第2話 美也子と花音と隆一と

第六章 美也子と花音と隆一

 会社の近くで夕食を済ませ、約束の時間に美也子の部屋へ行く。もちろん、花音の部屋には何度も行っている。同じ部屋なのに『美也子の部屋』へ行くという意識が、初めて女性の部屋へ行く時のような不思議な感覚を呼び起こす。 ドアホーンを押すと、中から美也子が出てきた。今日は隆一が訪れることが事前にわかっていたせいか、嫌な顔は見せない。かといって、歓迎するふうでもない。

「どうぞ」

「失礼します」

 勝手知ったる部屋にも関わらず、よそ行きの態度をとらなければならないのが、自分でもおかしい。

 通されたのは、いつものリビング。

「そこに座って待っててください。高山さん、コーヒーがいいですか、それとも紅茶?」

「すみません、コーヒーでお願いします」

美也子が二人分のコーヒーを持ってきた。

今日の美也子は、凹凸のあるピンクタック編みのニットと、体のラインが見えにくい総針編みのピンクストライプ柄をほどこしたスカートのセットアップというスタイルだった。いつもは、花音でいる時に美也子に変わるため、花音のファッションとしての美也子しか見ていなかった。今日初めて美也子本来のファッションを見た気がする。やはり、ファッションについても、二人の好みは違うことがわかった。花音はもっと可愛い系が多い。

「美也子さんもコーヒーが好きなんだ。花音と同じだね」

「彼女のことは知らないけど、私は昔からコーヒーが好きよ」

 不揃いの前髪が揺れる。花音もそうだっただろうか。

「隆一さんって、何が趣味なの?」

「う~ん、趣味かあ。これといってないんだよね。美也子さんは?」

「私も同じ」

 これまで会ってきた美也子とはまったく違う。最初は少し硬い表情だったが、今は柔らかいし、しなやかだ。会話も楽しい。普段の美也子はこうなんだろうと思わせる。いつの間にか、花音を意識の片隅に追いやっている自分がいる。

 ソフアー横のスタンドライトが美也子の横顔を浮き上がらせていた。美しいと思う。

「しかし、美也子さんって、きれいだよね」

  膝の上に置いたクッションカバーを弄んでいた美也子の手が止まる。

「何よ、急に」

「いや、前からそう思っていたんだけど。そいういう話なんか受け付ける雰囲気なんかなかったし。つけいる隙がないというか」

「私って、そんなにきつい女に見えました?」

 かすかに俯いた時に見えたまつげは蝶の触覚のように細く、長い。

「申し訳ないけど、そういうところがあるよね」

「はっきり言うわね。でも、それはしょうがないじゃない。出会いが出会いだから」

「まあ、そうだね。こんな出会いってまずないからなあ」

「驚かせてしまった?」

「そりゃあ驚いたさ。僕は花音の側にいたつもりだったのに、突然美也子さんが現れて、怒られて‥」

「そうよね。でも、私の立場に立って見てよ。いきなり目の前に、しかも自分の部屋に見知らぬ男がいるのよ。私だってものすごく驚いたんだから」

「そう考えると、なんかおもしろくない?」

「う~ん、おもしろいのとはちょっと違うかもしれないけれど、不思議な巡り合わせよね」

 部屋全体が温かく、柔らかな空気に包まれているようだった。美也子とこんな時間を持てることに幸せを感じていた。

「そういえば、花音との出会いも運命的だったからな。忘年会の二次会があって、僕は帰るつもりだったんだけど、友人がどうしてもというんでたまたま入った店に花音がいてさあ。一目惚れだったんだよね」

 美也子の笑顔はすっと顔の奥へ消えていた。だが、それに隆一は気づいていなかった。

「いつも、花音の話ばかりね」

 艶めかしさすら感じる深いため息だった。いつもの見慣れた部屋が、異空間に変わった。

「えっ」

 横を見ると、美也子の乾いた笑いを含んだ拗ねた顔に出会う。

「ごめん」

「私じゃダメなわけ」

 ひとり言のような細い声だった。

 思いもよらぬことを言われ、隆一は戸惑ったが、同時に自分の気持ちの中にある美也子の姿が浮かんだ。何度となく現れた美也子と接しているうちに、いつしか、隆一も、美也子を好きになっていた。そのことは前からわかっていた。だが、気づかぬふりをしてきた。今、美也子から告白され、押さえつけていた自分の気持ちが白日のもとに晒された。

