三.東京

 千手に連れられて、チエ子は夕暮れの街を恐る恐る歩く。


 北陸を出るのは生まれて初めてのことだった。

 帝都東京は、十五歳の小娘にはなにもかもが恐ろしく見えた。チエ子はやせっぽちの体をさらに小さくして、先を行く千手の影に隠れるようにして歩いた。

 金沢でさえ、チエ子には海のように大きな街だった。

 そんなチエ子にとって、東京はもはや街というより一つの世界だった。

 天を突くような建物の群れ。蟻のような人の群れ。劇場。動物園。活動写真。ミルクホール。百貨店。揺れる広告気球に無数のホウロウ看板。道を走る路電に円タク。

 そこには、この世の全てがあるような気がした。

 チエ子はすっかり圧倒されてしまって、強い目眩を感じながら歩いていた。すると、気を利かせた千手は、チエ子をパーラーに連れていってくれた。


「大丈夫ですか。目が回ってしまったようですね」

「えぇ……少し……びっくりして」


 チエ子は椅子に身を縮め、テーブルに置かれたものをみた。

 水晶のようなガラスの器に、丸く白い塊が置かれている。それがアイスクリームというものだとチエ子は知っている。絵でしか見たことのない菓子だった。

 幻のようなそれがチエ子の前に一つ。

 チエ子は困って、おずおずと千手を見上げた。


「おあがりなさい。なにも遠慮をする事はありません」


 湯気の立つ珈琲を飲みながら、千手は勧めた。


「ほら、溶けてしまうから。食べると、きっと元気になりますよ」


 チエ子はか細い声で「いただきます」というと、銀の匙をとった。それで、アイスクリームの端をすくい取り、震えながら口に運んだ。

 この世で、こんなに美味いものを食べたことがなかった。


「どうです。美味しいでしょう」


 千手がたずねてきた。

 あらゆる労力を尽くし、チエ子はその味を言語化しようとする。けれどもチエ子の持つどんな言葉も、アイスクリームの味の前では無為だった。


「美味しいです……なんといえばいいのか、わからないくらい」


 チエ子はただ、絞り出すように言った。言いながらその手は絶えず器に伸び、アイスクリームをすくい取っては忙しなく口に運ぶ。


「ほんとうに、どういえばいいのか……こんなに美味しいものがあるなんて……」

「そうでしょう。ここのアイスクリームはね、本当に美味しいのですよ」


 千手は優しく微笑み、チエ子がアイスクリームを食べる様を見ていた。

 パーラーから出た後は、路電での移動となった。そうしてチエ子が歩きながらうとうとし始めた頃に、ようやく千手の屋敷にたどり着いた。

 綺麗に刈り込まれた生け垣に囲まれた、こじんまりとした品の良い屋敷だった。

 千手が扉を開けると、すぐに一人の婦人が奥から現われた。


「おかえりなさい。ずいぶん待ちましたよ。お夕飯が冷めてしまうかと思いましたわ」

「すまないね。ほら、この子が例の子だよ」


 千手は扉を押し開けて、チエ子が通れるようにした。チエ子は身を縮めながら、薄氷を踏むような足取りで玄関に入った。


「妻のりんです。身の回りのことは彼女に任せています」

「こんばんは、おちびさん」


 りんは破顔して、チエ子に目線を合わせるように身を屈めた。

 チエ子の見たことのない類いの女性だった。

 きれいな着物に身を包んでいるが、耳元には赤いイヤリングが光る。短く切った黒髪にはビーズの簪をつけて、緩く波打つその毛先が襟足にふわふわと掛かっていた。

 これが、新しい女というやつだろうか。

 思わずまじまじと見つめるチエ子に、りんは口元に手を当てて笑った。


「やぁね、そんなに見つめられちゃ照れちゃうわ」

「ご、ごめんなさい……とても、きれいだったから……」


 我に返ったチエ子はまごつき、視線を床に落とす。

 するとりんはまた笑って、チエ子の肩をぽんと軽く叩いた。


「そんなにびくびくしなくてもいいのよ、可愛いおちびさん。貴女が来てくれて本当に嬉しいわ。うちは男所帯だから」

