第3話 感覚の幻視

 早朝の路地を、ひときわ強い寒風が駆け抜ける。



「寒いな」


釘乃誠くぎのまこと」は、学校指定の薄っぺらいナイロンコートの襟を掻き合わせながら、そう呟いた。



 見上げれば、空にはひとすじの雲もない。しかし、どこまでも広がる冬空の青は、清らかではあっても寒々しい。


 とはいえ、ごく当たり前の光景だ。


 猫がひととき気ままにふらりと散歩に出るように、頭上から雲が姿を消す日だってある。


 しかし今、この寒々しい冬空の下でさえ心が安らいでゆくのを意識できた。


 その理由は、単純だ。


 ――「あの重圧」から逃れた。



 その開放感をいま味わえるという事実が、快かった。


(それにしても、何だったんだろう)



 「あの重圧」。そのとき感じたものを、いま一度反芻してみようと思うたびに、「止めておこう」という気持ちが湧き起こってくる。


 不思議なことだ。ただ思い出そうとするだけで、心臓の鼓動が早まる。



(……こんなに怖がりだったかな、俺)


 自分を脅かすものの正体は、いまだによくわからない。


 端的に言えば、ただの夢……というか、悪夢のようなものだった。

 

 が、ただの夢であれば、怯える必要など何処にもない。目覚めた瞬間に、ひとつ深呼吸でもして体外に排出してしまえばよいのだから。


 しかし、今回は、そうやって簡単にうち捨ててしまうことができなかった。


 厄介だった。


 まるで古い知り合いから託された手紙のようだ、と誠は思った。

 ……邪魔だから放り出してしまいたいが、それは許されない。




 昨夜は寝付けずに、布団のなかで目を閉じたまま、ただ眠気が訪れることだけを願っていた。


 普段ならば、そう時間もかからずに眠りについてしまうのだが、なぜか昨日に限っては駄目だった。


 停滞しつつある時間をやりすごすために雑誌を手にしたところで、読むことに全く集中できず、澱んでいく時間の観念だけを意識しつづけてしまう。


 粘ついた檻となった時間の中で、誠はただ「耐えよう」とだけ思った。




 ――俺がどう思おうと関係ない。

 ほっとけば時間は過ぎる。 


 そうやって、考えることを止めようとした。


 だが、心を落ち着けようとしたその時に、ふいに懐に忍び込んできた「気配」があった。




 その気配。いま思い出しても、身の毛がよだつ――。


 いま思い起こせば、それは「気配」だの「雰囲気」だのといった、生やさしいものではなかった。もっと深く、もっと強く、心の奥底に連なるなにかを刺激する、ひどく生々しい知覚だった。


 いや、知覚という言葉では足りない。はだを、肉を、骨を直接切り刻むような「現実」そのものとしか思えない「何か」。




 誠はあのとき、どこかで誰かの肉体が壊れるのを知った。


 それを、己の肉体を壊すのと同じほどの切実さで、知った。



 ――幾本もの白熱する刃が、背を、腹を、胸を、手足を貫いている。


 突き刺さる刀身は、痛みすら麻痺するほどの激しい衝撃と破壊をもたらす。


 筋肉を断ち、腱を裂き、骨を砕き、神経を絶つ。


 そして、刃にこめられた未知なる力は、肉体を内側から自壊させようとする。




 壊れる。激痛とともに。


 肉体が破滅する。後悔とともに。


 魂のよりどころが喪われる。絶望とともに。




 その、恐怖。


(……あれこそが、恐怖というものだ)