「美也子さん。それを言われたら、僕はどうしたらいいかわからなくなってしまうんです。僕が愛しているのは、あくまで一人の女性なんです」

「そんなことは、私にとってはどうでもいいの。お願いだから、花音のことじゃなくて、私のことを見て。隆一さん、私のことが嫌い?」

 美也子の声はしっとりと潤っていた。

「いや、もちろん、そんなことはない。美也子さんと出会い、いろんなお話をする中で、美也子さんに惹かれていったことは事実です。だから美也子さんのことは好きです。だけど…」

 意識から追いやっていたはずの花音の顔が浮かぶ。自分はどう対応すべきなのだろうか。答えの出ないまま、きづまりな時間が流れていく。

「だけど、やっぱり花音のことが忘れられないのね」

 薄い唇がわななくように震えている。

「難しい質問です」

「私はいつまた隆一さんと会えるかわからないの。だから、花音と同じように、今日私を抱いて。いや、花音以上に私を愛して」

 そう言って、服を脱ごうとする美也子。

「待って、待って。お願いだから美也子さん、待って」

 隆一は服を脱ごうとしていた美也子の手をつかみ、美也子の肩を抱きしめた。強く、強く。愛していると言いながら。き~んと耳の奥が痛くなるほどの静けさの中で、いつの間にか降り出した雨が窓を叩く音が聞こえる。

 次の瞬間、美也子の顔が、突然花音に変わった。

「隆ちゃん、痛いよう」

「あっ、ごめん、ごめん」

 慌てて肩から手を離す。

「なんか嬉しいけど。でも、どうしてここにいるの。今日約束してたっけ」

「ああ、そうだよ。電話もらったじゃないか」

「そうだっけなあ」

 怪訝そうな顔をする花音。初めての逆転現象に、隆一は困惑するが、なんとか対応できた。つい先ほどまでの状況を考えれば、救われた気分ではあった。

「花音のほうが、話があるって言ってたんじゃないか」

「う~ん、覚えてないな。最近、私どうかしてるんだよ。記憶なくすことが多いし」

「そうなんだ。自分でもわかるの?」

「うん、家に帰った時、ずいぶん久しぶりな感じがしたり、自分で買った覚えのないものが部屋にあったりするんだ」

「そうか。疲れてるんじゃないか」

 解離性同一性障害に罹かっている人は複数の『人格』を持つことが多い(人格の解離という)。それはあくまでも同じ人間の『部分』ではあるのだけど、それぞれ別の『人格』として存在することがある。

 その人の『もともとの私』を主人格あるいは基本人格といい、その主人格から切り離された人格を交代人格という。他の『人格』に移行している間は、その間の記憶が途切れることがあるという。なので、花音の話は頷ける。過去には16の人格が認められた例があるというから驚きだ。

 『人格』間の関係でいえば、別の『人格』について気づいている場合もあれば気づいてない場合もあるらしい。美也子と花音の関係でいえば、美也子は花音の存在に気づいているが、花音は美也子の存在を知らない(知らないふりをしているのかもしれないのだが)。また、どちらが主人格なのかも、本当のところわからない。どちらも交代人格という可能性すらあると、医者は言っていた。

「ねえ、隆ちゃん、私気になってることがあるんだけど」

 顔が暗くなった。くぐもった声は嫌な予感を想像させる。空気が急速に蒼ざめる。

「何?」

「隆ちゃん、最近、私以外に誰か好きな人できたでしょう?」

「どうした。そんなことまったくないって」

「そうかなあ。そんな気がするんだけど。女の勘ってバカにしちゃいけないんだよ」

 自分を否定するような、寂しそうな声だった。花音からは孤独な影が漂っている。背中が心なしかゆがんで見える。

 一層強まった風雨が木の枝を揺らしているのが部屋の中にいてもわかる。今日の昼間は、雲ひとつない偽物のような青空だったのに、風景は一瞬で変わる。

 花音は美也子の存在を知らない。にもかかわらず、どこかで感ずるのだろうか。美也子から聞いた、花音が子どもの頃に受けたという虐待のことが頭に浮かぶ。花音にとってその傷はまだ癒えてないと思われる。今の花音は、隆一からも裏切られたという思いなのかもしれない。そんな花音の気持ちを思うと切ない。なんとしても、花音を守りたい。しかし、耳朶には美也子の『やっぱり花音のことが忘れられないのね』という言葉が蘇っている。

