七.ぬえ

 明かりをつけた台所に、大きな水瓶が二つあった。井戸から組んできた清らかな水だ。それを茶碗に注ぎ、チエ子は口を付けた。

 渇いた喉を冷たい液体が潤す。チエ子は思わず我も忘れて、喉を鳴らしてそれを飲んだ。


「おや、よほど喉が渇いてたんですね」


 食器棚から徳利を一つ取り出しながら、魅谷が笑う。

 チエ子は思わず顔を赤くして、口を押さえた。


「ご、ごめんなさい……あたしったら、はしたない……」

「構いませんよ。好きなだけおあがりなさい。これからは寝る前に水差しと茶碗とを部屋に持っていくと良いでしょう。ぼくもそうしています」


 言いながら魅谷は水瓶に近づき、徳利に水を注いだ。

 そうしてまじまじとその様子を見つめるチエ子に気づき、気まずそうに笑った。


「ああ、これですか。いや、水割りを呑もうとしたのですがね。煙草を探すので頭がいっぱいで、肝心の水を忘れてしまったのです」

「水割り? お酒を今から呑むのですか?」

「えぇ。ぼくは夜行性なのでね」


 魅谷は肩をすくめると、「よろしければご一緒しませんか」とチエ子を誘った。


「でも、あたし、お酒は……」

「構いませんよ。せっかくここに来たんですから、ちょっとした風雅というのを教えてあげましょう。ここの庭はね、白い梅が咲くのです」


 魅谷に連れられ、チエ子は戸惑いつつも台所を出る。

 そうして行き着いたのは、ついさっき魅谷と出会った場所の近くだった。

 先ほどは不安と混乱とで気づけなかったが、そこには縁側があった。雨戸とガラス戸とが開けられ、外から夜のしんと冷えた空気が流れ込んでくる。

 縁側には酒瓶と、煙草の箱と燐寸マッチとが置いてある。どうやら先ほど聞いた廊下で物音は、魅谷が酒の用意をしている時のものだったようだ。


「ぼくはよくここで呑むんですよ」


 柱を背にして縁側に腰掛けて、魅谷は言った。

 チエ子はしばらくの間まごまごしていたが、仕方がないので魅谷の隣に座った。

 魅谷は盃に酒を注ぎつつ、「あれを」と庭の奥を顎で示した。

 見れば庭の奥に、確かに二つの梅がある。チエ子は花にも木にも詳しくはないが、どちらもいかにも古くからあるような佇まいに見えた。

 その伸びやかな枝には、いくつかの花が咲いている。月明かりの中でそれが夜風にさざめき、時折雪片のように白い花弁を散らしていた。


「まだ咲ききってはいませんが、それでも見事なものでしょう」

「はい……」


 チエ子はうなずいた。

 確かにまだ蕾も多く、咲いた花もまだ早咲きといったところ。それでも冬の冷たい夜空の下で凛と咲く白梅の姿は清らかで、美しかった。


「冬はあの梅や椿、それと時々降る雪などを肴にして呑むんです」

「冬以外はどうなさるのですか」


 チエ子の問いに、魅谷は盃に口を付けつつ「そうですね」と考え込んだ。


「春は夜桜、おぼろ月。夏は雨、風鈴、蛙の声。秋は紅葉、満月、虫の声でしょうか。もちろん他にも楽しみは様々ですが、思いつくのはこんなものでしょうか」

「いつも夜に?」

「えぇ、いつも夜です。こんな夜更けに呑むのが好きなんです」


 魅谷は肩をすくめて、また酒に口を付けた。そしてほんの少し唇を歪めて、悪戯をした子供のような顔でチエ子に視線を向ける。


「変わっているとお思いですか?」

「いえ……」


 首を振りながらも、チエ子の目は魅谷の微笑に釘付けになっていた。


 やはり、誰かに似ている気がしてならないのだ。

 顔ではなく表情や、纏っている空気が。


 しかし一体誰に似ているのかがまったく思い出せない。胸につのるばかりの奇妙な感情から逃げるように、チエ子はまた梅に視線を向ける。


「遠くからいらしたんでしょう」


 魅谷が言う。チエ子は梅を見たままうなずいた。


「なにか、書きたいものなどはおありで?」


 その言葉に、チエ子は視線を魅谷に戻した。

 酒を注ぎつつ、魅谷は「どんな小説を書きたいのですか?」と再度たずねてきた。

 チエ子は口元に手を当てて考え込んだ。


「あたし……まだ、ほとんど書いたことがないんです。だから何を書きたいか、とか、決まっていなくて……いけないことかもしれないですが」

