第57話 私だって
「それでは、行ってきます」
姫宮が席を立った。
彼女は、ノートパソコンと、ひとまとめの書類を抱えている。
作業着を脱いで、スーツのジャケットを羽織る姫宮。
栗色のショートカットの髪に、今日は入念に
姫宮の凜々しい目付きが薄れるから、俺も、着けないほうがいいと思う。
「先輩、何かやらかしたら骨は拾ってくださいね」
姫宮が言った。
「大丈夫だよ。取って食われたりしないから」
俺はそう言って彼女を送り出す。
今回から、設計のグループ長会議に姫宮を行かせることにした。
姫宮は、資料をまとめたり、挨拶を考えたり、朝からずっと緊張していた。
他は何十人と部下を従えている
「最悪、何かやらかして首になったら、お嫁さんにしてくださいね」
姫宮はそう言って部屋を出て行った。
俺の転勤が決まった直後は、「嫌です」と、駄々をこねるようにしていた姫宮だけれど、落ち着いて、こんな軽口を叩けるようになっている。
大丈夫、お前なら出来ると、俺はその背中に念を送った。
彼女のことは、会議に出席する何人かに頼んでおいたから、間違いはないだろう。
姫宮が出ていって、部屋に知世ちゃんと二人だけになった。
狭い部屋の中で、俺がキーボードを叩く音と、知世ちゃんがマウスをクリックする音だけが響く。
「知ちゃん、姫宮のこと、頼むよ」
二人だけになって、姫宮がいたら言えないことを知世ちゃんに言っておいた。
「あいつ、基本、気が強いけど、時々ぽきって折れるようなところがあって、そういう場合でも、知ちゃんが落ち着いて意見してやれば、自分を取り戻すと思うから」
姫宮には、たまに折れたとき支えられる相手が必要だ。
「分かりました」
手を止めた知世ちゃんが言った。
「姫宮さん、先輩に気に掛けてもらって幸せですね。でも、先輩が異動になって心細いのは、姫宮さんだけじゃないと思いますよ」
知世ちゃんが言う。
知世ちゃんが俺のことをじっと見ていて、その視線に耐えきれずに、俺は目を伏せた。
「先輩、私が先輩に初めて会った時のこと、覚えてますか?」
「えっ?」
俺は記憶を
「入社式の時かな?」
そこで、新入社員とは一通り挨拶をしたような気がする。
「もしかして、覚えてないんですか? 私は、もっと前に先輩に会ってるんですよ」
「そうだっけ?」
「就活の合同企業説明会で、先輩とお話をしました」
「ああ」
人事に駆り出されて、若手が交代で説明会に出たことがあって、確かに俺も何度かそれを経験している。
就職希望の大学生と話した中に、知世ちゃんがいたってことか。
「やっぱり、覚えてなかったんですね。ちょっとショックです」
知世ちゃんがジト目で俺を見た。
「ごめん」
「嘘です。あんなに大勢人がいるんですもの。覚えてなくて当然です」
彼女は表情を崩して許してくれた。
「私、大学を出て、父が勧める銀行にそのまま勤めることになってたんです。父の会社と取引がある銀行で、もう、それは決められていました。だけど、そうやってなんでも決められちゃうことに、その頃の私は疑問も持っていて、自分で就職先を探してやろう、なんて考えたんです。でも、いざ自分で動こうと思ったら、私、
彼女は、おっとりしているようで、決めたら自分を曲げない強さがある。
「そこで、偶然通りかかったブースに座っていた先輩が、声を掛けてくれたんですよ」
彼女に言われて、そんなことがあったかもしれないと、ぼんやり思い出した。
「先輩は私に、『緊張してるみたいだけど、俺でよかったら練習相手になるから、ここで面接でもして慣れていこう』って言ってくださいました。気軽に話しかけてくれて、そこでお話をしました。多分私、
「それで、この会社にエントリーしてみたら、とんとん拍子に面接まで進んで、内定まで頂いたんです。父は反対したんですけど、私はそれを説き伏せて入社しました。私、それまで親に反抗したことなんてなかったら、父もびっくりしたと思います。母や祖母が間に入ってくれて、どうにか認めてもらいました。だから、今、私がここにいるのは、先輩と出会ったからなんですよ」
知世ちゃんが、いつになく強い視線で俺を見た。
彼女の縁なしメガネがキラリと光る。
「ですから、この部署に配属になったとき、私、どれだけびっくりして、どれだけ喜んだか。私は姫宮さんみたいに、感情をストレートに言葉に出すことは出来ませんけど、でも、私だって…………」
彼女はその後の言葉を継がなかった。
「大丈夫です。私も、姫宮さんと一緒にこの部署を守ります。もし、先輩が帰ってこられるような時のためにも、こっちでがんばってますから、安心してください」
「ありがとう」
俺が言うと、知世ちゃんはいつもの柔らかい笑顔に戻る。
「それから、祖父のカメラコレクションを使ってくださいっていうのは、これからも有効ですから、先輩、興味があったら、いつでもうちに来てくださいね。これは、社交辞令で言ってるのではありません」
「うん、分かった」
二人だけの部屋に、キーボードの音と、マウスのクリック音だけが響く。
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