「花音、僕の顔をちゃんと見て」

 少し拗ねた表情を浮かべながらも、隆一の顔を覗く。

「いいかい、花音。僕を信じるんだ。僕は花音を全力で愛してる」

 先ほど美也子に対して言った『愛してる』も、今花音に対して言った『愛してる』も、隆一にとってはともに嘘ではなかった。本来一人の人間に対しての愛情表現なのだから、間違ってはいないはずでもあった。しかし、隆一の気持ちは激しく揺れ動いていた。はからずも、花音と美也子と自分との間に三角関係のようなものが生まれてしまっていることに慄然と立ち尽くす。

 医者によれば、最終的な治療方法は、人格を統一、つまり複数の人格を1つの人格に集約するという方法。もう1つは、1つに集約するのではなく、その人にとって必要な人格とそうでない人格にわけ、必要でない人格を徐々に減らしていくという方法が主にとられという。しかし、隆一は、花音も、美也子も「人格」としてではなく別の人間として接している。だから、人格を統一するということは、花音か美也子のどちらかを消すことになる。それは、自分の心を裂かれるようなもので、あまりにも辛い選択であり、とてもできない。花音も、美也子もすでに隆一にとってはかけがえのない存在になってしまっている。

 その日は、泊まっていってほしいという花音の願いを宥めて、夜遅く帰宅した。心の整理ができないまま泊まり、花音を抱くことはできなかったからだ。 翌日、精神科医に電話すると、それでは彼女を連れてくるようにとのことだった。しかし、美也子と会わなければ予約の日を決められない。美也子の連絡先は聞いていたので、何度か電話とメールを入れてみるが返事はこない。先日、ああいう不自然な別れ方をしてしまったせいかわからないが、隆一のほうではどうしようもないので、とにかく連絡を待つしか方法がなかった。花音もその後何も言ってこなかった。だが、思わぬ人からの電話で事態は動くことになる。それは、好美からの電話だった。


第七章 花音の闇の先

「もしもし、高山さん?」

「そうだけど、久しぶりだね、好美ちゃん。何かあった?」

 好美とは以前花音のことで昼間会った。その後、埋め合わせに店に行って指名をすることで、その節の埋め合わせは終わったはずだった。

「あのさあ、花音の様子がちょっとへんなんだけど、大丈夫?」

「どういうこと?」

「さっき、私のところに突然花音から電話があって、何か訳のわからないことを言ってるの。ろれつがまわってなかったから、最初はお酒でも飲んでいるのかと思ったんだけど、違う感じなのよね。でね、ひょっとしたら薬かもしれないと思って、高山さんに電話したのよ。なんか危険な感じがするから、行ってあげて」

「ありがとう。すぐに行くよ。本当に感謝する」

 電話を切った後、外出の理由をつくり会社を飛び出した。とるものもとりあえず駅まで走り、駅に着いたところで花音に電話してみる。出ないと思われたが、花音は出た。

「はい」

 好美の言うように明らかに声の調子がおかしい。

「花音、どうした。何があった?」

 返事がない。

「花音」

 もう一度語り掛けると、返事があった。

「隆ちゃん、私が産まれた理由を教えて?」

「何を言ってるんだ。花音おかしいよ。何があった?」

 それには何も答えない花音。

「隆ちゃん、私、もうダメかもしれない」

「何を言ってるんだ。とにかく僕が行くまで待ってろ。すぐに駆けつけるから、わかったな花音」

 だが、もう返事はなかった。

 部屋に飛び込んだ隆一が花音の姿を発見したのは、風呂場だった。花音は浴室に眠るように横になっていて、側には血のついたカミソリが落ちていた。すぐに隆一は花音の腕を見た。幸いにも傷は浅かった。恐らく薬のせいで、途中で止まったのだろう。すぐに救急車を呼ぶ。

 幸いにも花音の傷は深くなく、翌日には退院できることになった。病院へ迎えに行き、そのまま一緒に花音の住むマンションへ帰る。いつも見慣れている花音の住むマンションが灰色の波のように坂を埋めつくしていて、不気味に思えた。ようやくのことで部屋にたどり着く。花音の身体の傷はそう深くはなかったとはいえ、やはり精神的にはまだ癒えていない。とりあえず、ソファーに座らせる。

