第56話 我慢

「俺、転勤することになりました。静岡の御殿場に出来る研修センターの、センター長になります。一応、栄転です。年明けすぐに上司から告げられたんですけど、中々言い出せずに、こんなところですみません」

 俺が言うと、助手席の杏奈さんは、「はい」と、こぼすように言った。


 杏奈さん、少し首を傾げて、頭の中で俺の言葉を整理しているように見える。


 俺は、ゆっくりと車を発進させた。


「転勤ってことは、引っ越されるんですか?」

「はい」

「そうですか……」

 杏奈さんが、そこで初めて分かったみたいに言って、ファーが付いたコートをぎゅっと抱きしめた。


「いつ頃、向こうに行かれるんですか?」

「はい、準備で向こうとこっちを行き来しながら、三月には、完全に向こうに移ることになると思います」


「景都も寂しがりますね」

 杏奈さんが言った。


「景都、大沢さんに来て頂いてから、楽しそうにしてるから」

 それが一番気掛かりだった。


 俺が彼女を変えた、なんて言うつもりはない。

 けれど、カメラのことで少しでも彼女がポジティブになる切っ掛けを作れたなら、俺が一緒に暮らした意味もあると思う。

 それが、転勤で別れることで元に戻ったら大変だ。

 彼女の周りではいろんなことが転がり始めていて、もう、元に戻ることはないとは思うのだけれど。


「御殿場ですか」

 杏奈さんが、車の進行方向を漠然ばくぜんと見ながら言う。


 そのまま、ほとんど会話もなく、車はマンションに着いた。




「ただいま!」

 景都が帰ってきたのは、午後七時少し前だった。

 東子が紹介してくれたカメラマンのスタジオで、彼女は相当な刺激を受けてきたらしく、目付きが変わっているのが分かる。

 普段から好奇心旺盛な景都の目が、更にキラキラと輝いていた。


 ダイニングで、俺が作った夕食の席に着いたところで、俺は、景都にも転勤のことを説明する。


 俺が説明するあいだ、景都は黙ってそれを聞いていた。

 ダイニングテーブルには杏奈さんも着いている。

 杏奈さんは、俺と景都の間で、目を行き来させていた。



「師匠、おめでとうございます!」

 俺の話を最後まで聞いた景都が言う。


「出世されるんですよね。おめでたいことじゃないですか。なんでもっと、早く言ってくれないんですか? そうしたら、お姉ちゃんと二人でお祝いしたのに」

 景都が笑顔を見せた。


「御殿場ですか、富士山のところですよね。私達のことなら、心配しないでください。元々、お姉ちゃんと二人で暮らしてたんだし、また、元に戻るだけですから。それに、一生の別れってわけじゃないし」

 景都は、「ねっ、お姉ちゃん」と、杏奈さんに同意を求める。

 杏奈さんが「うん」と小声で返した。


「さあ、師匠が作ってくれたご飯食べましょう。そうなると、こうやって師匠のお料理を食べられるのも、あと少しですね」

 彼女ははしを手に取った。

 いただきますを言って、三人で食べ始める。


「スタジオ行ったんですけど、凄かったですよ」

 食べながら、景都は興奮した様子で話した。


「中判カメラって言うんですか? 大きなカメラがあったり、ストロボとか、ライティングとか、知らないことがたくさんあって、勉強になりました。いろんな機材があって、私なんて、まだ何が分からないのかも分からない状態でしたけど」


祖父江そふえさん、すごく優しい方で、親切にして頂きました」

 祖父江さんとは、景都が世話になったカメラマンの祖父江麻美そふえあさみさんのことだ。


「それから、祖父江さん、フィルムカメラも使ってるんですよ。これじゃないと撮れない写真があるって、今でもフィルムカメラで撮ることがあるみたいです。師匠のカメラと同じコンタックスの、645っていうカメラです。それで祖父江さん、私のF3も褒めてくれました。使い込んで、よく整備してるのが分かるって。これからも大切にしなさいって言って頂きました。それに師匠、聞いてください! 祖父江さん、私にこれからも仕事場に来てもいいって言ってくれました。手伝ってくれれば、バイト代も出すって。だから私、これから放課後通わせて頂こうと思います。プロの機材にも触らせてもらえますし、トーコさんも祖父江さんとの撮影が多いみたいですから、一緒にお仕事出来るかもしれないし」

 景都が一方的にしゃべる。


「そういうことなので、もう、師匠からは写真のこと教えてもらえなくなっちゃいますけど、今度は、祖父江さんに教えてもらって、私、写真、上手くなりますね。いい写真が撮れるようになったら、また、お姉ちゃんのビキニ写真撮って、師匠に送りますから楽しみにしててください。だから、私のことは心配しないで、師匠は安心して向こうで仕事してください。ホントにおめでとうございます」

 景都はそう言うと、席を立った。


 立つときに手がお椀の上に置いていた箸に触れて、箸がテーブルの上を転がる。

 彼女はそれを拾わないで、ダイニングから消えた。

 バタンと、向こうで景都の部屋のドアが閉まった音がする。


 杏奈さんが心配そうに景都の後を追った。


 二人が中々戻ってこないから、しばらくして俺も景都の部屋を見に行ってみる。


 少し開いたドアから、杏奈さんが景都を抱きしめて、ぽんぽんと背中を叩いているのが見えた。

 景都は、肩を震わせてしゃくり上げている。

 彼女、一生懸命我慢していたのだ。


 彼女のような女の子を泣かせる奴は、万死ばんしあたいすると思う。

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