(異)世界は掌の上で

倫理観

Loading / 離世

 地球という丸い惑星に群がり、密集する人間も。


 窮屈な社会の中で群れる人間も。


 欲望の末に切り取られた空虚な宙も。



 底の無い社会に溺れ、徐々に心をすり減らすだけの毎日に突如終わりが来るとしたら。




 善良なる魂に神の救済を。


 善良なる魂に神の祝福を。



 淵を歩く彼らに、どうか神よ、未来を与えよ。


 さあ、世界に終わりを告げて。


 さあ、未来を切り拓いてその手で創って。


 フィクションなど存在しない……全てを叶える世界を。



 この世界の常識を、覆してみようではないか。



 君が舞台を創るのだ。


 そして、いつの日か―――




 「いつかくる、終わりのない始まりを」






 通勤ラッシュで忙しない都市の朝に、ここだけ車の流れが止まっていた。


「キャー!! 誰か妹を助けて! 」


「おい……何騒いでんだガキが! 黙って俺の言う事を聞け! 」


 小柄で黄色い帽子を被った女の子の喉元に、全身薄汚れて痩せこけた男が、刃渡り13センチ程のナイフを当てた。

 セーラー服を着た女子高生と思しき女の子は、叫んで周囲に助けを求めつつ、その光景から目を離さないでいた。


 一方助けを求められた人々の中に、助けに応じる者は居ない。

 その場に居た全員が数歩下がり、各々目を逸らして呟いたり、話し始めたり、さらには群衆の中からフラッシュの光、撮影音まで聞こえ始めた。


 普段の狂騒とはうって変わる混沌とした空気に影響されたか、倫理の箍が外れた者たちの野次が飛び交う。

 その光景にさらに集まってゆく人の群れに、別車線の車両までが身動きがとれない状況にあった。


 スーツケースを片手に歩くビジネスマンも一瞥をくべるものの、さも何も見ていないかのように通り過ぎる。

 この場で事の重大さが分かっているのは、当の三人だけだった。


「なになに、映画の撮影か何かか? 」


「うわすっげSNSに投稿しとこ。バズるかも! 」


「肖像権、分かるか? 」


「そういうお前もさっきからパシャパシャ撮ってんの」


 スマホを片手に、四人の男子高生は最前列で会話をしていた。

 ナイフを持っていた男に、正面から大量のフラッシュが浴びせられる。


「ぶぁはは。挑発してやんなよマジで映画のやつだったらどーすんだよ」


「あんな汚ねえおっさん知らね。B級どころかC級映画の撮影だなこれ。大掛かりな撮影隊が見当たらねーよ」


 その会話に反応した男は、ナイフを女の子の喉元から離して、女の子を捕らえたままナイフを振り回し男子高生たちに向かいって行った。


「てめぇら黙れや!全身刻まれたいってのか! 」


 呂律が回らず唾を散らしながら迫るその姿に、笑いを堪えきれないというような様子で後ろへ数歩下がった。


「マジになってる」


「こーゆーの豆腐メンタルって言うんだっけ? 」


 女の子を乱暴に引いた途端、いきなり迫るのが速くなった。


 振りをつけて降ろされたナイフによって、少量の血が宙に飛んだ。


「ぎゃっ」


「は? は? 」


 動揺する男子高生たちに男は一瞬あたふたしたが、すぐに強く握りなおして怒鳴り散らす。


「退けろっつってんだよ! 退けろこらァ! 」


「おい逃げよう。こいつキチガイだ」


 苦悶の表情を浮かべる男の子の肩からは、鮮やかな赤色の血が流れていた。

 それを見た近くにいた人々は、我先にと距離をとっていく。


 場は一瞬静寂に包まれたが、それはすぐに破られた。

 先程よりも多くの……野次ではない、罵声が男に向けて放たれる。

 汗を垂らしながらナイフを振り回していた男だったが、耐えきれなくなって奇声を発した。


「どいつもこいつもうっさいんだよ! あの時と同じだ、俺の言い分なんて誰も聞きやしなかった。俺をハメやがって……」


 群衆をかき分けて、このアニメの主人公[出太刀 聖]は、ようやく最前列まで出た。


「そうだ、あの時いた奴ら、この場に居るんじゃないのか! 出てこい。てめぇーらクズの公開処刑を……」


 別の方角に吠える男に、聖は全速力で進んでいく。

 残り数メートルの所でようやく男はそれに気付き、


「てめっ、何っ」


 女の子を突き放し聖に対してナイフを向けるも、勢い任せに倒された。

