私が愛した人は…
シュート
第1話 君との出会い
第一章 出会い
酒を飲み始める父
学校のことを聞いてくる
その答えに怒り出し、それが合図のように毎夜虐待は始まる
真冬の風呂場
髪の毛を引っ張られ、水を張ったバスタブに、顔を思い切りつけられる
かろうじて息ができる程度に
他人には目につかないお尻やお腹を足で蹴り上げられ
悲鳴をあげるたびにその強さは増す
階段の上から落とされ、軽い脳震盪を起こす
口の中に手を入れられ、かき回される
痛みに丸めた背中を容赦なく叩かれ
「ごめんなさい」というと
余計に叩かれる
優しくて、唯一の味方だった兄までが虐待に加わり
ようやく部屋へ戻った私の身体を弄りはじめる
恐怖と、苦痛と、悲しみが
精神を崩壊させる
学校で神様がいると習ったけど
この世に神様はいない
家に帰りたくない
でも、他に帰るところはない
私を残して逝ってしまった母
おかあさん
助けて
平成〇年11月21日午後4時45分頃、山梨県〇〇市の笹の山林の斜面で、近くに住むこの山林の所有者の男性(57)が人骨の入った旅行用の大型キャリ-バックを発見、警察に届け出た。〇〇署によると、遺体はほぼ白骨の状態で、着衣と見られる布なども付着していた。性別、年齢、死因や死亡時期などは不明という。
〇〇署では、死体遺棄事件として捜査を開始。22日以降に司法解剖を行って死因などを調べるとともに、身元の特定を急ぐ。
山梨〇〇新聞
濃い青に染め抜かれた空気の中、うっすらと雲が模様を描いて通り過ぎる。どこまでも高い空の中心から、太陽は何にも遮らずにまっすぐ降り注いでいる。
そんな空をさっきからずっと見上げている一人の女性。彼女にとっては、空だけが自分の味方だった。いつどんな時でも、根気強く生きてこられたのは空のおかげである。
店内に数人いる客のところを回った後、高山隆一の前に立った桜庭花音が、涼やかな表情でタバコに火をつける。
真面目だけが取り柄とみんなに言われる隆一が花音と出会ったのは、忘年会の二次会が花音が働くスナックで行われたからだ。当時、店には三人の女の子がいたが、隆一は一瞬で花音に恋に落ちた。同僚たちからは、水商売の女なんかにアプローチしたって、どうせいいカモにされるだけだからやめろとさんざん忠告を受けたが、それを無視した。
どうしても付き合いたいと何度も店に顔を出したが、その後花音とはなかなか出会えなかった。アルバイトで働いていた彼女が店に出るのは不定期だったからだ。せいぜい週に一日か二日しか店に出ないという。しかも、気まぐれな性格なので、いつ出るかはマスターですらわからないという。
隆一が花音に惹かれたのは、ただ美しかったからではない。一見柔らかな笑顔はもろく危うげで、その裏に底なしの孤独感が隆一には見えたのである。子供の頃に母親を亡くしている隆一は、明る過ぎる女性は苦手であった。花音の放つ寂しげな光は、奇妙な磁気となって隆一を強く惹きつけた。
花音の情報を得ようと、マスタ-に昼間は何をしているのかと聞いても、わからないという。その後、何度か店で出会うようになっても、隆一との会話に発展はなく、一向に前には進まなかった。美人で、25歳にしては妖艶で秘密めいたところがあり、客の中にも花音ファンが多かったことも、その要因だったかもしれない
実際に付き合うことができたのは偶然街中で出会ったことがきっかけだった。その日、隆一は客先での会議が終わり、自社へ戻るため新宿の通りを歩いていたところだった。
真夏の太陽が、白く光るアスファルトに濃い影を落としている。あまりの暑さに、日に照らされたおもての光景は静止しているように見えた。考え事をしながら歩いていた隆一に、ビルから出てきたスーツ姿の一人の女性が近づいてくる。しかし、隆一は知らない女性なので無視する。そして、その女性の前を通り過ぎようとした時、声をかけられた。
「高山さんですよね」
「はい、そうですが」
よく顔を見ると、花音だった。夜の顔しか知らなかった隆一には、それが花音だと気づかなかったのである。
「ああ、花音さんですか。ぜんぜん雰囲気が違うのでわかりませんでした」