「みんな、もう帰っているのかい」


 帽子と外套とを外套掛けに掛けながら、千手がたずねた。


「いつも通り魅谷みたにさん以外はもどっていますわ。夕食の支度も整っております」

「おや、それでは鎖藤さとうくんと逆神さかがみくんを待たせてしまったのか。ではりんさん、チエ子さんを部屋まで案内しておやり。私は皆の所に行ってくるから」


 チエ子は小さな旅行鞄を抱えて、夫妻のやり取りをぼんやりと見ていた。

 千手は溌剌としていて、洋装がよく似合う。

 そうしてりんは、ちょっとした所作にも風雅さが滲み出ている。

 まるで違う世界の住民のように見えた。今後、どうやらそんな二人とともに暮らすというのだから、チエ子にはますます夢のように感じられていた。

 どこかぼうっとした心地のまま、チエ子はりんに連れられて屋敷の中を歩く。

 そうしてある廊下にさしかかったとき、チエ子は不意に奇妙な気配を感じた。

 うなじの毛が逆立つような、いやな感覚だった。

 ばっと顔を上げ、チエ子は思わず悲鳴を上げそうになった。


 壁に、大きな掛け軸が掛けられている。

 そこには黒い不気味な渦巻きとともに、見たこともない怪物の姿があった。


 ぎょろりとした黄色い眼。人間のような面。真っ赤な口は耳元まで裂け、その表情が笑っているように見えるのが不気味だった。

 鋭い爪を備えた手足は虎に似て、力強い胴体は茶褐色、そして尾は翠の蛇となっている。

 そんな怪物が、稲妻と渦の向こうからこちらを睨んでいる。

 その形相の凄まじさにチエ子は思わず後ずさりし、ぺたりと尻餅をついた。


「不気味でしょう」


 りんが困ったような顔で笑って、手を差し伸べてきた。


「あれは、なんですか」


 滑らかなその手を支えに立ち上がり、チエ子は喘ぐようにしてたずねた。


「あの鵺の絵はね、法蔵さんが先生からいただいたものなんですって」

「ぬえ……?」

「あの怪物のことよ」


 りんは怪物を指さして、チエ子に教えた。


「顔は猿、胴体は狸、手足は虎、尾は蛇。――御伽噺に出てくる怪物ですよ。黒雲にのって現われて、気味の悪い声で鳴くんだとか」


 チエ子はまじまじと怪物の姿を見つめた。

 一体、どんな声で鳴くのだろう。

 頭は猿だから、猿のようにぎゃあぎゃあと鳴くのか。

 あるいは、虎のように鳴くのか。

 しかし、チエ子は虎の声がどんなものか知らない。

 そんな風に考えながらチエ子が鵺を見ていると、りんはため息を吐いた。


「あの絵を、法蔵さんは大切にしていてねぇ。なんでも師から弟子に受け継がれるものなんだとか。でも、わたしは不気味で仕方がなくってねぇ」

「たしかにすこし、こわい、です」

「そうでしょう? でも、法蔵さんは先生の教えと同じようにあの絵を大切にしていてね」

「教え……ですか」

「『ぬえに呑まるるなかれ』」


 その声に見やれば、柱に一人の青年がもたれていた。

 チエ子より少しだけ年上に見えた。

 シャツと着物とを合わせた見るからに書生という装いだが、首から柘榴石を散りばめたロザリオを下げているのが一風変わっている。


「僕達はいつも先生からそう教えられている」


 青年は柱から離れて、チエ子の前に立った。

 背丈はチエ子より少しだけ高いくらい。見るからに意志の強そうな顔立ちをしている。切れ長の瞳が獣のようにぎらぎらと光って見えた。

 そんな目でじろじろと不躾に見つめられ、チエ子は身をすくめた。


「りんさん、この小さいのはなんですか」

「嗣見チエ子さんよ。今日から皆さんと一緒に先生に教えてもらうんです。――ほら、チエ子さん。こちらは逆神小太郎さかがみこたろうさんよ」

「よろしくお願いします……」


 りんに促され、縮みあがりながらチエ子は頭を下げる。

 小太郎は答えず、相変わらず品定めするような目でチエ子を見ていた。

 しかし、やがて薄い唇をわずかに歪めた。


「なんだ、先生がわざわざ迎えに行くくらいだし、どんなのが来るかと思ったら。まさかこんなみすぼらしいちびが来るなんてな」

「逆神さん、そんなことをいってはいけませんよ」


 りんがやんわりとした口調でたしなめる。

 それでも小太郎はせせら笑ったまま、わずかに顎をそらした。


「だってそうでしょう。こんなちびで、みすぼらしくて、見るからに教養もない女に何が書けるって言うんです? 弟子じゃなくて女中を迎えに行ったんじゃありませんか?」

「それ以上はいけませんよ、逆神さん」


 りんの言葉は、声音こそ変わらず穏やかだった。けれどもその中に、先ほどにはなかった鋭さのような物を感じて、チエ子はごくりと唾を飲む。

 それは小太郎にも伝わったのか、なおも何か言おうとしていた彼は口を噤んだ。

 りんは微笑みを浮かべたまま、チエ子の肩に手を置いた。


「チエ子さんはね、貴方が法蔵さんの書斎で読んだあの雪の話を書いた人ですよ」


 その言葉に、小太郎は顔色を変えた。

 彼は現界まで目を見開き、信じられない物を見る目でチエ子を見つめた。


「……あれを、このちびが?」

「えぇ。小太郎さん、あれを絶賛なさっていたでしょう?」

「ぜ、絶賛なんかしていないっ。僕は――」


 小太郎はさっと顔を紅潮させ、りんに何か言い返そうとした。

 しかし、途中で口を噤む。小太郎は憎々しげな視線をチエ子に投げつけ、ばっと踵を返した。

 逃げるように去っていくその背中を見て、りんはため息を吐いた。


「ごめんなさいね、チエ子さん。嫌な思いをしたでしょう」

「いえ……平気です」


 チエ子はふるふると首を振る。どこかで小太郎が聞き耳を立てているかもしれない。どうしてもそう考えてしまうせいで、声を潜めてしまう。


「悪い子じゃあないのよ。ただ少し気難しいの。それに最近はあまり筆が乗らないみたいで、いつもよりもずっと苛々していてね……」


 そんなりんの愚痴に耳を傾けているうちに、気づけばチエ子は部屋にたどり着いていた。


「部屋でほんの少し体を休めると良いわ。程良い頃に呼びに行きますから」


 りんはそう言って、部屋を出て行った。少ない荷物を詰めた鞄を隅に置いて、チエ子は新しく自室となる部屋を見回す。

 こじんまりとした和室だった。

 畳張りで、隅には小さな文机がある。

 壁には棚が一つだけ置かれているが、中身は空だ。

 りんの心配りか、部屋にはもう布団が敷いてあった。

 その布団に恐る恐る身を横たえ、チエ子はほうと息を吐いた。

 ようやく一人の時間が訪れた。

 またすぐ食事の席で皆と顔を合わせることになるだろうが。それでも、帝都の喧噪に疲れた頭には心地の良い時間だった。

 ごろりと寝返りを打ち、チエ子は仰向けになる。

 ちょうど頭の上の位置に、窓があった。

 少し視線をあげるだけで、夜の闇が見えた。


「……雪がない」


 チエ子は呟く。

 そうして耳を澄ませれば微かに自動車の音や、遠くで話す人々の声が聞こえた。


「音がある」


 チエ子はまた呟いて、枕に顔を埋めた。

 東京にはなんでもある。けれども雪と静けさがない。

 それが果たして良いことなのか悪いことなのか、チエ子にはよくわからなかった。

 チエ子はほうと息を吐き、また仰向けになった。

 思えば、こうして一人になるのはずいぶん久しぶりのことだった。

 郷里では狭いあばら屋で母や兄妹達と身を寄せ合うようにして眠り、工場では昼夜女工達とともに過ごした。

 布団の上で、チエ子は手足をぐっと伸ばしてみる。

 当然、誰にもぶつかることはない。


「なんにせよ、のびのび眠れるのは良いこと」


 チエ子は三度呟いて、思う存分に布団を堪能することにした。

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