 地面に男の背中が付くや否や、群衆の中から傍観していた大人たちが複数名飛び出し、男を取り押さえた。


 聖はフラフラと直立して、その様子を呆然と眺めていた。

 後ろから女子高生とその妹が、聖に対し深くお辞儀した。


「本当にありがとうございます。私の妹を……」


「そう、無事なら良かった」


 振り返った聖の胸元には、男が持っていたナイフが刺さっていた。

 白いシャツに薔薇の花のように広がり、右手を震わせながら血の滴る銀の刃に触れて、その場に仰向けで倒れた。


 猛烈な睡魔に襲われたかのように、意志に反して意識が遠のいていく。

 視界がぼやけ、周囲の音だけが鮮明にある。


 どうにも耐えられない感覚に、諦めて身を任せた。





 真っ暗になったテレビの画面に、ソファに深く腰をかける自分の姿がぼんやりと映った。

 次にスーツ服に目が止まり、一時停止ボタンを押した。

 嫌な予感がして時計に視線を移すと、ちょうど時針が八の字を指しており、分針は十二を指していた。


 しばらく意識を失ったように一点を見つめて、我に返った。


「あ、やば」


 また遅刻してしまう。


 慌てて立ち上がり、よろめきながら洗面台の鏡を見て確認する。

 眉毛にかかる前髪を少しいじって、頷く。

 老朽化して、錆びたり若干歪んだりしてしまっている玄関のドアを勢いよく開けて外に出た。


 二階建てのアパートの、ある一室のドアには、”世界”という二文字が書かれた表札がわりのプレートが貼られている。


 体重をかける度に軋む階段を駆け降りて、自転車に乗り、スマートフォンに繋いだイヤホンを耳にして、ペダルを漕ぎ始めた。




「最近こんな悪質な悪戯が増えていますからねー、迷惑ですよ。はい、という事なんですけども、伊達さん、この事についてはどう思われますか? 」


 いつも、進行の金田の雑な感想から伊達へと話が振られる。

 毎朝通勤中に聴くラジオ番組だ。


 聴き始めるのが遅れたな、何の話題だ?


「この悪戯、私も遭遇した事がありましてね、ダイヤが狂ってしまったんですから、通勤通学をする人々には全く迷惑極まりないですね。私が遭遇した時の犯人は、不良の中学生3人がやっていたんですよこれ。そうそう、最近この手の悪戯が多くてね。その多くが10代による犯行だって言うじゃないですか。いくら少年法で守られているとは言え、何でもしていいなんて甘い考えが広がりつつあるんじゃないでしょうか? 」


 伊達はいつも話題から脱線して炎上スレスレの発言をする。

 それを楽しんでいると言えば、まぁその通りだ。


 ダイヤが云々ってことは……交通機関関係の話題か?


「そうなんですね、本当に緊急時でもなければ普通押されるものではないのですがね。わざわざ電車を止める必要のない用途で非常停止ボタンを押す方もいらっしゃる訳ですから、どのような対策が成されるか注目したいところです」


「都心の駅では、非常停止ボタンに近づいただけで周囲から睨まれるようなシチュエーションもあるらしいですよ。通勤ラッシュですと特にね。このような国民の生活に深く関わる事ですし、こうも一つの社会現象のようになってしまっては……悪い傾向ですよね。いざという時に正しい判断が出来る人間も減りますよこれじゃ」


「おっと、お時間のようです。では次はリスナーさんからの……」


 お決まりの挿入曲が流れる。


 え、ここで終わり?

 お時間ですじゃねーよ、もっと何か言ってくれよ……尺の問題か。


 ふとした拍子にイヤホンを外して、ポケットに突っ込んだ。


「んー……」


 この時間帯はイヤホンをして外の世界と隔てられないと落ち着かないのに、今日は妙にその気分でもない。

 遅刻しそうだから逆に冷静なのか、今日に限って調子がいいのか……。


 小路に入って、青空のその先を見据えつつ頭の中で呟いた。


 俺の名前は先導 世界。

 大学を順調に卒業し、今年の春より都内の企業に就職。

 早くも5ヶ月が経つが、ごく普通のサラリーマンとして代わり映えのしない日々を送っている。

 変わった名前だけど、何でこんな名前をつけられたんだろうか……。


「あ」


 ブレーキを握りしめて、自転車は急速にスピードを落とした。

 今日は何か、いつもとは何かが違うような気がする。


 いつもと違う……何だろうな。

 今日の朝ご飯がカップラーメンだった事とか?

