりだ」
「……負けを知った割には威勢がいいな。確実に勝ちを拾える手立てはあるのか」
「ないな。……博打だ。全力を尽くしても完璧を望み得ないこともあるだろう。だが、全力を出さねばテーブルにつくこともできない。俺は博打が嫌いだ。だが、どうしても勝ちたい戦いであれば、そこから逃げることは許されない」
「そうか」
「……だから、『恥』を忍んでお願いしたい。あなたは本部への連絡の任を負っておられると思う。が、どうか今回の敗北については、もうしばらく連絡を待っていただけないか?」
ベルクートはそう言って頭を垂れた。その様子を見ていた男は、ベルクートが再び頭をもたげるのを待ち、言った。
「君は古い日本映画の愛好者かね? 恥だの、頭を下げたりだの。まだ君は若い。もっと
男はひどく厳しい口調で言った。本来は柔和であるはずのかれの表情に、靱い意思が宿る。
「……いや、そうではないと思う。あの女、アリツィヤは、なにか雰囲気が違うんだ。多くの完成者たちが精神に変調をきたしてしまうように、ただ生きるだけでは、人間は数百年もの時間に耐えることができない。……何かが、アリツィヤの心身を支えている。俺はそれを確かめたい。だから、俺にそのための時間をくれ」
ベルクートがそう言い終えると、男は頷き、言った。
「……分かった。それでは、雑事はこちらに任せて、君は調査を続けなさい。……ただ、まずは確かめたいことがいくつかある。まず、ひとたびは敗れた君の心身が、次なる戦いに耐えうるか、ということと、アリツィヤの行方を知る手立てはあるのか、ということだ」
「俺の肉体は……おそらく問題ない。すばらしい聖句使いによる、賦活の聖句を授かったのだからな。あと、彼女の行方は、彼女の膨大なる基幹魔力を感知すればいいだろう。……ただ」
「どうした?」
「先の戦いでは、彼女の魔力の大部分を喪わせたという手応えがあった。その手応えが確かなものであれば、アリツィヤの回復を待たねば彼女の所在を感知できないだろう。魔力なき者の所在を知ることは難しい」
「弱っている目標を追撃することはできないのだね」
「ああ」
「なるほど。では、充分な準備をして臨みなさい。まず、身体の調子を整えるのはどうかな? いまの君はひどく顔色が悪い。充分な休養が必要だ」
「では、ご好意に甘えさせてもらう。ありがとう。……あと、いまさらで申し訳ないが、あなたの名を教えていただけるか?」
「悪かったな。そういえば忘れていた。私の名は
「私の名は……アザト・ユリコフ。だが、『ベルクート』のほうが通りがいいようだ」
「そうか、どちらもいい名だ。今後ともよろしく」
紙宮祐三の差し出した手を、ベルクートは握り返した。
その様子を伺っていたかのように、脇から紙宮佳枝が訪れ、ベルクートと祐三の前に緑茶をついだ湯飲みをおずおずと置いた。
「どうぞ」彼女が言った。ごく短い日本語だが、とても快い響きだ。
婦人の好意にベルクートは頭を下げながら、思った。
(時間があれば、この国の言葉をいつか学んでみたいものだ)と。
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