四.銘仙
ある時、チエ子はりんに「用事があるので昼食後、部屋に」と呼ばれた。
なにか遣いでも頼まれるのかとおもった。しかしりんの部屋に向かったチエ子を待っていたのは、まったく思わぬ用事であった。
まず、髪をいくらか切られた。
「本当はもう少し切った方がハイカラなのだけれど」
言いながら、りんはしゃきしゃきと鋏を鳴らしてチエ子の髪を切る。
「でも、いきなり短くなっても慣れないでしょうから。まずは整えるくらいにしましょうね」
続いて、服を着せ替えられた。
りんとかよは、色とりどりの着物が広げる。花、手まり、矢絣、市松模様。着たこともない銘仙の着物が次々に現われ、チエ子は頭がくらくらしてきた。
そうして髪を整え、服を替え、いくらか化粧もされ。
「こいつを着けてみたらどうでしょ」
かよが見つけてきた赤いリボンを髪に結わえられた。
そうして、チエ子は鏡の前に立つ。
「見てみて。――ほら、かわいらしい」
かよが優しく言って、チエ子の肩にそっと手を置く。
チエ子は目を丸くして、まじまじと鏡の中の自分を見つめた。
さっぱりとした黒髪に青いリボンを着け、黄色と赤色の扇模様の銘仙を纏った知らない少女がいた。青い帯に、雪の結晶にも似た飾りをつけている。
「本当に飾ったら化けますねぇ」
「でしょう? きっと似合うと思ったのよ」
りんとかよがのんびりと会話をするのを聞きながら、チエ子は呆然と立っていた。
これは白昼の幻覚ではなかろうか。
自分が、こんなに綺麗なわけがないのに。
おずおずと手を振る。鏡の中の小娘も、おずおずと手を振り替えしてきた。
「チエ子さん、ここのお着物、もらってくれないかしら」
「そ、そんな……!」
まったく思いがけないりんの言葉に、チエ子は仰天する。
「あたしには不釣り合いな代物です。それに、こんなに良くしてもらってるのに……なんにもあたしはできてないのに……これ以上なんて……」
「これね、親戚の子が着ていたものなのよ」
りんは困ったように笑って、肩をすくめた。
「それでその子が新しいのをたくさん買ったから、古いのを捨てようとしてたの。でも、私は勿体なくってね。いくらかもらって、ずっと仕舞い込んでいたのよ」
「うちにはそれ、着る人もいませんからねぇ。あたしにゃ小さいし」
かよの言葉にうなずいて、りんはチエ子の方を向いた。
「貴女しか着る人がいないのよ。もらってくれないかしら?」
チエ子は自分の着ている着物を見て、そうしてあちこちに広げられた着物を見た。
確かに、布地や模様は少しだけ古いものに見える。
けれども、まだ十分に着ることができる。そして、十分に美しい。
これがずっと薄暗いところにしまい込まれているのは、勿体ないような気がした。
着るのではなく、着させていただこう。
自分はこの着物に日の目を見させる指命を負うのだ。
そう考え、決意した。
チエ子はひとつうなずいた。それを合意とみたのか、りんは嬉しそうに「髪飾りもいくつかあるのよ」と箪笥の中を探し始めた。
着物は何度かに分けて、チエ子の部屋の箪笥へと運ばれた。
片付けが終わった後、特に手伝うこともないチエ子はぼんやりと屋敷の庭を歩いた。
陽光の下、白梅の花弁が揺れている。
頬を撫でる風は暖かく、微かに花のにおいがした。もうすぐ桜の季節がやってくるのだろうなと、チエ子は散りつつある白梅を見ながら思う。
「だっ……」
ばさばさと紙の束が落ちる音が聞こえた。
振り替えると、渡り廊下の縁側で小太郎が呆然とした様子で立ち尽くしている。足下には大量の原稿用紙が散らばっていた。
小太郎は目を丸くして、震える指先をチエ子に向けた。
「きみは誰っ……です、か……?」
途切れ途切れの問いかけだった。
チエ子は言葉に悩んだ。
答えにあぐねているうちに、小太郎は何度かまばたきをする。やがてその表情が更なる驚愕に染められ、ついでぱっと赤くなった。
小太郎は地面にしゃがみこみ、大急ぎで原稿用紙をかき集めた。
「間違えただけだ!」
雑にまとめた原稿を抱えて、小太郎はきっとチエ子を睨んだ。
しかしチエ子が視線を合わせると、彼は何故か困ったような表情になって目をそらした。
「いいか、間違えただけなんだからな!」
甲高い声でそう言って、小太郎は足早に立ち去ってしまった。
残されたチエ子はぽかんとして、彼の袖が廊下の向こうに消えるのを見送った。
と、小太郎が去った方向から鎖籐が現われた。
鎖籐はなにやら怪訝そうな顔で廊下の向こうを見つめ、チエ子を見た。
「あいつ、どうしたんだ? いつになく様子がおかしいじゃないか」
チエ子は答えることもできず、肩をすくめた。
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