 遅刻しそうになった事とか?

 特別変わった事と言えばそうだな、今まで触れることのなかった、アニメをわざわざ録画して見ていたとか?


 知人から、友人から勧められたからでは無く自発的に、番組表を見ていてふと目に入ったアニメを録画して見ていたのだ。

 最後にアニメたるものを見たのは……。


 はて、いつだったか?


 ペダルを再び漕ぎ始めた。


 そもそも遅刻しそうになって焦っているのは、元はと言えばそのせい。

 時間も無いのに、それ程興味も無いアニメの録画を見始めるなんて奇怪なマネをしなければ、おそらく今頃は何の気なしに吊革に手を伸ばしていたのだろう。

 間に合うかなあ……。


 いつも来る駐輪場に入っていった。






 ホームへの階段を駆け降りて行く途中で、妙に騒がしいのに気が付いた。

 首を曲げて、人々の首の間からホームを垣間見た。

 電車はまだ来ていないようだ。


 線路上に視線が集まっている……?

 もしかして、故障でもしたか?

 不可抗力での遅刻なら、許されそうだな。


 腕時計をチラ見すると、次の電車はもうすぐだった。

 安堵の息を漏らして、様子をよく見ようとさらに覗き込む。


 一瞬戸惑ってこけそうになったが、何とか体勢を立て直した。

 見間違いとでも言うように何度も何度も繰り返し見ても、同じ光景があるだけだった。

 線路上に誰かが倒れている。


 場は混乱しているようだが、まあ既に誰かが駅員に伝えに行ってるか助けようとしてるだろう。

 電車が来るまでまだ時間は少しあるし。


 そう思ってその光景を視界から外して、スマートフォンをいじり始める。


 …………


 いや、おかしい。

 緊急停止ボタンは?

 押されたらアナウンスが流れるんじゃないのか。

 通勤ラッシュで、しかも人々の関心は目の前のトラブルに向いていて、そんな中誰か助けを呼んだのか?

 この場にいる人間全員が、俺と同じ考えで他の誰かがするだろうと何もせずにいるのだとしたら……。


 最近、平時に緊急停止ボタンを押す悪戯が増えた。

 そんな事を思い出した。


 押したくない訳でも、押してはいけない訳でもないんだ。

 無意識のうちに、押せない雰囲気をつくっている。


 冷や汗が頬を伝って、口の中へ流れ込んでいく。

 目を大きく見開いて、思わず鞄を落とした。


 助けないと。


「ちょっと、通してください! 」


 前の人々に向かって大声で呼び掛けると、不快なものを見るかのような目でこちらを見て、渋々と言った様子で道を開けてくれた。


 階段を降りるとすぐに、さらに密度の高い空間で熱気にまとわりつかれた。


「せ、狭い……! 」


 人混みをかき分けて、最前列の一つ前まで辿り着いた。

 人々は、もはや列になって次の列車を待つことなど考えていないのだろう、ホームの際まで隙間なく並び、下の様子を傍観していた。


 下に落ちているのは制服を着た少女だった。

 どうやら足を痛めているようで、立ち上がれない様子だ。


 固唾を呑んで見守る者も、野次を飛ばす者も、様子を撮影する者も、誰一人として助けに出る事は無い。

 混乱していたのは、セカイもまた同じであった。


 周囲を見渡して、ボタンを探し当てた。

 柱に取り付けられてあるが、ここからだと遠い。

 駅員のような人も一瞬遠くに見えたが、人混みに揉まれて身動きがとれていない状況だった。

 後列の人々に声をかけようとしたセカイの声は、突然流れた曲によってかき消された。


『電車が到着致します。安全のため、誘導ブロックより後ろへ下がってください』


 アナウンスの音声が響き渡ると、狂騒の広がりはさらに加速した。


 鼓動が、妙に弱くなってきている気がしてならない。


「は………はっ」


 左胸を抑えて、徐々に痛みが増すのを深呼吸で和らげていると、右から肩を掴まれた。


「異常、無いですか? 」


「……え」


 肩を掴んだ誰かを確認しようと右を見たが、視界が霞んで顔がよく見えない。


「こ、ひさ、げん……い? 」


 あれ、何言ってるんだこの人。

 声が途切れ途切れで聞こえる。

 それだけじゃない、さっきまでの騒がしい場が嘘のように静かだ。



 ああ、そうか。

 選択に迫られたから、迷っているのか。


 分かってはいる、助けに行かなければ必ず後悔する。

 それなのに……そのたった一歩が、こんなにも重いのか。


 いざという時、自分の命を顧みず名前も知らない誰かを助けにいくなんて、所詮は戯言だったか?


