第2話 聖句と祈り
「 」
うねるような韻律にのせて、彼女の唇は異界の言葉をきざむ。
それは、古代の知恵により編まれた、神と話すための言葉。
己の願いを、「その者」のもとへと届けるためだけの言葉。
ベルクートが用いた聖句に、それは酷似していた。
そして。
「……願いは、容れられた」
アリツィヤの短剣に、長大な光の刃が生成される。
その刃の色は、ベルクートが生成したものとは異なり、極光のごとき鮮やかさを誇っていた。
刀身の輝きは恩恵の白。だが、その中で渦巻いている色彩の源は、アリツィヤの魔力だ。
完成した大剣の切先をベルクートに向けた。
ベルクートも、手にした六本の聖剣をいつでも放てるように構える。
「貴様のような魔術師でも、『神』に祈って力を得ようとはな」
「偉大な力には相応の敬意を払う。その思いに偽りはないわ」
ベルクートの長剣。
アリツィヤの大剣。
神の恩寵を受けて、ふたつの刃はまばゆい光を放っている。
相対する二剣。
その霊威は拮抗していた。
しかし、アリツィヤの大剣は魔力による強化を受けることで、破壊力においてベルクートの聖剣を圧倒していた。
まともに打ち合うのであれば、ただの一太刀でいい。それだけで、ベルクートの六本の剣を所有者もろとも吹き飛ばすことができるだろう。
(そう。その一太刀が……届きさえすれば)
単純な破壊力が勝利を約束するものではないことを、アリツィヤは知っていた。
彼女にとって、もっとも厄介なものが、いまだに健在だった。
ベルクートの「
かれがこの戦場に顕現させた秘蹟は、その力を喪ってはいなかった。
アリツィヤを内包する空間を歪める力は衰えず、熱波と冷気は彼女の身体を確実に破壊し続けている。
極端な気圧変化は疲労と意識障害をもたらし、激変する重力は、さして重くもない光の大剣を構えることすら阻害する。
肉体の損傷を強制的に
(……邪魔な、結界だ)
結界による害。それは、いつ終わるともしれぬ拷問にも似ていた。
あるいは、神の呪いか。
ベルクートは言う。
「……完成者よ。わが結界を退けぬ限りは、何度やっても同じことだ」
その言葉に、アリツィヤは答える。
「結末は神だとて分かりはしないもの。これもまた、博打にほかならないわ」
知識を高め技を練る。その上で、はじめて戦いは始まる。
が、いかなる努力によっても、その勝敗を確実なものとすることはできない。
「俺は博打は嫌いだ。俺の勝利は動かない。だから、いま成すべきことはひとつ。――」
ベルクートの両腕に力がこめられる。
力強くしなやかな筋肉が、異様な力感をもって収縮する。それはまさに、力の解放の瞬間を待つ鋼鉄の発条のようだった。
「――死ね!」
言語化された敵意とともに、六本の光剣が放たれた。
燃え落ちる流星のような刃が、アリツィヤの肉体を貫くべく飛翔する。
(避けるか)
(受けるか)
(墜とすか)
選択。
戦いは常に正解のない選択を強いる。しかし、自らに襲い来る聖剣を前にして、アリツィヤは迷うことなく己の選択に身を委ねた。
手にした大剣を大きく振りかぶる。
剣よりほとばしる聖光と魔光。
それは、アリツィヤの周囲にわだかまる、ベルクートの結界……歪んだ神の加護すらも打ち払う。
が、彼女に与えられた「加護」と、ベルクートに与えらた「加護」は、ともに神より与えられたものだ。
両者が同時に存在する矛盾は、互いの力への攻撃的干渉となり、自身を巻き込んでの連鎖的な破壊を生み出す。
「……っく、あぁぁっ!!」
激しい衝撃が、肉を、骨を軋ませる。
閃光と衝撃の渦の中、アリツィヤは歯を食いしばり、掲げた大剣を振り下ろす!
