二.天災
チエ子の執筆は苦戦から始まった。
書こうとすると、頭の中で文字が霧散する。頭の中にある像を、どう表現すれば良いのかわからない。そもそも、頭の中の像がまるでまとまらない。
雪原を行く男が、一体どこに向かっているのかわからない。
文字を書こうとしては手を止める。鉛筆に噛み跡だけが増えていく。
千手は「焦る必要はありません」と何度も言ってくれた。
「今までほとんど書いたことがなかったのですから、当然です。焦ることはない。そして、最初から上手に書く必要はないのです」
けれども千手の優しさに触れるたび、チエ子はなんだか泣き出しそうになってしまう。
せっかく遠くから来て、こんな立派な家に自分を迎え入れてくれたのだ。
なのに書けない。
これ以上に申し訳ないことはない。
いっそ小太郎のようにいちいち嫌みを言ってくれたほうが気楽だった。
「化けの皮が剥がれるのは案外早かったな」
チエ子と顔を合わせるたび、小太郎はせせら笑った。
りんや千手の前では怒られることがわかっているのか、彼は誰もいない一瞬の隙を突いて嘲笑してくるようになった。
「あの雪の話はおおかたまぐれだったんだろう。それか、誰かが書いたのを盗ったんだ。まぁ、帰る時は荷造りだけは手伝ってやるよ」
小太郎がそうして嘲るたび、逆にチエ子は気が楽になった。いつしか自分のように無学で無才のものには、これがふさわしい言葉だと思うようになっていた。
しかし、そんなチエ子の現状に手を差し伸べる者達もいた。
ある朝、チエ子は鎖籐に声を掛けられた。
「今日は少しのんびりしようや」
ちょうど部屋から出てきたばかりのチエ子は目をぱちぱちとさせて、鎖籐を見上げた。
清々しい朝の空気の中、鎖籐はいつも通りどこか楽しげな様子に見えた。
「先生とかよさんにはおれから言ってある。嬢ちゃん、ここに来てからずっと動きっぱなしだったろう。少しくらい羽を休めてもバチはあたらんよ」
「で、でも、文章の練習をしないと……」
おどおどするチエ子に鎖籐は豪快に笑って、その肩を軽く叩いた。
「机に齧り付くばかりが創作じゃないさ。――まぁ、ついてこい。良いところを教えてやる」
笑う鎖籐に引きずられるようにして、チエ子は街に出た。
燦々と陽光に照らされる帝都東京は、初めて来た時と変わらず巨大でせわしない。しかし、その日、チエ子は初めてゆっくりと東京を見て回った。
「震災でずいぶん東京も様変わりしたんだよ」
たまたま電停に停まった路電に乗り込み、鎖籐は言った。チエ子はその隣の席にちんまりと収まって、車内やら窓の外やらを見た。
「今はあちこち区画整備だの復興だので、どんどん新しい道やら建物やらを作っていってる。十年後くらいにはまるで違う街になっていそうだ」
「震災で、そんなにめちゃくちゃになったんですか」
「ああ。揺れもそうだが火事の方がひどかった。浅草、日本橋、銀座……あらかた焼けちまってなぁ。地獄絵図ってのは、ああいう風景のことを言うんだろう」
そう言いながら車窓を見る鎖籐の目は、なんとも言えぬ色を湛えていた。
変わりつつある街を慈しむようにも、あるいは変わる前の街を惜しむようにも見える――そんな複雑なまなざしをしていた。
「……で、その震災のせいで我々千手門下三人は先生の世話になっているのさ」
「えっ……」
「おれも元々は神田のほうに間借りしてたんだが、その辺りは火災がひどくてな。すっかり灰になっちまったよ。小太郎のところも似たようなもんだ。あいつはあの震災で、姉さんを亡くしてる」
つんと澄ました小太郎の顔が脳裏によぎった。
そして、彼が首からいつも提げている柘榴石のロザリオ。小太郎は暇な時があれば、いつもあのロザリオの数珠玉を数えながら祈りを捧げていた。
あれは、姉のための祈りだったのだろうか。
何も言えずにいるチエ子の隣で、鎖籐は小さくため息を吐いた。
「透は本所区に間借りしてた。被服廠の近くだ」
本所区。被服廠。その言葉に、チエ子は目を見開く。
本所陸軍被服廠跡――そこで起きた悲劇は、遠く離れた北陸にまで伝わってきていた。
「……あいつは、あそこでひどいものをみたらしい」
鎖藤は、それ以上のことは言わなかった。けれどもそれで十分だった。
チエ子は、窓の外を見る。
明るい陽光に照らされる街を、がたごとと路電が進んでいく。
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