「そうですよね。私、昼間のお仕事の時は、お化粧は控えめにしてるから」
化粧だけでなく、髪型も違った。スナックで働いている時は、いつも髪をひっつめにしていたが、今は下げている。その分、若く、幼く見える。
「もしお時間あるようでしたら、お茶でもしません」
隆一が言う前に花音が言った。隆一にしてみれば絶好のチャンスだった。何度スナックに通っても、隆一に関心を示すことすらなかったのだから。
「ぜひ。僕のほうは会議が終わって帰るところですから」
「良かった。私も今もそのビルで打ち合わせが終わって家に帰るだけです」
花音が指さしたビルは大手旅行代理店のビルだった。隆一が時々行く喫茶店が地下にあったので、その店まで一緒に歩く。何か会話をしなくてはと思うが、もともと口数の少ない隆一は何を話せばいいかが浮かばない。
人々の歩く靴音が低く響いている。なぜか、既視感を覚える。
彼女からかすかに漂う香水の香りは隆一にある女性を思い起こさせた。それは、ある日突然何の理由も告げずに同居していたマンションの部屋から消えた女性のことだった。彼女がつけていた香水の香りに似ている。同じような事には二度と会いたくないと思っていたのだが…。
「あっ、ここです」
ようやくたどり着いた。
喫茶店で向かいあって座り、改めて花音の顔を見る。スナックで働いている花音はどこかで人を拒絶しているような底なしの孤独感が伺えたが、目の前にいる花音は清純な明るさと可愛らしさしか見えない。二人ともコーヒーを頼む。
「花音さんもコーヒーが好きですか」
「はい」
話の接ぎ穂が見つからず、とりあえず隆一は水を飲む。
「あの~」
二人同時に話し出した。そのことのおかしさに、二人して笑う。
「高山さん、どうぞ」
「じゃあ、僕から。花音さんは先ほどの旅行会社で働いているんですか?」
「いえ、実は私、フリーのツアーコンダクターをしていまして。今日はあるツアーの打ち合わせがあったんです」
「へー、そうだったんですか」
社員ならわかるが、フリーという点がちょっと意外だった。そういう独立性が高い女性には見えなかったからだ。
「そうは見えないでしょう」
こちらの思いを見透かされたようだ。
「いえ、そんなことはありません。でも、フリーという点はちょっと意外だったかな」
「そうかあ、やっぱりそうですよね。私って頼りなく見えるみたい」
「スナックでは意思が強そうに見えたけど…」
「ああ、それはマスターに隙を見せるなと言われているからです」
店で愛想がないように見えたのは、意識してそうしていたと初めて知る。
「そうだったんですね。そもそもなかなか会えないし、声をかけてもほとんど会話をしてくれないし。マスターに訊いても何も教えてくれないし」
「それもマスターの戦略なんです。敢えて謎多き女になれというのが口癖なんです。そのほうがお客様は何度も来てくれるって…」
「なるほどなあ。僕だけじゃなく、みんなすっかりマスターの戦略にはまっていたわけですね」
「すみません」
「花音さんが謝ることじゃないですよ。店での花音さんを見ていると、僕のことなんかまったく眼中にないように思ってたから、今日花音さんのほうから声をかけていただいて驚いているんです」
「私、高山さんが初めてお店にいらっしゃった時から、ずっと気になっていたんです。だから、マスターにお願いして高山さんの情報を教えてもらっていたんです。実は、今日お会いできたのも偶然ではないんです」
「えっ、どういうことですか?」
「同じ会社の池田さんから事前に聞いていたんです」
「池田?」
すべて理解した。池田は高山の同僚で、一緒に飲むことも多い。当然、花音の働く店にも一緒に出掛けている。そして、先ほどまでの会議にも同席していた。会議終了後、事務所に帰るといった高山に対し、池田は寄るところがあるということで、ビルの出口で別れたのである。あの後、池田は花音に連絡したのだろう。
「ごめんなさい」
そんな手の込んだことをせずに、ストーレートに言ってくれればよかったのにと思いながら、花音がいじらしく思えた。
「いやいや、それも驚いたけど。でも嬉しいですよ。僕も初めてあのお店に行って、花音さんに会った時、一目惚れしたんですから」
