三.蕎麦
鎖籐は特に目的もなく、ぶらぶらと歩いているようだった。
流れるように上野動物園に入り、チエ子は生まれて初めて生きた象を見た。そうしてそのまま神田に流れ、なんとも煌びやかな神田明神を参拝する。
「神保町まで行きたいなぁ」
震災ですっかり寂しげになった湯島聖堂を見た後で、鎖藤は言った。
「馴染みの本屋がイギリスの怪奇小説を仕入れたというんでな、見に行きたいんだよ。ただ、その前にちょっと腹ごしらえをせにゃならんな」
チエ子はこくりとうなずいた。途中で車に乗った事もあり、疲労はそこまでではない。しかし腹の中はすっかり空っぽだった。
鎖藤はチエ子を連れて、近くの蕎麦屋に入った。
そこはどうやら鎖藤の馴染みの店らしかった。
「ああ、鎖藤さん。よく来たね」
「よう、大将。調子はどうだい」
鎖藤と店主は気楽な調子で話している。
しかしチエ子は立派な店構えにすっかり圧倒されてしまって、鎖藤と店主が話している間中ずっと縮みあがっていた。
そうして気づけば、チエ子の前に湯気の立つ蕎麦があった。
「そら、うまいのが来たぞ」
鎖藤は喜色満面で箸を取った。
チエ子は蕎麦を見下ろす。
飴色をした丼。
そこに白く艶やかな蕎麦が沈み、葱と油揚げとがこんもり盛られている。
チエ子はまず、その汁の黒さに驚いた。
あまりにも黒く、丼の底が見えない。墨でも解いているのかとチエ子は思った。
「食え食え。うまいぞ」
鎖籐に促されるまま、チエ子は蕎麦に箸を伸ばした。
墨の味はしない。代わりにまろやかな醤油と、香ばしい鰹の風味がした。それらがつるりとした蕎麦切りに絡みつき、蕎麦の香りを引き立てる。
思わずチエ子は夢中になって蕎麦を啜った。
その様に、鎖藤は嬉しそうにうなずく。
「どうだ、うまいだろう。ここはな、帝都一蕎麦が美味い場所だぞ」
「はい、本当に美味しくて……ああ、ごめんなさい、あたしったらはしたないことを」
「構わん構わん、うまそうに食うのが飯への礼儀だ」
鎖藤は豪快に笑い、自らも蕎麦を食い始めた。
「こうして滋養を取れば良い物も書けるさ」
「……そうなんですか?」
思わず箸を止め、チエ子は鎖籐を見た。
鎖籐は本当に美味そうに蕎麦を啜って、大きくうなずいた。
「おうとも。机にかじりついて唸るばかりじゃ、小説は書けんよ。何も浮かばないときはともかく外に出るのがおれのやり方だ」
「こんな風に?」
「ああ。こんな風にだ」
酒に手を伸ばして、鎖籐は笑う。
「外の空気に触れてな、体の中の澱みたいなのを流すんだ」
チエ子はほうと息をして、丼の中の蕎麦を見下ろした。
たしかに最近、体内に黒いもやのようなものが溜まっていた気がする。それは悩むにつれて深さ、濃さを増し、わずかばかり思い浮かんだ像すら隠してしまうのだ。
「なかなか書く事ができないんだろう? そりゃ当然だ、帝都に来て息つく暇もなかっただろうに。おまけに書き慣れていないんなら、書ける方がおかしい」
「でも、あたしはこんなに良くしてもらっているのに」
着物の裾をにぎりしめ、チエ子はうつむく。
目頭が熱くなった。視界が潤み、ぐらぐらと揺れている。
「書けなくて、情けなくて、申し訳なくて……」
「焦らなくていい」
優しく鎖籐は言って、大きな手でチエ子の背中をそっと撫でた。
「おれも、帝都に来てしばらくはひどいもんだったさ。なに、大丈夫だ。最初は皆、下手なんだから。ゆっくり、ゆうっくりでいいんだよ……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます