三.千手門下三人

 その夜。自室に戻ったチエ子は、真っ白い原稿用紙を前に考え込む。


「思いつくことがあればなんでも書いてごらんなさい」


 千手はそういって、チエ子の執筆を奨励した。


「最初から上手に書く必要はありません。ただ、できるだけ今のうちから最後まで書き切ることを意識しなさい。未完の大作よりも完成した凡作です」

「……書く」


 千手の言葉を思い返しながら、チエ子は呟く。

 書く。

 なにを。

 文机に向かったまま、畳の上にごろりと転がる。そうすると、部屋の窓から半月が見えた。

 冷たく輝く冬の月を見つめて、チエ子はぼんやり考える。

 今日の半ドン会で、自分以外の弟子が何を書いているかも知ることができた。

 学生の小太郎は、本来なら故事や切支丹を題材にした小説を書くという。

 しかし反面、本人の気難しい性質によるものか、難解かつ哲学的な内容を盛り込みがちで、鎖藤からは「人に読ませる気がない」と苦言を呈されていた。


「わかるやつだけがわかればいいんだ」


 鎖藤の指摘に、小太郎はふんと鼻を鳴らした。


「ぼくは最初から、その辺りのぼんくらに読ませるつもりはない。内容を理解できる奴だけがぼくの小説を読めばいい」

「こんな漢字だらけの新聞みてぇなもん誰が読むんだ」


 鎖藤は呆れきった顔で、小太郎の原稿を示した。たしかに小太郎の原稿はほぼ限界まで文字が詰め込まれている上に注釈も多く、ほぼ真っ黒だった。


「だから読める奴だけが読めば良いんだ」


 ロザリオをいじりながら、小太郎は肩をすくめる。


「いいか、ぼくは読者に読ませてやってるんだ。読めないなら、ついてこなくていい」


 鎖藤は「話にならねぇなぁ」と、ため息を吐いた。

 そしてその鎖籐こそが、千手門下では二大巨頭といわれる存在の一人だった。

 チエ子は寝転がったまま、畳の上に手を伸ばす。

 そこには先ほどの半ドン会でもらった、いくつかの本や雑誌が置いてある。

 チエ子はその中の一冊をとった。色鮮やかに彩色された少年向けの雑誌だった。栞を挟んだところを開くと、ある小説が載っていた。

『海賊赤髑髏』――鎖藤善吉。

 顔の皮膚が剥がれたような顔をした恐ろしい海賊『赤髑髏』と、それを追う少年達の勇姿を描いた一大傑作だ。相当な人気作品のようで、雑誌でも最初の辺りの頁にあった。

 それは、子供向けとは侮れない内容だった。

 物理法則を無視した赤髑髏の秘密道具。空飛ぶ超弩級戦艦。尋常ならざる少年達の膂力と精神――頁を捲る毎に現われる突拍子もない展開や奇天烈な設定。

 全てが精緻な筆力で描かれ、読者はそれがさも現実にあったことのように感じてしまう。


「知り合いに少年向けに何か書いてくれって頼まれたんでね」


 一気に読み切り、小説を絶賛するチエ子に鎖藤は笑いながら言った。


「冒険小説はいい。書いてて楽しいからなぁ、皆も喜ぶし」

「もう少し高尚な題を扱えば良いとは思う」


 傍で煙草を吸っていた魅谷が鎖籐に指摘する。


「そうすれば、今よりももっと名が売れていただろう」

「あんまりそういうのに興味はないな。おれは読んでもらいたいから書いてるんだ。だから人の読みたいものを書く。あんまり自分の趣味だのなんだのは気にしないな」

「逆神くんとは真逆だね。彼に言わせれば大衆の奴隷の書き方だ」


 魅谷はやれやれと言わんばかりに肩をすくめ、煙草を咥えた。

 鎖籐はけたけたと笑って、茶に口をつける。


「違いねぇや。まっ、それがおれの流儀なんでね。それによ、最近はちょっと珍しくおれが書きたいと思ったものを書いてんだ」

「ああ、前から書いてるやつかい?」

「おうよ。題は『風見鶏』――いつもお前が書いてるような題材だ」


 魅谷は、鎖籐と並ぶ千手門下の二大巨頭の一人だ。しかしその作風はほぼ真逆だった。

 チエ子は畳の上から、もう一冊本を取る。

『ネバアモア』――魅谷透。

 それはエドガー・アラン・ポーというアメリカの作家の詩を元にした物語だった。

 時も場所もわからぬ場所で、青年はカラスの幻覚に苛まれながら恋人の遊女の帰りを待っている。そこに代わる代わる三人の旅人が訪れ、青年を嘲笑う。

 酒と阿片とによって現実と幻想、過去と現在との境界が歪み、溶けていく。

 その悲劇的な過程を、美しく繊細な言葉で彩った物語だった。


「ぼくは、自分が美しいとおもうものしか書かない」

「お前の話は暗すぎる」と鎖藤に苦言を呈され、魅谷は肩をすくめた。

「そしてぼくが美しいと思うものはたいてい悲しくて、不確かなものだ。そうして、それは夜の闇の中でこそ真の美しさを見せる。――ぼくが書くのは、そういうものだよ」


 退廃と厭世と幻想――魅谷の美学は、それらの三要素によって組み上げられている。

 魅谷が夜行性というのも、その独特の美学によるものらしい。


「夜の空気を吸わないと、ね」


 魅谷はチエ子にそっと言い聞かせた。


「不確かなものというのは夜の闇の中でこそ姿を見せる。そうして我々が書くのは不確かなものだ。時折夜の気を吸わねば、良いものは書けませんよ」


 そうして笑う魅谷の姿に、チエ子はまたどこかの誰かの姿を重ねてしまうのだった。

 チエ子は本を閉じると、また畳の上に重ねて置いた。一通り読み終わったら他の本とともに、棚に収めるつもりだった。

 起き上がり、真っ白な原稿用紙を見る。


「……あたしは何を書こう」


 書きたい、と思う。

 けれども三人の弟子達のように明確に書きたいものが思いつかない。書きたい衝動だけは胸の内にあるのに、肝心の書きたいものが漠然としている。

 鉛筆の端を噛み、チエ子は考え込んだ。

 あの話の続きを書こうか、と思った。千手に見出されるきっかけとなった短い話。雪原を突き進む男の物語を、いまこそ書くべきではないかと。

 元はといえば、あの話を完全な形で書きたいと思ったから全てが始まったのだ。


「まずは、ここから」


 あの男の旅を進めよう。

 いまは大した目標もない。ともかく、思いついた事をやってみようとチエ子は考えた。

 噛み跡だらけの鉛筆を口から離すと、チエ子は原稿用紙に向き合った。

 夜が更けていく。空気がしんしんと冷えていく。

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