「本当ですか?」
「どうせ、池田から聞いているんでしょう」
「はい」
「素直でよろしい。ちなみに池田は好美ちゃんが大好きなことは知っているよね」
「はい。もちろん、それも知っています。好美ちゃんと池田さんはとっくに付き合っています」
「えっ、そうなの。参ったなあ。池田のヤツ、僕には何にも話さないくせに」
「きっと、照れてるんだと思います」
「まあいいか」
「ということで、高山さん、私と付き合ってください。それがさっき私が言いたかったことです」
そう言って、右手を隆一の顔の前に差し出す。握手をすることで、認めてほしいという意味なんだろう。これまで、女性のほうから付き合ってほしいなんて言われたことや、こんなストレートな告白を受けた経験のない隆一は少し戸惑ったが、もともと自分が一目惚れした相手だったので、花音の手を握った。すると、花音は左手を添え、両手で高山の手を包むようにして言った。
「嬉しい」
第二章 花音という女性
もともとお互いに好意を持っていたことがわかり、二人の距離は急速に縮まっていった。毎週のようにデートを重ね、『恋人同士』になり、自然の成り行きとして身体も重ねた。隆一は花音に夜の仕事は止めてくれるようお願いし、花音も了解した。
実際に花音と付き合うようになってみると、花音の印象はまた変わった。わかったことは、感情の起伏が激しいということだ。時に子供のように甘えてくるかと思うと、いきなり不機嫌になって怒り出したりするのである。しかも、一度不機嫌になると、何日もそれが続き、時には連絡すら取れなくなる。何度携帯に電話してもメールしても返事が来なくなる。当初から変わったところのある子だとは思ったが、ここまでとは正直思わなかった。
それでも、花音には他の女性にない魅力があった。澄んだ球状の目はみずみずしく純真な心を写しているようで、見つめられると湖の底に引き込まれてしまいそうな感覚になる。明るさの陰にある危うさが花音から目が離せない理由なのかもしれない。
感傷的で暗い情熱に彩られた恋の高揚感に満たされる。
「もしもし、隆ちゃん?」
声の調子で、今日は機嫌がいいことがわかる。土曜日の午後、隆一は久しぶりの休日を自宅で掃除、洗濯に勤しんでいるところだった。
「ああ、花音ちゃん。どうした?」
確か、今日はツアーの添乗員としてどこかへ行っていると聞いていたような気がするので、思わず『どうした?』と言ってしまったのだ。
「恋人からの電話に、どうした? はないんじゃない」
「ごめん、ごめん。今掃除していたところなんだ」
花音の機嫌を損ねるのを恐れ、はぐらかすような返事をしておく。
「そうかあ。今日土曜日だから隆ちゃんお休みだよね」
「そうだよ」
「だったら、夕方からウチへ来ない?」
「行っていいの?」
これまでも、花音の住むマンションの前までは送って行ったことがあるが、部屋へあがったことはない。隆一が部屋にあがるのを、花音がどことなく嫌がっている雰囲気があったため、何も言わずに帰っていた。一方、花音が隆一の部屋に来たことは何度かあった。
「あれ、隆ちゃん、ウチに来たことなかったっけ?」
「誰かと間違えてるんじゃないの」
嫌な気分だった。あまりに自然な言い方だったのが余計に気になるし、実際に知らぬ男が花音の部屋に入っていく様子が目に浮かび憂鬱になる。
「ごめんなさい。ただの私の勘違いだから、そんなに怒らないで」
「わかったよ」
納得していないが、納得したことにしておく。
「今日は花音が隆ちゃんのために、隆ちゃんの大好きなビーフシチューを作るから来て」
花音は、その派手な見た目からは想像がつかない料理上手だった。隆一の部屋に来た時は必ずなにかしら作ってくれた。そのどの料理も美味しかった。
花音の好きなワインを買ってマンションへ行く。初めてあがる花音の部屋を想像して見る。いかにも女の子の部屋らしく可愛らしく飾った部屋か、逆にモノトーンでまとめたシックな部屋かのどちらかであるような気がしていた。入口で部屋番号を押す。
「はい」
「隆一です」
「どうぞ、入って」