「隆ちゃん、ありがとう。私、幸せだった」

 病院から部屋に戻るまで、ずっと無言だった花音が初めて発した言葉だった。瞳をくるりときらめかせ、小さな笑顔も見せた。でも、それは、人を愛することに、ふっと疲れたような言い方だった。

 退院したばかりの花音はいつもより一回り小さくて細くて抱きしめると折れてしまいそうな感じだった。だから、そっと肩に手を回す。

「何で過去形で話すんだよ」

「隆ちゃんはまだ気づいていないけど、もうすでに過去形になっているのよ」

 花音と作ったたくさんの思い出が閃光のように突然に意識を貫く。

「何を言ってるんだ」

 あの書棚が目に入る。

 病院から処方された薬がテーブルの上で存在感を発揮している。

 花音のために用意したジュースを入れたグラスの側面を水滴がひとつ雨のしずくのような形になって流れ落ちた。

「もっとたくさん伝えたいことがあったような気がする」

 暗い記憶とともに葬ってしまった、遠く置き忘れてきた日々を慈しむような表情だった。

「花音、もう何も言わなくてもいいんだ。ゆっくり休んだほうがいい。そうだ、先生からもらった薬を飲もう」

「うん」

 睡眠導入剤と思われる薬を取り出し、花音に飲ませる。

「私、知ってるんだよ。何もかも」

 毅然とした言い方だったが、花音の声が次第に硬くなっているのがわかる。薬が効いてくる前に言わなくてはという思いがあるのだろう。

「何もかも?」

「そう」

 だが、それが何なのか、隆一には訊く勇気がなかった。

「もういいよ、花音」

 終わりの静けさを見届ける覚悟がまだ隆一にはできていない。

「いや、駄目。聞いて」

 カーテンの向こう側で人影が動いたような気がした。なぜか、きっと美也子に違いないと思った。

「私は幼い頃辛くて苦しくて耐えられない目に会ってきた。毎日が地獄だった。生きているという実感なんてまったくなかった。背をまるめ顔を両手で覆って泣くことすら許されなかった。そんな私の最初の味方はお兄ちゃんだったけど、お兄ちゃんはいつしか私をいじめる側に変わっていた。でも、塞がれた窓の向こうの細長い青空と誰だか知らない私より少し年上の女の子が私を救ってくれたの。空は毎日色や形や匂いを変えるけど、いつだって私の味方だった。辛かったらいつでも僕のところへ来ていいよって言ってくれてた。その空と同じように私の心が潰れそうになるのを優しく支えてくれた、そのお姉ちゃんのことを隆ちゃんは好きになったんだよね」

 どう答えたらいいのだろうか。

「いいんだよ。きっと今もここにいるよ」

 いびつな均衡の中で育まれた絆のようなものが、花音と美也子の間にはあるのかもしれない。

「わかった花音。でも、僕はその女性と同じように花音を愛している」

「そう。隆ちゃん優しいね」

「僕は本当のことを言っただけだ」

「そう。でも、隆ちゃん、私は消えちゃうんだよね」

「そんなことないよ。僕がそんなこと許さない」

「ありがとう。でも、私怖い」

 花音の身体がぐらりと揺れた。薬が効いてきたのだろう。そんな花音を部屋まで連れて行き、ベッドに寝かせる。花音はすぐに眠りについた。

 花音の言うように、この部屋に、いや今隆一の隣で寝ているであろう美也子に語る。『美也子、これで良かったのだろうか。君は今の僕でも好きと言ってくれるかい』美也子の透明感のある黒い瞳が隆一を見つめているように感じた。

 どれほどの時間が経ったろう。ベッドの横の椅子に座って花音を見守っていた隆一も疲れていたのだろうか、寝てしまっていた。気が付いた時は、もう午後9時を過ぎていた。喉が渇いた隆一は、飲み物を取りにキッチンへ向かおうとそっと歩き出した。その時、部屋の隅にあったゴミ箱を蹴ってしまった。中から紙のゴミが零れ出た。慌てて花音の様子を見るが、よほど疲れていたのか起きる様子はなかった。ゴミ箱を起こし、外に出たゴミを拾おうと思った時、丸まった紙が目に入った。それは、新聞記事のコピーを丸めたものであることが一瞬でわかった。そのままゴミ箱に戻すつもりで拾い上げたが、なんだかその記事が気になり、広げて見てしまった。


