第55話 本日のパスタ
部屋から出て来た杏奈さんを見て、誰なのかと二度見してしまった。
白のニットに、ツイードのフレアスカートの杏奈さん。
今日は長い髪を巻き髪にしていて、それが肩口でふわっと揺れている。
ぱっちりとしたアイメイクと、きりっとした眉毛が大人っぽかった。
俺が馬鹿みたいに見とれてるから、「変ですか?」って、杏奈さんが恥ずかしそうに下を向く。
「お姉ちゃん、髪とメイクに三時間もかけたんですよ」
杏奈さんの後ろから景都が言った。
「もう! 景都ちゃん!」
杏奈さんに怒られて景都がリビングに逃げる。
そんな景都も、よそ行きの服装で朝からそわそわしていた。
今日、景都は東子から紹介されたカメラマンのスタジオに見学に行って、俺と杏奈さんは食事に行く。
「それじゃあ、そろそろ行きましょうか」
俺が言うと、
「はい!」
「はい」
景都と杏奈さんが同時に返事をした。
景都がPコートを羽織って、杏奈さんが襟と袖口にファーが付いたコートを羽織る。
車では、いつものように景都が助手席に、杏奈さんが後席に座った。
こんなふうに、週末、三人で出かけるのも、あと少しのことだ。
それなのに、俺はこの
言うタイミングを失ったまま引きずっている。
スタジオ見学が楽しみでしょうがない景都を見ていると、それに水を差すようで、余計に言えなくなった。
指定されたスタジオの前で景都を降ろす。
「いってきます!」
彼女が車を飛び出した。
「景都ちゃん、これ、忘れてる」
杏奈さんが、手土産の
「わっ、そうだ。ごめんごめん」
景都が杏奈さんからそれを受け取る。
彼女は、当然のように首からF3を提げていた。
「いってらっしゃい」
楽しそうに駆けていく景都を、杏奈さんと二人で見送った。
「俺達も、行きましょうか」
「はい」
杏奈さんが、後席から助手席に移る。
杏奈さんが予約していたのは、飾らない感じのイタリアンの店だった。
「今日はハンバーグじゃなくていいんですか?」
「私だって、ハンバーグばっかり食べてるわけじゃありません」
杏奈さんがちょっと向きになって言う。
客が二十人も入れば一杯になるような落ち着いた店で、テーブルは半分ほど埋まっていた。
俺達は窓際の席に案内される。
窓の外が川沿いの並木道になっていて、まだ寒そうな桜の木立が見えた。
サンドベージュのリネンのテーブルクロスが敷かれた丸テーブルに、二人で向かい合って座る。
杏奈さんは、ランチのコースを予約していた。
少しして、前菜の
鴨肉が柔らかくて、白菜のシャキシャキと対照的で食感が楽しかった。
次に運ばれてきた本日のパスタは、ワタリガニのトマトクリームパスタだ。
蟹から濃厚なエキスが出ていて、クリームソースの濃い味にも負けていない。
「美味しいですね」
「前に一度、担当の編集者さんに連れて来て頂いて、もう一度、来たいと思ってたんです」
杏奈さんが、嬉しそうな顔で言った。
メインの牛もも肉のタリアータは、バルサミコ酢と、多分ハチミツで作ったソースが絶妙だ。
俺のレパートリーのローストビーフにも、このソースを取り入れたいと思ったから、念入りに味わった。
けれども、そのローストビーフを披露することも、もう、なくなるのか。
「景都、今頃なにしてるんでしょうね?」
食べながらら杏奈さんがそんなこと言い出して、思わず吹いてしまう。
「どうかしましたか?」
杏奈さんが不思議そうに訊いた。
「いえ、だって、杏奈さんが、ここでも景都ちゃんのこと心配してるから」
俺が言ったら、杏奈さんがハッと気付いた感じで、自分でも笑い出す。
無意識に景都のことを考えているのが杏奈さんらしい。
「そういえば杏奈さん、僕に頼みたいことがあるって言ってましたけど」
確か、今日の食事に誘われるとき、そんな話だった。
「あっ、はい。あの、以前、大沢さんに撮って頂いた私の写真を、今度使わせて頂けないかと思って」
「写真ですか?」
「はい、前に私が書いているところを撮って頂いた写真です」
「ああ」
そういえば、そんなこともあった。
撮って頂いたっていうか、俺が杏奈さんに創作の現場を見せてくださいって頼んで、無断で撮影したやつだ。
「今度、雑誌で私の特集をして頂くことになって、私、顔出しをしてないので、大沢さんに撮って頂いた私の後ろ姿の写真とか、横顔が影になってる写真を使わせて頂こうと思って」
確かに、俺が撮った中には、顔がはっきり写っていない写真が何枚かあった。
暗がりで画質が荒かったし。
「もちろん、かまいませんよ」
俺が言うと、杏奈さんが「良かった」って微笑む。
「でも、凄いじゃないですか。雑誌で杏奈さんの特集でしょ?」
「いえ全然全然。編集者の方がプッシュしてくださったので……」
杏奈さんが
新刊の売り上げも良かったみたいだし、杏奈さんの筆も乗っている。
それにしても、よく考えると、俺の写真が雑誌に載るのはこれで二回目だ。
その後、俺達はデザートに出てきた苺のパンナコッタまで、十分にランチを
そのまま帰るには早かったから、杏奈さんと街をぶらぶらする。
二人でウインドウショッピングをしたり、杏奈さんが本屋で本を買ったり。
景都が、これはデートだって言ってたけど、そうだとしたら、俺は久しぶりにデートらしいデートをしたのかもしれない。
日が暮れる前に、俺達は
「あの、また、付き合って頂いていいですか?」
助手席に座った杏奈さんが言う。
「他にも、素敵なお店を色々と教えてもらったのに、一人では行けないので」
杏奈さんが続けた。
俺は、「はい」と返事をしたいけれど、もう、こんなふうに気軽に付き合えなくなるのは分かっていた。
それなのに、「はい」と返事をするのは
もう、これ以上の先延ばしは許されないと思った。
「あの、杏奈さん」
「はい?」
俺が突然呼びかけたのに、杏奈さんが首を傾げる。
俺は、一度息を吐いてから言った。
「杏奈さん、俺、転勤することになりました」
助手席の杏奈さんの目を見て、そう打ち明ける。
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