第17話 ひかるん
「先輩、先輩はなんで
いつも通り仕事をしながら、ふと、姫宮がそんなことを訊いた。
三人だけの職場で、もう一人の部下、その知世ちゃんも、手を止めて俺の顔を見る。
「んっ、そうだったか?」
「そうですよ。先輩、私のことは姫宮って呼んで、知ちゃんのことは、知ちゃん、って呼ぶじゃないですか」
そういえば、そうだった気もする。
「んー、なんか、橘さんは知ちゃんって感じだし、姫宮は姫宮って感じだからな」
さしたる理由はなかった。
気にも留めてなかったから、そうとしか言えない。
「まあ、分かるような気もしますけど」
姫宮は自分で訊いておいて、自分で納得していた。
「先輩、これからは私のことも、ひかるちゃん、とか、ひかるん、とか、フランクに呼んでください」
姫宮がそんなことを言いだした。
「ひかるちゃん、ひかるん、か?」
俺は、そう口にしてみる(っていうか「ひかるん」ってなんだよ)。
「そうです、そんな感じです」
「いや、フランク過ぎるだろ。それに、やっぱり姫宮は、姫宮だな」
そっちの方がしっくりきた。
「えー、お願いしますよぉ。もう、下の名前じゃなくてもいいですから、おまえ、でも、メス豚とでも、なんとでも呼んでください」
「いや、部下のことメス豚とか呼んだら、その瞬間、俺のサラリーマン人生終わるから」
サラリーマン人生どころか、人生そのものだって終わるだろう。
「いいんですよ、先輩。会社を首になっても、先輩の一人や二人、私が働いて食べさせますから」
姫宮が、ニヤニヤ笑いながら言った。
「なんだよそれ……」
「うふふふふ」
知世ちゃんが、俺達の話を聞いて笑っている。
そんな、実に我が部署らしい会話を交わしていたら、それを
営業から設計のここに電話が掛かって来るのは、短納期の依頼が入って泣き付かれるときか、設計にミスがあって現場や施主からクレームがあったときのどちらかで、どちらにしてもいいニュースではないことは分かっている。
今度の場合は、後者だった。
「姫宮、姫宮が担当した田代邸ってあるな」
「はい」
「そこで、不具合があったみたいだ」
電話によると、
スイッチを入れると消えて、スイッチを切ると点灯するっていう、ごく初歩的なミスだ。
それを聞いて、原因はすぐに推測できた。
この部分は、会社独自の設計ソフトが工場側のソフトのアップデートに対応していないから、手動で変更する必要があるのだ。
だから当然、二重三重にチェックをするのだけれど、今回はそれをすり抜けてしまった。
「すみません!」
姫宮の顔から血の気が引いている。
「いや、俺のチェックも甘かったんだ。こんな初歩的なミス」
姫宮が書いた図面をチェックして、最終的にハンコを押すのは俺だ。
すぐに、姫宮と対策用の仕様書を作った。
営業の社員の手が足りなくて、
「私も行きます」
姫宮が、作業着を脱いでスーツのジャケットを手に取った。
社用車を飛ばして二人で現場に向かう。
「申し訳ありません!」
現場に来ていた施主の年配の夫婦に頭を下げた。
「ええ、まあ、間違いは誰にでもありますから」
奥さんも隣で頷いていた。
現場監督と、電気工事会社の両方にも頭を下げる。
「しっかりしてよ」
こっちには、かなり叱られた。
取り付けてしまった配線を直すのに一部壁を壊す必要があって、工期は遅れるし、直るまで他の職人さんの仕事が出来なくて、予定を組み直さなければならないのだ。
俺は、現場にいる全員に頭を下げて回った。
俺の後ろで縮こまった姫宮も、同じように頭を下げる。
こんなに頭を下げたのは久しぶりかもしれない。
営業の連中に言わせれば、こんなのは甘い方なんだろうけれど。
不具合が直るまで現場を見守って、最後にもう一度頭を下げて会社に戻る。
辺りはすっかり暗くなって、道路は帰宅ラッシュで混んでいた。
「施主さんがいい人で良かったな」
俺は、ハンドルを握りながら助手席の姫宮に話しかける。
「はい」
家を買うなんて、施主としては一生に一度あるかないかの高い買い物で、こういうミスがあると、人によっては怒りが収まらないこともある。
以前、営業から聞いた話では、同じようなミスで、半日正座をしたまま説教をされたっていう例もあった。
「やっぱり、あのチェック方法は見直そう。それで二度とミスを起こさなければ、今回のことも意味があるよ」
「はい」
姫宮は落ち込んでいる。
普段生意気で、平気で俺に軽口を叩くような奴だけれど、責任感は人一倍強いから、かなりショックを受けていた。
「先輩に迷惑かけるのは二度目ですね。あの時も……」
姫宮が消えそうな声で言う。
「姫宮に迷惑なんてかけられてないよ」
彼女は、入社直後のことをまだ気にしているらしい。
入社直後、新入社員の女子にあからさまなセクハラをする上司に、姫宮が正面切って文句を言ったことがあった。
当時、姫宮の指導担当をしていた俺は、姫宮を
「でも、あの時のことで先輩が……」
姫宮は、俺がその件で、この三人しかいない部署に飛ばされたと思っている。
それがなければ、俺が大手住宅メーカーの担当になっていて、出世の道にも近かっただろう、なんて考えているのだ。
姫宮は、それを飲み会で酒が入るといつも口にする。
「姫宮、俺は、この部署が
大手住宅メーカーからのマニュアル通りの依頼と違って、小さな工務店や設計事務所から依頼が来る物件は、一つ一つ個性的で面白いし、色々と実験的でやりがいもある。
「ですけど……」
それに俺は、何十人っていう部下を率いてぐいぐい引っ張って行くっていう、そんな
この、三人だけのこぢんまりとした部署が、けっこう気に入っている。
「よし、姫宮、飯食ってくか?
会社に帰る頃には九時を回るだろう。
通り沿いの、ラーメンや洋食屋の看板が気になった。
「はい……」
返事をしたものの、姫宮はまだいつもの元気がない。
いつもの姫宮なら、先輩、お寿司奢ってください、くらいの軽口は叩くはずなのだ。
「ほら、姫宮、いや、『ひかるん』、飯食いに行こうぜ」
俺が言うと、姫宮が、思わずぷっと吹き出した。
ようやく彼女に笑顔が戻る。
それでこそ、姫宮だ。
「先輩、私…………」
姫宮が、そんなふうに、なにか言いかけて、途中で止める。
「なんだよ」
「いえ」
結局、俺達は通り沿いのラーメン屋に入って、ニンニクの匂いプンプンさせながら会社に帰った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます