壱.
一.嗣見チエ子
大正某年の冬。十五の
生まれは北陸の温泉街。八人兄妹の五番目で、三女だった。
チエ子は十一の頃までは、小さな旅館を営む両親の手伝いをして育った。
兄妹の中でひときわ愛らしかったチエ子は、各地から訪れる旅客によく可愛がられた。また話を聞くのも上手だったので、チエ子は様々なことを聞いて育った。
東京のこと、遥か昔の豪傑の伝説。華族の噂話、あるいは海の向こうの神話。
客の話はチエ子の中に取り込まれ、小さな娘の中に様々な世界を生み出した。
そうして夢と現実のあわいを行ったり来たりしながら、チエ子は育った。
なにかがおかしくなったのは、十一歳の頃のことだった。
父が肺病に倒れ、後を引き継いだ長兄は賭博に負けて行方をくらました。そうして次兄が継いだものの商才はなく、嗣見家は泣く泣く旅館を手放すこととなった。
尋常小学校を卒業してすぐ、チエ子は働きに出ることになった。
チエ子は困窮していたものの、恵まれてはいた。旅館を特に気に入っていた客の伝手で、ある織物工場に女工として雇われることになったからだった。
チエ子は朝から晩まで働いた。
仕事は過酷だった。一人の人間ではなく、一台の機械になったような気がした。
けれども他に比べればずいぶんましな境遇ではあった。
そうしてある日、工場主から「工場の新聞になにかを書いてくれ」と頼まれた。
その工場では小さく粗末な新聞を何週間かごとに出していて、それが女工達のささやかな娯楽になっていた。
新聞には小さな自由欄があり、女工が交替で何かを書く事になっていた。
字が書けないものは、書けるものに代筆してもらった。
そして内容は、本当に何を書いても良かった。
昨日見たトンチキな夢を書いても良い。郷里に残した家族のことを書いても良い。なんだったら工場の愚痴だって許された。
そんな自由欄を執筆する番が、チエ子に回ってきたのだった。
「困ったわ」
原稿用紙を受け取って、チエ子は誰にも聞こえないように呟いた。
先輩女工達が雑魚寝する中、窓を叩く雪の音を聞きながらチエ子は考えた。
締め切りは明日。
朝は早い。
さらに節約のために、一本の蝋燭が燃え尽きるまでに考えなければならなかった。
けれども今まで、自由に何かを書いて良いなどと言われたことがなかった。悩むチエ子の脳裏によぎったのは、昔ある客に読ませてもらった小説のことだった。
『こんな夢を見た。』
『腕組みをして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が静かな声でもう死にますと云う。』
夢十夜――夏目漱石の著した短編。
あいにく旅客はすぐに宿を発ってしまったため、チエ子はその第一夜しか読んでいない。けれどもその青天の霹靂の如き衝撃を、チエ子は忘れていなかった。
こんなものがあるのか、と思った。
文字で、現実にはない夢のような出来事を描きとる。
それはチエ子にとって、初めての小説だった。その衝撃は凄まじく、どれだけ時が経っても、チエ子はあの一篇を読んだ衝撃を忘れずにいた。
「あんなものを、書けるかしら」
鉛筆の端をがりりと囓って、チエ子は考えた。
「あんなにすごいものでなく、もっともっとささやかなものでいいのだけれど」
例えば、昔みた夢の話はどうだろう。かつて宿を訪れた旅客から聞いた様々な話、そうしてチエ子の中に広がった世界のこと。
思えば父が倒れてから、チエ子はずっと現の中にいた。
チエ子はもう一度、夢の世界に浸ってみることにした。
鉛筆を口から離すと、チエ子はゆっくりと原稿用紙に文字を書いた。
難しい漢字は知らない。
ましてやこれから書こうとしているものは、今まで書いたことのないものだった。
明かりの揺れる紙の上に、チエ子は迷いながら鉛の線を引く。
そうして記したのは、雪原を彷徨う旅人のこと。冷たく澄んだ大気の下、闇の彼方に向かってひたすらに歩く男の話。
それは昔、天体の研究をしている旅客から聞いた話を元にしていた。
書いたものの善し悪しもわからなかった。
それでもチエ子は翌朝、あくびを噛み殺しながら工場長に原稿を渡した。
チエ子の原稿を見た工場長は、なんだか奇妙な顔をした。
翌日に発行された新聞には、チエ子の作品は載っていなかった。
空白の自由欄を見ても、チエ子は「意味がわからないものだったからだろう」とさして気にしていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます