参.

一.紙上の鵺

 気配がした。

 振り返ると、ぬえがいた。

 真っ暗な中で、不気味に光る目がじいっとチエ子を見ている。

 その形は、前に見たときよりもさらにおぼろげになっていた。ぼんやりとした黒い渦巻きの向こうで、怪物の輪郭はゆらゆらと陽炎のように揺れている。

 チエ子は後ずさる。

 その分だけ、ぬえが近づいてくる。


「おまえはなんなの。あたしを脅かして何がしたいの」


 チエ子の金切り声にも、ぬえは答えない。

 ただ鬼火のように光る眼がチエ子を舐めるように見ているだけだった。

 二度目の遭遇ともあり、チエ子にはいくらか度胸がついていた。怯えをなんとか押さえ込み、チエ子は果敢にも一歩近づいてぬえの姿を見極めようとした。

 すると、逆にぬえはふらりと遠ざかる。

 遠くで揺れる瞳を見て、チエ子の心から恐怖が少し薄らいだ。

 代わって、チエ子はぬえに苛立ちを感じた。

 こいつは自分をからかっているのだ。恐らく小娘だと侮って笑っているのだろう。

 チエ子はきっと、ぬえの目を睨んだ。


「お前なんか知らない。付き合ってなんかあげないんだから」


 チエ子は吐き捨て、ぬえを置き去りにして立ち去ろうとした。

 踵を返した。

 ぬえの目があった。

 鼻先に迫るくらいのところに。


 チエ子は悲鳴を上げ、目覚めた。

 夜が明けていた。窓から白い陽光が差し込んできている。小鳥のさえずりを聞きながら、チエ子はしばらく目を見開いたまま天井を見つめていた。


「ぬえが、いた」


 一言、それだけ呟く。

 夢で見た怪物の眼光は、しっかりと少女の胸に刻み込まれてしまっていた。

 あの恐ろしい――不定形の影のことを思い出すだけで、心臓の鼓動が一気に早まる。

 チエ子はよろよろと体を起こし、文机を見た。


「――ぬえが、いる」


 そこには原稿用紙があった。

 昨晩と何一つ変わらぬ――一文字も書かれていない原稿用紙が、あった。

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