機嫌は悪くなさそうだ。自動扉が目の前で音もなく割れた。こじんまりとしたエントランスの奥にあったエレベータで五階まであがる。角部屋の501号室の前に立つ。自分の恰好を今一度チェックしてからドアホーンを押す。
「は~い」
花音の声がドア越しに聞こえた。しばらくすると、ドアが開き、水玉スリム模様のエプロンを身に着けた花音が現れた。
「いらっしゃい」
「おじゃまします」
花音の後について、リビングへ入る。その瞬間、自分の想像が間違っていたことに気づかされる。落ち着いた色合いの北欧スタイルの、おしゃれな大人女子の部屋だった。
白い空間に明るい色の家具、パステル調のポイントカラーを取り交ぜたおしゃれな北欧インテリア。ラグには幾何学模様が取り入れられているが、ベージュを基調とした色合いなので、奇抜な感じというよりは、落ち着いた雰囲気になっている。クッションカバーもすべて柄や色合いが異なっているが、淡い色調の空間に少しずつ個性を出している感じ。さらに、ミニ机の前に置かれた、からし色の椅子が絶妙なアクセントになっていた。
二人用のダイニングテーブルには、すでにいくつかの料理が置かれているのが見える。
「いい部屋だね。センスがいい」
「ありがとう」
「あっ、これワイン」
「嬉しい」
ワインを受け取ってキッチンへ向かう花音。二人用のダイニングテーブルに置かれていたのは、おつまみと思われる類の料理だった。
「すぐに、用意できるからソファーに座って待ってて」
キッチンから声がする。
「わかった」
隆一は改めて部屋を見渡した。壁一面に書棚がある。隆一は自分が本が好きなこともあり、他人の家に行った時は無意識に書棚の本を見てしまう。本を見ることで、その人がどんなことに関心を持っているかが端的にわかるからである。花音の部屋の書棚を見て、また隆一は花音のことがわからなくなった。
ツアーコンダクターをしているので、旅に関する本が多いのはわかるし、料理好きなので料理に関する本があるのもわかる。また、この部屋のセンスの良さからデザインに興味があるとわかるので、多くのデザイン関連本があるのも納得だ。
しかし、心理学や催眠療法、臨死体験といった医療関連の本も多く見られる。中には解剖学の本まであった。さらには、生物学、植物学に関する本、物理学や宇宙に関する本まである。単に好奇心が強いということなのかもしれないが、花音の思考回路が理解できなくなった。不吉な気配が鎌首をもたげ灰色の影を落とす。嫌な空気を追い払うように、気持ちを切り替える。
「お待たせ。これでとりあえず揃ったから、ワイン開けて」
ワインを注ぎ、乾杯をする。
「このワインおいしい」
「そう、良かった」
料理はどれもおいしかった。特にビーフシチューの味は最高だった。トロトロの牛肉は隆一の舌を唸らせた。食後はリビングに移りコーヒーを飲みながら会話をする。
「なんで今日、隆ちゃんを呼んだか、わかる?」
「えっ、ビーフシチューを作ったからじゃないの」
「もちろん、そうなんだけど、本当のところは、隆ちゃんがこの部屋に相応しいかどうかを確かめたかったの」
「どういうことだろう。僕のことは信用できなかった?」
「そういうこととは違うのよ。あくまでこの部屋に相応しいかっていうこと」
「わかりにくいね」
「私の感覚の問題だから、隆ちゃんにはわからないと思うし、口ではうまく伝えることはできないわ」
「それで、どうだったの」
「うん、仮免というところかな」
「なるほど。じゃあ、ちゃんと免許が取れるよう頑張るよ」
本当は花音の言った『この部屋に相応しい』ということの意味がよくわかっていなかった。
「じゃあ、僕からひとつだけ質問していい?」
「どうぞ」
「あの書棚の本のことなんだけど」
「ん? 本?」
隆一の目線を花音が追う。
「そう。旅に関する本とか、料理に関する本がたくさんあるのはわかるんだけど、医療に関するものや心理学、物理学の本まであるんだね。あれって、みんな関心があるの?」
さすがに、解剖学の本については触れなかった。
「ああ、あれね。特に意味ないよ。なんとはなしに買ってきたものだから」
「えっ、そうなの…」