「――――!」
裂帛の気勢が斬撃とともに打ち下ろされる。
結界は完全に打ち払われ、歪曲された世界は、灼きつくさんばかりの光芒によって覆われ始める。
切先より放たれた剣気は、一直線にベルクートに向けて突き進む。
「真正面から潰し合うか!」
歓喜。
敵愾心。
畏怖。
共感。
それらの様々な想いがただ一声に込められたかのようなベルクートの絶叫。
かれの手より放たれた六本の投剣。
アリツィヤの大剣より放たれた一条の剣気。
それらは互いに不可避の軌道を疾り――重なり合った。
託された力と力が交わり、干渉し、否定しあい、そして。
+ + +
……深夜の街並みに穏やかな風が吹き抜ける。
先ほどまでの「歪み」は、もはや存在しない。
アリツィヤの視界にある全てのものが、この土地の、この街の、本来の姿を取り戻していた。
――街灯の光は、アスファルトの街路をしらじらと照らす。
その光の列は規則正しく並んでいて、それらが行く先は、かなたに瞬く人家の灯りの群に重なる。
寂しげな、だがどこか心安らぐ光の道。その下を歩いてゆけるのは、きっと幸せなことだ。
それは、まるで……、
「……天国への道のようだ」
アリツィヤはそう呟き、しばし佇立する。
光と影の織りなす薄明の空間は、ふしぎと人通りも少なく、まさしく現世と幽世の接続点のようだった。
「……生と死の境目、か」
あるものは得て、あるものは失う。
魔術師の戦い。ひとが「祈る」ことを覚えて以来、歴史の中で飽くことなく繰り返された、あまりにもありふれた営みだ。
だが、それは多くの場合、参加者を明確に二分化する。
生と死。生と死、生と死……。
敗者は敗者。勝者もいずれは地に倒れ伏す。
「そして、いつの日か、きっと誰もいなくなってしまうのね」
言葉は闇のなかに沈み、呟きに答える者はいない。
アリツィヤは、破滅しかけた肉体をひきずるようにして、薄明かりの中を歩き出した。
ここを去るまえに、やるべきことが彼女にはあった。
「……ベルクート……」
呟きながら、ゆっくりと周囲を見て回る。
ほどなくして、彼女は闇のなかにわだかまる人の姿を見つけた。
昏倒するベルクート。ほんの少し前までの雄敵。
アリツィヤは、静かに近寄り、そばに跪く。
そして、無言のまま、かれの頬や首筋に手を振れ、その生命の息吹を確かめる。
「……良かった」
アリツィヤは呟き、傷だらけの貌に微笑みを浮かべた。
そして、ベルクートの頬に手をあてたまま、彼女はしずかに目を閉じ、ゆっくりと聖句を紡ぎ始める。
「 」
神と話すための言葉は、アリツィヤの唇からおだやかに飛びたち、夜のしじまに溶けてゆく。
清らかな韻律に、こめられた願いを乗せて。
――聖句を紡ぎ終えたのちに、アリツィヤは立ち上がり、歩き始めた。
「……ここは、いい風が吹くのね」
街灯が投げかける光のもと、暖かな街灯りを目指して。
+ + +
昏倒していたベルクートは、やがて意識を取り戻す。
五感と、時間の観念。そして、傷ついた肉体が訴えかける、さまざまな痛み。
ひとたびは欠け落ちてしまったはずの感覚が、覚醒とともに、じょじょに蘇る。
が、あれほどまでに猛っていた「戦意」は、なぜか消え失せたままだった。
そして、ベルクートの理性は、ある事実を知る。
「……俺は、敗北し……そしてなお、生きている」
と、ベルクートは思考する。しかし、実感を掴むには至らない。
敗北。その事実を、知性では決して認めることはない。
(真の敗北とは、わが心身の破滅を指す。が、俺はまだ滅びていない)
「覚醒」する意識がある限り、痛みを感じる肉体がある限り。
戦いを降りる理由などはない。
……だが、肉体に刻み込まれた戦いの記憶は、そんな「当たり前」の思考を激しく揺さぶる。
「魔術師アリツィヤ。あの女の前においては、俺もまた、ただの障害物にすぎなかったのだろうか」
彼女こそが、千年紀を越えて生きる『完成者』の一人だという。
彼女は、襲い来る魔術師すべてを「生命を奪うことなく」退けてきた。
そして今、その敗北者の列に連なる己の姿を思いながら、ベルクートは呟いた。
「……わが氏族の悲願。それは『完成者』を屠ること」
己の血統が、そうせよと命じる。
そして、その命令こそがベルクートの意味でもあった。
しかし。
かれが呟いた言葉とは裏腹に、肉体にいまも宿るとある感覚が、その言葉への疑いを投げかけていた。
その感覚を、ベルクートはよく知っていた。
……肉体に働きかけ、その恢復を助け、活力を与える力。
(賦活の祈りか)
アリツィヤの聖句が顕現させる力が、かれの身体を穏やかに癒してゆく。
身を委ね、目を閉じていると、まるで揺籃のなかにいるかのような安らぎを覚えることができた。
(…………)
いまもなお、かれの理性は戦いを求めている。
が、肉体は、言葉なき言葉をもって、かれに語りかけているような気がした。
痛みと、安らぎ。
その振幅にやどる意味を探るうちに、ベルクートの意識は、ふたたび闇のなかに沈んでいった
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