第42話 地下資料室

 夜八時を回ったところでした。そろそろ仕事を切り上げて家に帰ろうかなぁと伸びをしていると、フロアを見渡していた上司と目が合いました。彼はにんまりと私に笑いかけて手招きしました。


「中山君、ちょっと悪いんだけどさぁ、地下資料室から平成二十六年度から二十八年度の決算資料取って来てくれない?」


「今の時間だと鍵の貸し出し時間外だから入れませんよ?」


 すると、上司はサイドテーブルから鍵を取り出しました。


「保管してるのが同期の奴でさ。こっそり貸してもらっといたんだ。うちの部署は昼間は外に出てる事が多いからまともに事務なんて出来ないだろ?今しかないじゃない」


「そうですね……」


 私はぎこちない笑みで鍵を受け取ると、重い足取りで暗い廊下へと出て地下へ向かいました。

 地下資料室は昼間でも重い扉に閉ざされていて薄暗く、梯子はしごを使わなければならない程に棚が高く設置されているために視界が制限されています。床も壁も剥きだしのコンクリートで、歩けば粉が靴の底に付きました。この剥きだしのコンクリートのせいでしょうか、中の音も上の階の靴音もやけに響くのです。

 私はこの地下資料室が好きではありません。生来の臆病な性格もあるのでしょうが、自分一人の時もなんだか気配がするのです。まして今は夜です。昼間であれば地下にはコンビニやカフェがあるので重い扉の向こうにも人通りもありますが、今や地下には心許こころもとない非常灯が灯っているだけです。

 私は心して地下室の扉を開けました。籠った空気と古い紙の匂いが立ち込めています。暗い中、素早く手探りで電気を探して点けました。その瞬間、何かが視界の左端にある棚を横切った気がしたのです。


「誰かいるんですか?!」


 裏返った声で問いかけるも答えはありません。恐る恐る確認しに行きましたが誰もいませんでした。もし人がいればどんなにコソコソ歩き回ったって裸足はだしでもない限り靴音が聞こえるでしょう。

 私は薄ら寒くなるのを感じ、急いで資料のある棚へと向かいました。運悪く目当ての物が高い位置にあったので梯子移動させていると、バサッという音が離れた場所からしました。資料が落ちたのでしょう。私は体が跳ねる程に驚きました。


「この前に地震があったからずれたのかな。やだな、こんなとこで地震にあったら」


 梯子を固定した後、靴を脱いで段を上がり始めました。あと少しで手が届きそうなところで、「手伝いましょうか」と声を掛けられました。

 私は生唾を飲み込んで「大丈夫です」と上擦った声で答えました。

 遠慮がちで暗い男性の声は、私と同じ高さにある左の方から聞こえました。まるで私と同じように梯子に上っているか、もしくは天板の上から声を発しているようだったのです。

 私は声が聞こえた方を見ないように素早く資料を掴んで梯子から降り、靴に足を捻じ込んで資料室から飛び出して乱暴に鍵を閉めました。暗い中でエレベーターを待つ時間も恐ろしく、五階にある部屋まで階段を使って駆け上がります。


「おー、早かったね、さすがさすが」


 上司に資料を手渡すと、「すいません、体調が悪いので帰りたいです」と申告しました。


「そうだったの、ごめんな、取りに行かせて」


「いえ」

 

 急いで身支度をして部屋を出ました。エレベーターに乗り一階を押し、壁にもたれかかりました。まだ動悸が収まりません。早く会社を出て、平日は我慢しているビールでも買おうかと思いました。

 五階、四階、三階……そして一階を通り過ぎてしまいました。


「え、なんでっ」


 慌てて一階のボタンを連打します。しかし意味はなく、すぐに地下へ到着しました。左右に扉が開くと暗闇の中からギィッと地下室の重い扉が開く音が響き渡りました。


(完)































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