第4話 異国の者

「……七時十分か」


 通学路を歩きながらも、誠はせかせかと携帯電話の時刻表示を確認してしまう。

 この仕草が、あまり格好の良いものではないことは、友人からの指摘で知っていた。


 だが、電話嫌いのうえにひどいメール無精である誠にとって、半ば無理やり持たされた折りたたみ式携帯電話は、ただの「友人からの駄洒落&妄言受信機」と化してしまっている。買いに行った時など、親や友人、店員にまでスマートフォンを勧められたが、正直なところ使いこなせる気がしない。そんな携帯を少しでも有効利用するための手だては、「とりあえず懐中時計として使い倒すこと」ぐらいしか存在しなかった。


 時計が示す時刻は、誠の時間感覚が正常に戻っていることを教えてくれる。


 昨夜のように、時間の経過が異様に遅く感じることもない。

 正しいリズム。己の呼吸と心拍に導かれるようにして、ゆるやかな歩調で早春の街路を歩く。


 冷え冷えとした空気は、八時にもなれば穏やかさを取り戻す。それまでのわずかな時間をひとりで過ごすのが、誠の日課だった。


「……ひとりで、か」


 そう呟いたときに、早くも「誰もいない街路をひとりで歩く」ことが、まず不可能になった。

 通りの脇道から、ひとりの人間がよろよろと姿を現したからだ。


「……え?」


 おそらくは女性だろう。


 髪の色や肌の色を見る限りでは同国人とは認めがたいが、それを確認する術はない。衣服も見慣れないシルエットだ。少なくとも、この近辺の住人が早朝の散歩のさいに着るものとは思えなかった。


 さらにひときわ目を引く特徴があった。


 彼女の衣服といい肌といい、かさぶたのようなくすんだ赤色の滲みが、そのあちこちに見て取れた。


(あれは……血の痕か)


 彼女? を染める不吉な赤は、清らかな朝のなかでひときわ異様に映る。それはただの色彩ではない。平和であるはずの世界を揺るがす何かを秘めていた。


 彼女もまた、誠の存在に気づく。苦しげな貌は苦痛に歪んでいる。本来ならば怜悧であるはずの相貌には、焼け付くような眼差しが宿っていた。


「……ひどいな。事故にでも遭ったのか?」


 誠は、これまで重傷者の面倒を見ることなく過ごすことができた。こういう時にどのような対応をとるべきかは、保健体育の授業で学んだこともある。が、とっさに誠が取り出したのは、先ほどまで手にしていた「懐中時計」だった。

 それを握りしめながら、誠はその人のところに駆け出した。


 あの血痕みたいな滲みも、苦しそうな仕草も、すべてが冗談であってくれたらな、と、ちらりと考える。そうであれば、自分の早とちりで済んでしまうのに。だが、走り寄るその距離が縮まるごとに、そんな期待が無意味なものであることを知る。近づけば近づくほどに、その人の苦しみにも近づくことになる。


「あ、あの、だ、大丈夫ですか」

 誠の問いかけに対し、「             」

 その人は、苦悶の喘鳴のなかから、きれぎれの言葉を返す。


 聞き覚えのない、異国の響き。女性の声だ。健康な状態であったなら、さぞかし美しい声の持ち主なのだろうと誠は思った。


 だが、今はそういった事を気にしている余裕はなかった。

 救急車を呼ぶために、誠は握りしめていた携帯電話を持ち直した。


 が。


「……わたしは……ダイジョウブ……です……」


 彼女はあえぐように言った。片言ではあったが、それは誠の母国語だった。


「大丈夫って、そんな……」


 馬鹿な、と言いそうになったが、誠は口をつぐんだ。

 間近で見れば、衣服に大きく残る血の滲みは、すべて乾いていた。今に至るまでにこれほどの出血量があったのならば、失血死していても不思議はないほどだが、現に彼女はこうして生きている。


 そのことに、誠は少し安堵した。だが、彼女が健康であるとは言い難いのは確かだった。

 怪我ではないにしろ、ひどく疲労困憊していることは見て取れた。


「あ、あの、近くに病院があるんだ。そこまで案内を……」


 誠はそう言いかけたが、その言葉が届くまえに、彼女の身体がぐらりと揺れた。


「危ない!」


 慌てて誠が彼女を支えた時には、彼女はもう意識を失っていた。

 しなだれかかる彼女の重みは、思っていた以上に軽かった。


(呼吸は?)


その危惧に、首筋にかかる吐息が答える。


「……病院に行くか」


 誠はその女性を背負い、歩き出した。


 行きつけの病院までは、ここから五分たらず。

 そこに寄ったとしても、おそらく遅刻はしない。



 + + +



 早朝の張りつめたような空気は、陽光によって徐々に穏やかさを取り戻す。


 暖かくなった春の街路に人の往来が目立ち始めた頃、ベルクートもまた、まばらな雑踏のなかを歩いていた。


 血で汚れた法衣から、持参していた普段着に着替えると、ほんの数時間前の戦いが嘘のようにも感じられた。


「……過ごしやすい気候だ。ここには観光で来るべきだったな」


 そう呟いたとき、脳裏に不意に祖国の風景が浮かび上がった。



 かの地の長く厳しい冬は、ひとの心をひどく憂鬱にさせる。少年時代に、友人がこううそぶいていたのをベルクートは覚えていた。


『……ここよりもう少しだけ暖かいところに住んでる奴が、こう言っていた。――冬は憂鬱で、何もすることがない。家にこもってテレビを見るか、楽器をいじるか、本を読むか。あるいは自殺するか――。だが、俺達の冬はもっと寒くて、もっと長いんだ。いじけていたら人生が終わってしまう』


 かれはかじかむ指でギターを弾いていた。


 ベルクートはもっぱら本を読んで過ごした。


 二人とも、テレビ鑑賞と自殺は選ばなかった。長じて友人はミュージシャンとなったが、ベルクートは「聖句術師」などという、奇妙な職に就くこととなった。厳寒の季節をやり過ごすための手段が、その後の人生さえも左右することになるとは、思いもかけないことだ。


 そして今。ベルクートは聖句術師としての責務を果たすべく、この地域に住まう「魔術師」の住処を目指していた。

 そこは「賢人会議」の末端を担う、いわば支部とでも呼ぶべき所だった。


「……賢人、か。勝てない喧嘩をするのは愚者だけだ。勝てないものを無理して勝とうとすれば、その努力は往々にして詭道へと通じる。どちらにしても、見苦しいものだ」

 そう呟く言葉のなかに、すこしの自嘲が混じる。



 賢人会議。


 それは現代の魔術師たちを統べる組織だ。ベルクートはその組織の一員として、件の女魔術師……アリツィヤを追って、はるばる極東の地へとやってきた。


 組織としての究極の目的は「散逸しつつある魔術知識の保護」である。アリツィヤのごとき禁呪を修得した魔術師たち

は、それ自体が貴重な魔術知識の宝庫であるため、かれらを「保護」することは、重要な責務のひとつであった。


 ことに、生命に関する魔術を修め、不完全なものであれ寿命の伸長に成功した者たちは、他のなによりも優先して身柄を押さえる必要があった。


 数百年の時を生きる、禁呪の使い手たち。賢人会議はかれらをこう呼ぶ。


「完成者」と。

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