なんとはなしに、臨死体験の本や解剖学の本を買うものだろうか。だが、花音の顔を見ると、本当に『なんとはなしに』買ってきたという表情をしているので、それ以上は訊かなかった。
この日を境に、花音が隆一の部屋に来るよりも、花音の部屋に隆一を呼びつけることが多くなった。だから改めて聞いたことはないが、どうやら、自分は花音の部屋に上がるための免許を得ることができたのだと勝手に思っていた。 そうした中で隆一は、書棚以外にもうひとつ疑問をもったことがある。
花音は2LDKの部屋に住んでいる。それ自体、若い女の子にしては贅沢だと思うが、隆一が疑問に思ったのはそのことではない。隆一と一緒に過ごす中で、花音が出入りするのは一部屋だけで、もう一部屋には入ったことがない。 あの部屋は誰のための、どんな部屋なのだろうか?。
どちらかと言えば神経質な隆一は、時に細かいことが気になる。気になり出すと深みに嵌ってしまい、とかくなんでも悪いほうに考えてしまう癖があった。 だから、気にはなるが、きっと、単なる思い過ごしだと思うことにした。
第三章 もう一人の花音
それからさらに四か月が過ぎ、二人の関係はそれなりに深まっていた、と思う。
「と思う」というのは、あくまで隆一の中での思いだからで、花音自身の気持ちが読めないからだ。花音は一緒に同じ時間を過ごし、楽しそうにしていても、いつも現実からすとんと抜け落ちた中で生きているようで、心の奥が見えてこないのだ。
この頃から花音の海外出張が増えてきて、なかなか会えなくなっていた。花音の謎は深まるばかりだったけれど、やはり隆一は花音のことが大好きだった。 だから、隆一の頭の中では花音との結婚を意識し始めていた。そこへ向けて進めるためにも、一度ちゃんと花音と話し合いたいと思っていたのだが、それもまだ叶っていない。
季節はじめじめとした梅雨を迎えていた。外出していると、汗が身体にべったりと纏わりついて、気持ちを苛立たせる。公園の噴水から飛び出した水滴のせいで街がにじんで見える。
街行く人たちの無防備な後ろ姿から長い影が落ち、間もなく今日という日が終わる。
隆一が事務所に戻り、残務整理をしている時だった。携帯に花音から電話が入った。慌てて廊下に移り、電話に出る。
「ねえ、隆ちゃん、今日誕生日でしょ。誕生祝い、ウチでしようよ。プレゼントも用意してるよ」
隆一は自分が今日誕生日だったことも忘れていた。しかし、それ以上に驚いたのは、今日花音は海外にいると聞かされていたからだ。花音からの電話はいつも突然のような気がする。
「嬉しいけど。花音ちゃん今日海外じゃなかったっけ」
「一日早く帰ってきた。もちろん、隆ちゃんのために」
「本当か?でも、嬉しい。で、何時頃行けばいい」
「う~んと、7時ごろに来て」
「わかった。何か買っていくものある?」
「何もいらない。手ぶらできて」
「OK」
会えなかったことでもやもやしていたり、イラついていた気持ちも、花音の機嫌のいい一本の電話で吹き飛んでいた。人の声ほど心を癒すものはないと思う。特に花音の甘やかな声は。
自分の机に戻り、帰り支度をしていると、課長の島田に呼ばれる。
「今日予定通りでいいか?」
帰りに以前花音が働いていたスナックに課長を含めた数人で行く約束をしていたのだった。
「すみません課長、今両親から電話があって、急に家に来ることになってしまって」
もっともらしい嘘をつく。
「なんだよ、それ」
「本当にすみません。なんだか重要な話があるとかで」
「まったく、しょうがないなあ」
島田は隆一が花音と付き合っていることを知っている。池田が話してしまったからだ。島田が狙っているマミという子が以前花音と親しかったことから、隆一に口添えをしてほしいと言われていたのである。そんなこと、隆一の手を借りずに自分でやってほしいと思うが、上司であるため邪険にはできなかった。 それにしても、二人が付き合っていることを島田に教えた池田が許せない。
「池田によく言っておきますから」
池田の席に行き、課長のことを伝え部屋を出ようとすると、再び島田に呼ばれる。急いで出たかったが、我慢して島田の元へ近づく。すると、島田は隆一の耳元で囁くように言った。