平成〇年11月21日午後4時45分頃、山梨県〇〇市の笹の山林の斜面で、近くに住むこの山林の所有者の男性(57)が人骨の入った旅行用の大型キャリ-バックを発見、警察に届け出た。〇〇署によると、遺体はほぼ白骨の状態で、着衣と見られる布なども付着していた。性別、年齢、死因や死亡時期などは不明という。

 

〇〇署では、死体遺棄事件として捜査を開始。22日以降に司法解剖を行って死因などを調べるとともに、身元の特定を急ぐ。

 

                             山梨〇〇新聞


 

 花音が自殺未遂を起こしたことと、この事件が何らかの関係があるのだろうか。先ほど花音が言った「何もかも」という言葉がが気になる。「何もかも」の中に、この事件のことが含まれていたのだろうか。

 しかし、そもそもこの記事はどこにあったのだろう。美也子の部屋にあったのか、それとも、もともと花音の部屋にあったのか。

 花音でなくとも、美也子、あるいは他の人格の誰かが、この事件に関わっている可能性がないとはいえない。

花音は花音として生きている時間だけでなく、美也子として生きている時間も持つ。ひょっとしたら、他にも「人格」を持ち、それぞれが、それぞれの時間を送っていたのかもしれない。だが、それはあくまで一人の人間の『部分』であるとしたら、それが花音であろうと美也子であろうと、他の「人格」であろうと、一人の人間として、この事件に関わった可能性があるということになる。もちろん、これはまったくの推測に過ぎず、この記事はまったく別の意味を持つのかもしれない。迂闊な判断はすべきではない。しかし、記事を見てしまったことで、隆一の不安は違う意味で増幅していた。

『私が愛したのはいったい誰なのだろうか』

答えは出ない。

心の一部がしびれ、急に自分という存在が頼りなくなる。

 愛する花音を解離性同一性障害から救いたい。その一心でここまで花音の病気と戦ってきた。しかし、その結果、思わぬ事態に遭遇することとなってしまった。このまま美也子を病院へ連れて行き、美也子と花音の治療を始めることは、同時に二つの人格を持つ、隆一が愛する一人の女性の過去の暗い記憶を掘り起こすことになるのかもしれない、それはつまり、あの記事にあった忌まわしい事件との関係性を浮かび上がらせる結果となってしまうかもしれないのだ。もっと端的に言えば、最悪、犯人であることを証明することになるかもしれない。そんなことは自分にはできない。

 

第八章 さようなら

 美容室へ行き、セミロングだった髪を切ってショートボブにした。

「ありがとうございます」

という声を背中で聞いて、外に出る。すでに、午後5時をまわっていて、夕焼けが空を茜色に染めていた。しばらく空を見上げていると、やがて、木々や家々の輪郭が傾いた陽を浴びて金色に輝き始めた。わたし、こんな空は好きよ。

 初秋にしては生暖かい夕方の風を頬に受けながら、まっすぐ前を向いて歩いているのは、花音でもなく、美也子でもなく、富永恵子である。

 手にはボストンバックを提げている。すでに、あの部屋の荷物は一時保管場所へ移動している。いずれ近いうちに引っ越す。

 誰も、何もわかっていない。主人格はこの私。他の人格はすべて私が支配している。

実の父親と兄から虐待を受け続け、誰一人として味方のいなかった私は、複数の人格をつくることでしか生きられなかった。苦しんで、悩んで、悲しんで、絶望の淵に落とされて、それでもかろうじて生きているのは、複数の人格があるから。

 人格を統一されたら、その瞬間に私は死ぬ。

 役立たずだった花音には消えてもらう。あんなに小心者だなんて思わなかった。美也子も、そろそろおしまいかもね。これまでにも、何人にも消えてもらっている。今度はもっと強くて、美人で、才能のある子を作ろうか。

 確かに、私は、あのクズのような男を殺した。大型キャリ-バックに入れて山林に捨ててやった。でも、それは花音を消すのと同じこと。兄は、私の影に怯えて海外に逃げた。私が生きていく上にあたって、邪魔をするものは、これからも消して行く。

 今度はどこへ行こうか。暖かいところがいいかも。

 隆一さん、あなたは素敵だったわよ。でも、優し過ぎたわね。もう二度と会うことはないでしょうけど。

 じゃあ、「さようなら」





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