弐.
一.半ドン会
「夜明け前 白山権現 夢のうち」
誰かが優しい声で囁く。その誰かの正体を知る前に、チエ子は目を覚ました。
ぼんやりと天井を見上げる。陽光の中で、小鳥のさえずる声が聞こえた。
こんなに穏やかな起床は久々かもしれない。工場では、まだ夜が明けきって居ないうちからいつも先輩女工が鍋をがんがんと打ち鳴らして皆を叩き起こして回っていた。
チエ子はしばらく、じっと手元を見ていた。
窓から差し込む陽光が、布団を白く輝かせている。チエ子はぼうっとしたまま、光の中にある自分の手をしばらく閉じたり、開いたりしていた。
「夜明け前 白山権現 夢のうち」
夢の中で聞いた言葉を繰り返した。
口にした瞬間、かすかな懐かしさをチエ子は感じた。『白山権現』という言葉に、故郷を抱く霊峰白山の威容を思い出したからかもしれない。
けれども、この俳句そのものにも寂しさにも似た感情を感じるのだ。
そもそも一体どこの、誰の句か。まるで思い出せない。
チエ子は瞼を伏せ、小さく唸って考え込んだ。しかしいくら考えても答えは出ない。その感覚は霧の中で、誰かの淡い影を探すのに似ていた。
やがてチエ子は首を振ると、布団から出た。
この日から、チエ子の仕事と修行は正式に始まることになっていた。
仕事というのは、言わば細々とした家事手伝いだ。朝食を食べてすぐ、チエ子はかよを手伝って皿を片付ける。そうして洗濯を済ませ、廊下から階段まで家中の掃除をする。
「掃除してりゃどこになにがあるかすぐにわかりますよ」
チエ子に雑巾やら箒やらを渡しながら、かよは言った。
「この屋敷は明治になった頃に洋館を新たに付け足したんです。そっちの方がいくらかまだ掃除がしやすいんで、あんたはまずは洋館の方でやってください」
「わかりました」
掃除道具をしっかりと抱えて、チエ子はうなずく。
「今後の仕事ですがね。あんたは小さいから、あんまり力仕事はできないでしょう。まぁ、様子を見ながら色々やっていってもらいます」
かよはそういって、「まぁ、あんたの本業に差し障らん程度に」と付け足した。
本業――小説の時間は昼下がりから始まる。
昼食後の一休みの後で、チエ子は千手の書斎に向かった。
千手の書斎はインクと紙、それと削ったばかりの木の香りに包まれている。
広々としたその部屋は半分には書斎机や本棚が置かれ、いかにも小説家といった風情。もう半分には新聞が敷かれ、壁際には真新しい木の仏像が並んでいた。
「ああ、趣味で彫刻をやっているのですよ」
思わずまじまじとチエ子が仏像を見ていると、紅茶を淹れながら千手が言った。
その言葉に目を丸くして、チエ子は振り返った。
「これ……全部、先生が?」
壁際に並ぶ仏像はどれも精緻な作りで、巧の御業に見えた。やわらかな表情はまるで生きているようで、蓮華や羂索などの細々したものも作り込まれている。
息を呑むチエ子に、千手は少し照れくさそうに笑った。
「えぇ。悩んだ時にはひたすら木を削ります。こんがらがった思考が整理されるように感じるんですが……多分、似ているのでしょうね」
「似ている?」
「あくまで私にとって、ですが」
千手は言って、小さな椅子と机を自分の書斎机の隣に用意した。
それをチエ子に示しながら、千手は微笑む。
「文を書くのと、木から仏を削り出すのは、似ているのです」
チエ子は首を傾げた。
紙に字を書くこと。仏像を彫刻すること。チエ子からするとどちらもまるきり違った作業で、結びつく要素がないように見えた。
「きみはあまり文章には馴染みがなかったでしょう。まずはいくつか私の持っている本を貸してあげますから、それを書き写してみなさい。わからない単語は辞書を貸しますから、それできちんと調べること」
「どうして書き写すんですか?」
「そうすると、文章の細かいところまで読めますからね」
チエ子が席に着くと、千手は一冊の本を机に積んだ。
『四篇』――夏目漱石。兎と花々とが描かれたその表紙を、チエ子はぼうっと見つめた。
それは、あの『夢十夜』を収録した短編集だった。
「慣れてきたら、その内容を自分ならどう書くかを考えて書いてみるのもよろしい」
「あたしみたいなのが……手を加えても良いんですか」
チエ子は恐る恐るたずねる。
「えぇ。これは、練習ですからね。本番の執筆ではないのです」
「はい……」
「ただ誰かの文章をただ書き写しただけのものや、ほんの少し語尾や順序を変えただけのものを、『自分の作品だ』と言い張るのはいけません。それは、恥ずべき行為ですからね」
「あたし、そんなことやりません」
胸に手を当てて、チエ子は必死でうなずいた。
すると千手は満足そうに笑って、チエ子の机に鉛筆と消しゴムとを置いた。
「よろしい。ゆっくりで良いですよ。ひとまず柱時計が鳴るまでやってごらんなさい」
チエ子はうなずいて、さっそく本を開いた。
それからの日々は、ほぼその繰り返しだった。
まずは朝から昼までかよの家事を手伝い、昼から夕方にかけての時間は千手の元で基礎的なことを教わり、そうして夕方から夜はまた諸々の家事を手伝う。
曜日によって、ここに別の作業が加わることもあった。
例えば土曜日の昼下がりは、チエ子を含めた弟子達が全員千手の元に集まる。
この集まりは、弟子達の間で『半ドン会』と言われていた。
半ドン会の話題は、昨今の文壇から海外の事情まで様々だった。
野球の結果が気に食わないだの、カフェーの女給がどうだのというくだらない話題もあった。
多くの場合口に上るのは、弟子達の作品のことだった。
「おまえは本当に女が書けないなぁ、小太郎」
小太郎が書いている最中の原稿を読んでいた鎖藤がうなった。
「なんだと。どう書けていないと言うんだ」
「いまいち現実味がないんだよ。電話交換手とばかり話してる男が書いた女って感じだ」
「失礼な奴め! 馬鹿にするにも程があるぞ、鎖藤!」
小太郎の剣幕に、まったく関係のないはずのチエ子はびくりと震える。
この日が初の半ドン会のチエ子は、テーブルの端でこつこつと筆写を続けていた。
「まぁ、落ち着きたまえ」
それまで我関せずという態度で煙草を吸っていた魅谷が口を挟んだ。この人は、昼の日差しの下で見ても顔色が青白い。
「鎖藤の言い方はどうかと思う。ただぼくも、きみは女というか人を書くのが下手だと思う」
「……具体的にどう下手なのか教えてくれませんか、魅谷さん」
魅谷に指摘されると、小太郎は一転して態度が慇懃になった。
指摘内容が不服ではあるのだろうが、どうやら鎖籐よりも魅谷を尊敬してはいるらしい。
魅谷は「そうだな」と首をひねり、カップに茶を淹れていた千手に視線を向けた。
「先生はどう思われますか」
「私は下手と言うことはないと思います」
千手は答えて、紅茶に角砂糖をいくつか落とした。
その言葉に、小太郎の顔色がぱっと明るくなる。しかし、千手は言葉を続けた。
「ただ、最近は少し迷っているように見えます。書く内容に迷いがあるから、結果的に動きがぎこちなくなってしまうのでしょう」
「ああ、たしかに。最近は特にひどいと思っていたなぁ」
ビスケットをかじりながら、鎖藤は心底納得したという顔でうなずく。
「先生の言うとおりだと思う」
煙草をすぱすぱと吸いながら、魅谷が言った。
「それに、あくまでぼくがそう思うという話だが、そもそもきみは恋愛を書くのに慣れていないんじゃないか。きみは元々、記録を書くように物事を書くのが得意みたいだから」
「最近不調だから、新しい事をはじめてみたんだろ。だが、付け焼き刃じゃなぁ」
「うぅ……」
魅谷や鎖藤からの指摘に、小太郎の顔色が一気に暗くなった。
表面上はせっせと筆写を続けつつも、チエ子は内心恐怖を感じていた。
ある程度書けるようになったら、こんなに鋭い指摘や感想を叩き込まれるのか。自分が小太郎の立場ならば、まず書けなくなってしまうだろう。
心の中でチエ子が震えていると、千手が「まぁまぁ」と周囲をなだめた。
「そこまでいうものではありません。はじめて書いた題材にしてはなかなかのものです。それに逆神くんはまだ書いている途中でしょう」
「でも、ぼく自身正直これがあんまり良いものにみえないんです」
小太郎は唇をへの字にして、目の前に広げた原稿を睨み付けた。それは、今にも泣き出しそうな子供の表情に見えた。
「最近、全然書けないんです。何を書こうとしてもごみみたいに見える」
「きみは少し理想が高すぎるところがあります」
千手はいって、小太郎の肩を軽く叩いた。
「書きづらくなった時は伸びる時です。今、きみは殻を破ろうともがく雛鳥と同じです。一度基本に立ち返ってみるのも良いでしょう」
「基本、ですか」
小太郎は首をひねる。
すると千手はうなずくと、書斎机へと向かった。そしてその引き出しから、まっさらな原稿用紙と鉛筆、消しゴムとを用意した。
「お、あれをやるのか」
頬杖をついた鎖藤が眉を上げた。
千手はそれを自分の前に置くと、「書けますか」とたずねた。小太郎はしばらく悩んでいたが、眉間に皺を寄せたまま千手に向き直った。
「先生にお願いします」
「わかりました。なら、今回は私がこれを持ちましょう」
千手はうなずいて、鉛筆の先を原稿用紙に当てた。
「……あの、なにをしようとしているんですか?」
さすがに気になったチエ子は、そっと隣に座る魅谷にたずねた。
「先生がよくやる簡単な運動のようなものですよ。見ていると何かと参考になるでしょう」
魅谷の説明を聞きつつ、チエ子は千手と小太郎とに視線を戻した。
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