五.遠き食卓

 そのうち男二人は広間へと戻ってきた。着物を着替えた小太郎は一通り取っ組み合って満足したのか、先ほどよりも少しすっきりとした顔をしていた。


「今日も勝っちまったなぁ。一体いつになったらおれの背中は地べたにつくんだろうなぁ」

「黙ってろよ」


 からかう鎖藤に対する返しも、幾分か柔らかいものになっている。

 そこで千手が手を叩き、注目を集めた。


「揃いましたね。魅谷みたにくんはいませんが、彼は今日も夕飯はいらないということなので」

「あいつの夜行性にも困ったもんだなぁ」


 鎖藤が深くため息を吐く。

 千手はその言葉に小さく笑いつつ、言葉を続けた。


「今日、私の門下に新しい仲間が加わりました。嗣見チエ子さんです。東京には今日来たばかりなので、戸惑うことも多いでしょう。色々なことを教えてあげてくださいね」


 手で指し示され、チエ子は慌てて頭を下げた。

 鎖藤は大きくうなずき、小太郎はそっぽを向いた。


「では、これくらいにして。――皆さん、いただくとしましょう」


 千手の言葉を皮切りに、食事が始まった。

 チエ子は「いただきます」を手を合わせ、周囲の様子をうかがう。

 千手は静かに箸を伸ばし、鎖藤はさっそく煮魚にがっついている。りんも上品に汁に口を付け、小太郎はというとロザリオを手になにやら食前の祈りを捧げていた。

 その間もかよは忙しなく歩き回り、茶や酒を注いで回っている。


「食欲がないんで?」


 見ているうちに、かよが自分の所にやってきた。


「い、いいえ……今、食べようと……」

「そうですかぁ。たんと召し上がってくださいねぇ」


 慌てて首を振るチエ子の湯飲みに茶を注いで、かよは離れていった。

 つい先日まで粗末な飯を食っていたのに、急に女中が面倒を見る身分になってしまった。

 その事がチエ子にはどうにも奇妙で、そうして複雑なものに思えた。

 もやもやとした感情を抱えつつ、チエ子は箸を伸ばす。

 カレイの煮付けだった。十字の切り込みが入った身は、少し触れただけでほろりとほぐれた。

 その身をひとくち口にした途端、チエ子は不意に泣きそうになった。

 こんなに美味い煮魚を食べたのがずいぶん久々だったこともある。とろりとした柔らかな身と、生姜の辛みの効いた煮汁とがもたらす風味はまさに絶品だった。

 しかし、なによりも。


「おう小太郎、ちょっと蕪を分けてやろうか。今からでも伸びるかもしれんぞ」

「ぶっ飛ばすぞ、鎖藤。お前が蕪を嫌っているだけだろう」

「鎖藤くん、大の男が好き嫌いとはなさけないでしょう」

「いやぁ先生、こいつぁどうしようもないんですよ。おれはどうも蕪が駄目で」

「そんなに嫌うような代物かしら、かよさん」

「さぁ。あたしにゃとんとわかりませんねぇ、奥様」


 こんなに、賑やかで和やかな食卓を最後に囲んだのは一体いつだったろうか。

 工場に行く前だったろうか。母が病に倒れる前だったろうか。父が死ぬ前だったろうか。あるいは、三番目の兄が結核で死ぬ前だったろうか。

 父、母、そして八人の兄妹との団らんの記憶は、ずいぶん遠くに消えてしまった。


「チエ子さん、お腹は大丈夫かしら? あとで林檎を剥きますからね」


 隣のりんが優しく話しかけてくる。

 チエ子は気づかれぬよう涙を拭って、「大丈夫です」と笑った。

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