 目の前の光景全てが、遅くなって見える。


 ハハ……死期が迫ってんのかな、俺自身おかしくなってる。

 どこか既視感があると思えばそうだ、あのよく分からないアニメと状況が少し似ているな。

 え、でも待てよ……こっちは何かが足りない。


 見えるもの全てが静止画のように止まり、最前列の人間の間から、倒れている少女が映った。


 ここには、あの主人公が居ない。

 俺も、傍観者の一人という訳か……。


 そう思うと次第に、騒がしさ慌ただしさが戻ってきた。

 目を閉じて、歯ぎしりをして、また目を開いた。

 全身に電気が走った感覚がして、ゆっくりと右足を前に出した。


「ふざけんな」


 俺は傍観者になった覚えはない。

 なるつもりもない。

 偽善とか、善行とか、自己満足とか、そんなものどうだっていい。

 周囲の圧にもまれて埋まっちまうくらいなら、いっそ飛び出して打たれた方がマシだ。


 心臓が打つ音が、急に大きくなって聴こえ始めた。


 追い詰められてんのに、何なんだよこのワクワクは。

 こんな気持ちになったのって、いつぶりだよ。


「よし」


 出した右足に思いきり力を込める。

 掴まれていた右肩への重しが、剥がれた。



 テメェらが何もしないって言うなら、


「俺が」


 正真正銘、


「主人公ってことになるけど、文句無いよな 」


 蹴り出した足は、既に迷いを断ち切る選択を取っていた。

 前列の二人をを手で避けて、蹴り出した勢いで高く跳んだ。


 やっべえええもう戻れねえ!

 ギリギリで出ていたのも何か臭い感じするし、もしかしたら死ぬかもしれないし、それに……

 生きてるって、こういうことか。


 線路上に着地して、倒れている少女を起こした。


「支えながらなら、歩けるか? 」


 小さく頷いたのを確認して、肩に手を回させた。


 おも……い!


 顔がひきつりそうになったが、なんとか平静を保った。


 まあ、足を怪我して起き上がれずにいたんだし普通か……助けに入った俺が苦しそうだとカッコつかないもんな。


 端まで着いて、上にいる人々の顔を見た。


「誰か! 」


 ……………

 目を合わせる者は居なかった。

 面倒事に巻き込まれるのが嫌なのか、それとも万が一の事を考えてしまっているのか。

 さっき居た場所にいる男性が、こちらをずっと見ている。

 試すような目で。


 えっと、特徴……抽象的な事言っても伝わんねえ!

 肩の方に下がってるのは何だ、服の一部か?


 腹部辺りに青色の生地が見えて、当てずっぽうで呼びかける。


「あの、オーバーオールのあなた、お願いします! 」


 その男性は鼻で笑って、最前列に出た。

 どうやら当たっていたらしい。


「素晴らしい行動力ですね」


「あ、ありがとうございます。それよりこの子を!」


 緊急停止のアナウンスが、ホーム中に鳴り響く。


「はい」


 少女は、オーバーオールの男性によって引き上げられた。

 よし、何とか間に合ったな……。


 そう安堵して線路の先を見ると、電車はかなり近くまで迫ってきていた。

 動揺して止まることもなく、再び呼びかけ、ホームに手をかけ力を入れる。


 無事にホームに戻り、電車は徐々に速度を落として停止した。




 はずだった。




「セカイ君、だよね? 」


 一見して微笑んでいるような表情にある目は、感情が灯っていない。


 ホームにかけた手の力が、崩れるように抜け落ちていった。


 ほんの数刻の狼狽は、電車が衝突するには十分だ。


「お前……」


 身体への衝撃の直後、視界は歪み、痛みを伴うこともなく、宙を舞い鮮やかに散った。

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