二.誘い
「きみ、東京に来なさい」
応接間に呼び出されて早々、男はチエ子にそう言った。
チエ子は眼をぱちぱちとさせて、男を見た。
まだ頭蓋の中では、機械やら女工達の歌やらの残響がガンガンと響いている。そのせいで男の言葉が、いまいち脳髄にまで染みてこなかった。
三十か四十くらいの男だった。
柳のようにしなやかな体を、こざっぱりとした三つ揃えに包んでいる。とても背が高く、なんと工場長を見下ろすくらいの位置に頭があった。
「三河さん、少し席を外してくれるかい。彼女と二人で話してみたい」
男が言うと、工場長はすぐに応接間から出て行った。
チエ子は男と二人きりになった。
男は大股でチエ子に近づいた。
なんだか電信柱がずんずんと迫ってきているような気がして、チエ子は思わず後ずさった。扉を背に貼り付けるように立つチエ子を見下ろし、男は目を細めて笑った。
「嗣見チエ子さんですね」
「は、はい。そうです、そうです」
チエ子がこくこくとうなずくと、男は満足そうにうなずいた。そうして上着のポケットから、折りたたまれた原稿用紙をとりだした。
「これを書いたのは、きみですね」
男が広げたその原稿用紙には、チエ子が眠い中で記したあの短い話が書いてある。
それを見て、チエ子は口元を覆った。
「どうしてそれを? 確かにあたしは工場長にお渡ししたのに」
「ああ、三河さんは私にこれを送ったんですよ。『自分の工場にすごいのがいる』と言って、速達で送ってきたんですよ」
「まぁ、座りなさい」と男はチエ子に席を勧めた。
チエ子は居心地の悪い思いを感じながら、革張りの椅子に浅く腰掛けた。
男は向かいの席に座ると、テーブルに半紙を置いた。
「私は
「はぁ」とチエ子は首を傾げた。
「これを読んだとき、私は本当にたまげたものです。こんなに美しいお話を書ける人がいるなんてと息を飲みました。そうして聞けば、まだ十五歳だというではありませんか。私は驚いて、腰を抜かしてしまいましたよ。きみは紛れもなく天才だ」
千手は身を乗り出し、熱っぽく語った。
てんさい。てんさい。ようやく機械の音の残響が消えた頭の中で、千手の言葉が繰り返し響く。
天才。やっと千手の言葉を理解して、チエ子は目を見開いた。
今までの人生で、そんな言葉を言われた事は一度もなかった。
「このまま、その才能を埋もれさせてしまうのはあまりにも惜しい。もっともっと、私はきみの書くものを読んでみたい。そうして皆に読んでもらいたいのです。だからきみ、東京に来なさい。そうして、私のところで書きなさい」
「でも、そんな」
チエ子は髪をぐしゃりと掻いて、視線を彷徨わせた。
「あたし、あれは初めて書いたもので……また書けるかもわからないし……それに、貧しいから……母さんに、兄妹達に……」
もごもごとチエ子は言って、膝を握りしめた。
織物工場での機械じみた日々は、チエ子の会話能力を摩耗させていた。
千手はそれでも構わぬといったそぶりで、膝をきつく握るチエ子の手を取った。
「書き方がわからないなら、私が教えてあげましょう。家族のためにお金を稼がなければならないなら、仕事を紹介しましょう。最初は私の家で手伝いをするといい」
汚れたチエ子の手を握りしめ、千手は優しい口調で言った。
「それにきみ、もっと書きたくはありませんか」
チエ子は震えた。
頭の中に、様々な像が浮かんだ。握りしめた鉛筆の感触。揺れる蝋燭の火。窓を叩く雪の音。眠る先輩女工達の気配。そうして原稿用紙に記されていく文字――。
やがて原稿用紙の像は揺れ、真っ白な雪原を形作った。
夜に沈む雪原。
青い雪明かりの中、笠を被った男がざくざくと音を立てて歩いて行く。
風が吼え、舞い散る雪がつぶての如く男を襲う。
しかし男の目は揺るがず、冷えた闇のかなたをひたと見つめている。
その男の旅の結末を、チエ子は書く事ができなかった。
それは原稿用紙一枚に、到底納まりきるものではなかった。
本当は、もっと書きたかった。チエ子はゆるゆると顔をあげて、千手を見た。
千手はもう、答えはわかっていると言わんばかりにうなずいた。
翌朝、チエ子は少ない荷物をまとめて発つこととなった。
大正某年の二月のことだった。
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