 押し潰さんばかりの圧倒的な知覚に、誠の精神は、あわや圧し殺されてしまうところだった。



 しかし。


 それと同じだけの恐怖に曝されながら、「その人」は、なおも立ち向かい、戦ったのだ。



 ……誠が知覚した恐怖の、真の主。


 名は――アリツィヤ? そう呼ばれていたような気がする。


 魂を引き裂くような苦痛のさなか、誠はその名を知った。


 しかし、それ以外のことは、今はまったく思い出せない。


 なぜなら、誠の精神は、そのときに「全ての知覚を手放して」しまったからだ。



「……アリツィヤ、か」


 誠は呟いた。耳慣れない響きだ。しかし、その不思議な名の持ち主の感覚を、たしかに一時は共有したのだ。


 が、アリツィヤという名以外には、なにも覚えていられなかった。


 痛みを知覚する。「その人」の名を知る。のちに、知覚は消え失せる。




 今にして思えば、それはわずか一瞬のあいだの出来事だったと思う。


 あれほどまでに強く感じた恐怖だが、今はもうその全容を思い出すことができない。だが、いま呼び戻せる程度の不完全な知覚でさえ、自分の心をしんから脅かすことができる。


 そう。心が麻痺するその瞬間の、虚無の手触り。


 その感触にほんの一歩近づいただけで、誠は自分の心がざわめくのを感じた。




 ……奇怪な想念を無理にでも思考から切り離したところで、誠はズボンのポケットから携帯を取り出して、時刻を確認した。


「七時か」


 このぐらいの時間に学校に行くと、運動部員の中でも真面目な者たちは、もう朝練を始めている。


「……けっきょく、部活には入らずじまいだったな」


 始業前、放課後、そして休日。それら全てを捧げてまで打ち込むものをついに見つけられないまま、誠の高校生活は三年目を迎えていた。



 ――四月。


 最後の一年が始まる春は、まだ肌寒い。


 しかし、この寒さを感じていられるうちは大丈夫だ。そう、誠は思っていた。




+ + +




 ベルクートの肉体が活力を取り戻したのは、夜明けからすこし経った頃だった。



 路傍より起きあがり、身体をブロック塀に委ねると、長い時間をかけて、かれは己の肉体の在りようを確認した。


 数時間前の争いの痕跡は、いまだ抜けきらない濃い疲労となって、肉体のあちこちに留まっている。だが、手ひどく負ったはずの傷は、身体のどこにも見あたらなかった。



(すべて治癒してしまったのか。……アリツィヤ)



 すこし前に、朦朧とした意識がとらえた「力」。


 アリツィヤが編んだ聖句がもたらした、あの懐かしく、快い感覚。



(まさか俺が情けを受けるとはな)


 人体に穏やかな恢復をもたらす聖句。


 それはひとの健康を願う、ごく素朴な祈念に通じるものだ。現存する聖句としては、もっとも古いもののひとつだという。



(俺も、東方教会に入ってすぐの頃は、この『力』に憧れていた)


 傷ついた人を癒すための願い。古き言葉により正しく編まれた願いは、ひとを救う確かな力となる。


 ベルクートもまた、その力で他者を救ったことがあった。他者からの癒しを受けたこともある。


 その時には、常に感じるものがあった。


 歓喜と、感謝の念だ。


 その暖かさ、快さに惹かれて東方教会の聖堂を目指した己が、いつしか魔術師を倒すための技を身につけ、そしていま異国の路傍に倒れている。この事実は、ベルクートにとっては容易には認識しがたいものではあった。




「負けた、ということか」




 ――負けながら、俺は生きている。


 ――そして、勝者は俺の生命を奪わなかった。



 その事実に、違和感を覚えた。


 戦いに臨んだ瞬間に、己の生命も、敵の生命も、一旦はその価値を留保される。


 魂の重みを人ならざる何かに委ね、ただ「その瞬間を全うするもの」としての意味を試される。


 勝てば、次なる試練の機会を得る。


 敗北者は、勝者の心に爪痕を残すか、さもなければ消えるのみだ。



「あの女は……何を望んで戦うのだろうか」


 早朝の路地には、その問いに答える者はいない。


 今はただ、早々にこの場を立ち去るより他にすべきことはなかった。


 戦いのあと、路上にはただ血痕だけが残されている。


 己の血。そして、アリツィヤの血。


 アスファルトを染めた二人の体液は、すでに乾き、黒ずんでいる。




「……これだけの血を流せば、人は死ぬものだ」


 だが、ベルクートは生きている。もちろん彼女もだ。




「死はいまだ来たらず。俺はまだ……神とともにある」


 そう呟きつつ、ベルクートは歩き出した。


 神。


 神とは誰のことだ? 


 ……アリツィヤか。それもまた良い。神に挑むことは、神に魂を捧げることと同じほどに意味がある。それは人の誉れだ。


 神とは? 


 あるいはアリツィヤさえも操る力を持つ誰かのことか? ……いたとすればだが。そのような者が、自分を生かすことを望んだのであれば、それもまた幸甚の一語に尽きる。



 ともあれ、これが幸いなのかどうかは知らないが、生命と目的はともに手の内に残されていた。その二つがありさえすればよい。さらに力も残されていれば最良だ。



 ――母国から遠く離れたこの国には、まだ、彼女がいる。



 アリツィヤ、と、ベルクートはその名を呼んだ。

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