「いけなくはありませんよ。ただ、定まっていないとぬえに惑わされるかもしれない」

「ぬえに……?」


 脳裏に、昼間見た掛け軸が浮かび上がる。

 同時に先ほど見た夢の内容を思い出し、チエ子は青くなった。


「……もしや、鵺は実在するのですか?」

「きみが思っているようなものとは違いますよ」


 漆塗りの盆の上に、魅谷は盃を置いた。

 ついでその近くにおいてあった煙草とマッチとを持ち上げる。


「いったい誰があれを『ぬえ』と呼びだしたのかはわかりません。千手先生かもしれないし、先生の先生かもしれない。ぬえが一体なんなのか……解釈は様々です」


 煙草に灯が点る。

 魅谷はそれを咥えて、うまそうにたっぷりと吸った。


「ただ、我々千手門下の三人はね、『創作者につきまとう魔物』だと考えました。字書きも絵描きも、日夜こいつに虐められているんだと」

「ど、どんな風に」

「なにも作れなくされるんですよ」


 魅谷はほうと紫煙を吐き、消えていく煙の先を見つめた。


「あくまで我々三人の考えですが……恐らく、創作に関わるありとあらゆる障害を『ぬえ』と呼ぶのではないかと思うのです」


 たとえば、不安。例えば、焦燥。

 ぬえはそれらを苗床にする。あるいは、それそのものが、ぬえ。

 思わず、チエ子は背後を振り返った。

 なにもいない。明かりのついていない廊下が伸びているだけだ。しかしチエ子の目には、月明かりに照らされた自分の影がなんだか膨れあがっていくように見えた。


「病、環境――そして、感情。いろいろなぬえがおりますが、ぼくが思うに、この一番最後の感情――特に不安というのは一番おそろしいぬえです」


 魅谷は淡々という。


「書くものが定まっていないと、きっと不安を感じます。『これが正しいのか』と迷い、迷いが不安を生むのです。そして、不安な人間というのは悪い方にしかものを考えない」

「良い方向に考え方を変えられないんですか?」


 気づけばチエ子は身を乗り出すようにして、魅谷の話を聞いていた。

 魅谷の話す言葉は恐ろしげでありつつ、興味深かった。

 柔らかくも淡々とした口調で紡がれる言葉は、チエ子には未知の世界を教えてくれるしるべのように感じられた。


「考え方を変えるのはね、難しいんです。自動車なんかと違って、人間の脳というものにはハンドルがないんですから」


 紫煙を燻らせながら魅谷は言う。


「それに不安になると人間の目は一気に見えるものが少なくなります。より良い道が疑わしく見え、いつの間にやら悪い道しか見えなくなって、ずんずん進むんです」

「……進んだ先は、どうなるの」


 半纏の袖をぎゅうと握って、チエ子は恐る恐るたずねた。

 魅谷はすぐには答えなかった。

 しばらく何も言わず、もくもくと煙草をふかしていた。

 やがて魅谷は灰皿に煙草を捨て、チエ子に薄く笑いかけた。


「……初日の夜にこんな話をするものではありませんでしたね。遅くまで付き合わせてしまって申し訳ない。明日に備えて、休むと良いでしょう」


 それきり、チエ子は何も言えなくなってしまった。

 部屋に戻って布団の中に潜り込んでも、瞼を閉じれば魅谷との交流が蘇る。

 夜の闇、白梅、酒を注ぐ音、紫煙、青白い横顔と、静かな声。

 彼の話では、ぬえは創作を妨げるものの事をいうらしい。

 不安のぬえが一番恐ろしいという。

 そいつに憑かれてしまったら悪い道しか見えなくなり、転換も難しいらしい。

 そのまま悪い道を進み続けたらどうなるのだろう。考えるうちにどんどん恐ろしくなってきて、チエ子は眼をきつく瞑った頭を振った。

 ぬえの像を追い払った次に訪れたのは、既視感だった。


「……誰に、似ているんだろう」


 魅谷はチエ子の知る誰かに似ている。

 それも、相当近しい人間に。

 彼の面影や言葉が、チエ子の胸の奥底を刺激するのだ。

 一体、誰の面影を魅谷に投影しているのだろう。

 思い出そうとしているうち、やがてチエ子は眠りのうちに沈んでいった。

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