六.魅谷透

 その夜、チエ子は夢を見た。


 黒雲の向こうに、何かが蠢いている。雲が渦を巻き、紫電を光らせる。明かりをもったチエ子は、地上からその様を怯えながら見上げていた。

 風がごうと吹き付ける。

 そうして雲がわずかにちぎれた隙間に、ぼうっと光るものが一対見えた。

 見られた、と思った。


「ぬえ! ぬえ!」


 チエ子は悲鳴をあげる。

 光が明滅した。そうしてそれは黒雲をまとったまま、ふらりと地上に降り立った。

 途端、あたりに一気に雲が広がる。

 黒く塗りつぶされた世界の中で、ぼうっとした光だけが変わらずそこにある。

 チエ子は明かりを放り投げ、脱兎の如く逃げ出した。

 生ぬるい風が背中から押し寄せる。

 そうして、何者かが誰かに似た声で囁いた。――「こんなふうにしか」と。


 チエ子はハッと目を見開いた。

 日は、まだ昇ってない。しんしんとした夜の気配が部屋を満たしている。

 起き上がり、チエ子はぶるっと震えた。

 寒さが身にしみたのもある。

 それより、恐ろしかった。

 夢に現れた鵺の姿。

 それはあの掛け軸にあったような怪物ではなく、ただ黒雲に光る目だった。

 それだけが途方もなく恐ろしい。

 チエ子は枕に頭を横たえた。しかし、眠気は一向に訪れない。

 なにより、喉が渇いて仕方がなかった。

 台所に水をもらいに行こうか――チエ子はそう考え、迷った。

 暗い廊下を行くのは恐ろしい気がした。

 しかし、廊下の電灯をつければ良い。それに部屋には懐中電灯がある。これを持っていけば、そう怖くはないだろう。チエ子は最初、そう考えた。

 だが、これは勝手に使って良いものなのだろうか。


「……そんなに、むずかしいことはないわ」


 チエ子は自分に言い聞かせた。


「台所は遠くないし、そんなに、むずかしい道じゃなかったはず……廊下の明かりをつければいいもの。別になにも怖いことはないわ」


 それに、鵺などいないのだから。

 チエ子は自分に言い聞かせつつ、寝間着の上から綿入りの半纏を羽織った。

 そうして勇気を振り絞って廊下に出たものの、困ったことになった。

 明かりのスイッチが見つからないのだ。

 誰かを呼ぶことも考えた。

 しかし、皆寝静まっている頃。そうしてここに来たばかりの、ましてやみすぼらしい娘の分際で人を呼ぶのも気を引ける。

 部屋に戻ろうとも考えた。

 しかし、喉の渇きは耐え難い。

 結果、チエ子は不安を抱えたまま、壁伝いに暗い廊下をさまようこととなった。


「近かったはず……近いのに……」


 だが、自分は今日屋敷に来たばかり。構造などほとんど把握もできていない。そのうち、チエ子は自分がどこから来たかもよくわからなくなってしまった。

 ついに不安でいっぱいになって、チエ子はその場にしゃがみこんでしまった。

 もう、ここで眠ってしまおうか。

 そう思った時、どこからか微かに床の軋む音が聞こえた。

 チエ子は顔を上げる。

 相変わらず、視界は暗いまま。気のせいだったのかとチエ子は思う。

 しかし、不意にがらりと戸の開く音が聞こえた。

 廊下の曲がり角から、かすかに光が差し込む。

 一体、何が起きているのか。

 わからないもののチエ子は立ち上がり、光の差す方に歩いて行った。

 その遭遇は唐突だった。

 曲がり角を曲がってすぐ、チエ子は一人の男と鉢合わせた。

 チエ子は男の胸にぶつかり、床に尻餅をついた。


「ああっ……すみません」


 男が謝りながら手を差し伸べてくる。

 尻の痛みに気を取られつつも、チエ子はその手を取った。

 そうして、その人の手の死人めいた冷たさに驚いた。


「まさか、ぼくの他に起きている人がいるとは思わなくて。怪我はありませんか?」

「だ、大丈夫です……ごめんなさい……あたしも、ばたばたしてたから……」


 チエ子は顔を上げる。

 近くの縁側から差し込む淡い光が、男の顔を照らしていた。

 一瞬、チエ子は人外か何かかと思った。

 濡れたように黒い髪を中途半端に伸ばしているのもある。痩せた体に白い着流しを着ているのもそう思わせた原因の一つだろう。

 しかし、なによりも顔だ。

 病人か幽霊かと思うほどに、顔色が青白い。そうして顔立ちは綺麗に整っている様は、日本画の幽霊か雪女かを思わせた。

 手も冷たかった。

 こんな夜更けに動いているということは、やはり幽霊なんだろうか。

 チエ子がそんなとんちんかんな恐怖で声も出せずにいる間、男はしげしげとチエ子を観察していた。


「おや、見ない顔ですね。――ああ、そうか。もしかして先生がおっしゃっていた、新しいお弟子さんというのはきみのですか?」

「は、はい……その、貴方は……?」


 人間ですか、と問うことはさすがになかった。

 チエ子の小さな問いかけに、男は薄い唇を吊り上げて笑った。


「そんなに怯えないで。ぼくは魅谷透みたに とおるといいます。きみと同じ、千手先生の弟子ですよ」


 潮が引くように恐怖が消えた。

 代わって、チエ子の胸に別の感情が湧き上がってきた。

 魅谷の笑う様子が、チエ子の見知った誰かによく似ていたのだ。

 しかし、それが一体どこの誰なのかがとんと思い出せない。


「それで、どうしました? こんな遅くに。もしかして、厠の位置がわからないのですか?」

「いえ、違います……あの、喉が渇いて……」

「ああ、水が欲しかったのですね。ちょうどいい、ぼくも台所に用があったのです。連れていって差し上げましょう」


 魅谷はチエ子の手を引いた。やはり、驚くほどに冷たい手をしていた。

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