第16話 みょうがの味噌汁

 まな板で何かを刻む音で目覚めた。

 目を開けて、一瞬だけ、ここがどこか分からずに戸惑う。


 そうだ、ここは新しい俺の部屋だった。



「おはようございます!」

 キッチンに顔を出すと、セーラー服の上にエプロンをした景都が、朝食の準備をしている。

「おはよう」

 久しぶりに、こうやって起き抜けの挨拶あいさつをした。


「師匠、新しい部屋で眠れましたか?」

 朝から元気いっぱいの声で訊く景都。

「うん、ぐっすりと眠れたよ」

 元々どこでも寝られるたちなのだけれど、それにしても心地よく寝られた。


「良かったです。師匠、ちょっと味噌汁の味見してください」

 景都がお椀に少しだけ味噌汁をよそう。

「美味しい」

 ちゃんと出汁だしを取ってある味噌汁だ。

「うちは、日本食の朝ごはんが多いんですけど、師匠はそれでもいいですか?」

「うん、その方が嬉しい」

 これでトーストをかじるだけの素っ気ない朝食を卒業できる。

「手伝うよ」

「それじゃあ、師匠はお茶碗とかお箸の配膳お願いします」

「分かった」

 テーブルの上にリネンのランチョンマットを敷いて、その上に食器をそろえた。


「あと、お姉ちゃんを起こして来てもらっていいですか? 多少、手荒なことをしてもいいですから」

 景都のその言葉で、杏奈さんの寝起きの悪さが分かる。


「杏奈さん、朝ですよ。朝ごはん食べましょう」

 俺は、部屋のドアをノックしながら呼びかけた。


 返事はない。


「杏奈さん」

 ドアノブに手をかけると、鍵は掛かってなかった。

「入りますね」

 俺はドアを開ける。

 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいて、部屋の中がぼんやりと見えた。

 相変わらず、部屋の中は雑然としている。

 まさしく足の踏み場もない。

 部屋の中央の机には、開いたままのノートパソコンがあって、その横に、飲みかけのコーヒーのマグカップが置いてあった。

 杏奈さんが徹夜した激闘のあとなのかもしれない。


「杏奈さん、起きましょう。朝ごはんできますよ」

 床の本や書類を踏まないよう、俺は窓際まで慎重に歩いた。


「朝ですよ。開けますね」

 呼びかけながら、カーテンを開ける。

 途端に、部屋が光で満たされた。

 初夏の眩しい日差しで、今日も暑くなりそうだ。


 ベッドの上の杏奈さんが、反射的に布団を頭まで被る。


「さあ、起きましょう。みんなで一緒に朝ごはん食べるんでしょう?」

 何度か呼びかけても、杏奈さんは「う~ん」ってうなって、寝返りを打つだけだった。


「起きてください、いい天気ですよ」

 景都から手荒にしていいと許可をもらってることもあって、俺は無慈悲むじひに掛け布団を引き剥がす。


 あっ。


 ベッドの上の杏奈さんは、キャミソールとパンツしか身につけてなかった。

 黒いキャミソールに黒いパンツで、杏奈さんの白すぎる太股ふとももが、朝日を浴びて白飛びしている。

 それでも起きずに、「う~ん」って、悩ましい声を出す杏奈さん。

 無防備な胸元を見るにつけ、杏奈さんって、着痩きやせするタイプだと思う。


「杏奈さん」

 キャミソールの左肩の肩紐が落ちていて、このままだとはだけそうだから、肩紐を直そうと俺が紐に手をかけたら、突然、杏奈さんの目がぱっちりと開いた。


「きゃーーーーーーーーーーー!」

 悲鳴とともに、杏奈さんの張り手が飛んでくる。

 彼女から張り手を受けるのは二度目で、その軌道を見切っているから、今度はどうにかかわすことができた。


 悲鳴を聞いて、台所から景都が飛んでくる。


「師匠、手荒なことをしていいとは言いましたけど、お姉ちゃんを襲っていいとは言ってません!」

 現場には、ベッドの隅でうずくまる杏奈さんと、ベッドの脇に立ち尽くす俺。


「いや、誤解だから」

 その誤解を解くのに、朝の貴重な時間を10分使った。


「お姉ちゃん。早く起きないから、こんなことになるんだよ。明日からは、ちゃんと起きてね」

「はい」

 杏奈さんが項垂うなだれて返事をする。

「それから、師匠がいるんだから、もう、今までみたいにキャミソールとパンツで歩き回ったらダメだよ」

「うん」

 景都が、姉にパーカーを羽織らせた。


「ですが師匠も、紛らわしい行為はしないでください。李下りかかんむりを正さずと言うでしょう?」

「はい」

 事故とはいえ、言い訳はできない。


「それじゃあ、二人とも、朝ごはんできたから、テーブルについてください」

「はい」

「はい」

 俺と杏奈さんが同時に返事をした。


 これでは、どっちが年上でどっちが年下なのか分からない。


 景都が用意した今日の朝食は、焼き鮭に卵焼きに、納豆と水菜のおひたし、昆布の佃煮、そして、炊きたてで艶々のご飯。

 味噌汁は、ナスとみょうがの味噌汁だ。


「師匠、私は、自分の分とお姉ちゃんの分のお弁当を作るんですけど、師匠はどうしますか? 二人分も三人分も手間は変わらないので、私、作りましょうか?」

 食べながら景都が訊く。

「うん、社食があるから、俺の分は用意しなくていいよ」

「そうですか」

 会社に景都が作った弁当なんて持ってったら、姫宮に何を言われるか分からない。

 たぶん、誰が作ったんだって、しつこく追求してくるだろう。


 それにしても、彼女は杏奈さんの分も弁当を作るのか。

 この部屋で小説を書いていて、昼時になると妹が作った弁当を広げる杏奈さんを想像して、吹き出しそうになった。


「ほら、お姉ちゃん、みょうが残したらダメでしょ」

 妹に怒られて、杏奈さんは渋々みょうがを口に運ぶ。


 久しぶりに実家の母の朝食を食べたような、そんな気分だ。


 朝食が終わって、二人が後片付けをしているあいだに、俺は洗濯物を干す。

 柔軟剤は結局、景都が使っていたファインフレグランス・ボーテにした。


 バスタオルに、パンツにブラジャー、靴下にTシャツ、俺は手際よく干していく。

 干しながら、ベランダにフローラルの優しい香が広がってうっとりした。

 洗濯をしていて、このときが一番気持ち良い瞬間だ。


 青空の下、姉妹のパンツと俺のパンツが、一緒になって風にそよいだ。

 一緒に暮らすっていうのは、多分、こういうことなんだって、それを見て思う。



「いってきます」

 支度を終えて、景都と一緒に部屋を出た。

「いってらっしゃい」

 杏奈さんが手を振って送ってくれる。


「師匠、車の運転には気を付けて、絶対に帰って来てくださいね」

 エレベーターまで並んで歩きながら、景都がぽつりとそんなことを言った。

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