「あのなあ、池田の彼女から聞いたんだが、お前の付き合っている花音っていう女、訳ありらしいじゃないか」
「どういう意味ですか」
「俺も深くは知らんけど。でも、あの女には気を付けたほうがいいと思うぜ」
「ご忠告ありがとうございます。では失礼します」
気分が悪い。隆一が急にキャンセルしたことが気に入らなかったから、敢えてあんな話を隆一の耳に入れたのに違いない。池田の付き合っている好美と花音とはあまり仲が良くなかったようだから、余計な入れ知恵をした可能性はある。けれど、『訳あり』とはどういう意味だろうか。水商売の同僚にありがちな好美の悪意なのだろうか。今度池田にも文句を言っておこう。
思考が暗いほうに向かい、不快さを増殖させる。
島田のせいで、余計な時間をとられてしまった。不愉快な気分を抱えたまま、急いで電車に乗り、駅からはタクシーを飛ばす。花音のマンションの前に着いた時には約束の7時を少し回っていた。しかし、まだ心の中には先ほどの不愉快な気分が残っていたため、いったん気持ちを落ち着かせるべく深く深呼吸をする。
いつものように、ドアホーンを押す。
「は~い」
花音の声とともにドアが開かれた。その日のエプロンは花柄で、一段と可愛らしい。思わず抱きしめる。
「待って」
といいながらも花音も嬉しそうである。二人でもつれ合いながら部屋の中へ入る。ダイニングテーブルの上に夕食の準備がすでに7分方整っていて、あと少しで完成という感じだった。それに、花音が用意した誕生日ケ-キもテ-ブルに置いてある。
「隆ちゃんは、いつものようにソファ-で待ってて」
そう言って、花音はキッチンへ向う。しかし、その日は久し振りに会えた花音の側にいたかったので、手伝いをすることにした。これまでにも時々そうしたことがある。花音もそれを喜んでくれる。
「俺も手伝うよ」
「ほんと?」
振り向いて、嬉しそうな顔を見せる花音。手伝いとは言っても、隆一に料理ができるわけでもなく、花音の言われたとおりに鍋の中をかき回したり、お皿や出来上がった料理をテ-ブルに運んだりするだけだが、それでも二人で協同作業をしているようで楽しい。その間、仲良く話しをしながら、自分はなんとハッピ-なんだろうと思ったりしていた。
しかし、そんな気分から一瞬のうちに地獄へと突き落とされることになる。一体、何がきっかけなのかわからないが、花音は突然隆一のことを忘れた。一年近くも付き合っていて、しかも今の今まで楽しく会話しをしていたというのに、唐突に、
「あなた誰?」
と真顔で言われたのである。花音とは明らかに違う声が、ぴしゃりと部屋に響いた。音も匂いも失った風景が隆一の前に広がっている。あまりの衝撃に、隆一は何が起きたのかまったく理解できていない。たくさんの言葉を空気とともに飲み込む。隆一が言葉を形にできたのは、しばらく経ってからだった。
「隆一だよ、隆一。何を言ってるの」
そう言うのが精一杯だった。最初は花音が悪ふざけをしているのかと思った。しかし、その女性は続けてこう言った。
「何故、あなたここにいるの?」
硬く、尖った声だった。
そう言う彼女の顔は花音ではなかった。不思議なことに、その瞬間、それは花音ではなく明らかに全く別の女性であると、隆一にもわかった。単なる表情の違いとはまったく異なるのだ。決して言葉では説明できないのだが、違うことだけははっきりわかった。全く同じ姿をしているものの、そこに今の今まで話しをしていた花音はいなかった。
「何故って言われても。今日は僕の誕生日で、それを花音が祝ってくれるというので…」
「だから、花音って誰?」
そう言って、その女性はテ-ブルのほうを見る。
「そのケ-キはあなたが持ってきたわけ」
テ-ブルの上の花音が用意してくれた誕生日ケ-キを指して言う。
「いや、だから花音が…」
「あなた、他の誰かと間違えていない?」
事態が呑み込めない隆一はどう言っていいかわからない。まるで、不法侵入者のような扱いを受けている。隆一のほうこそ、何故という言葉を投げかけたかった。が、その女性はぼおっと立っている隆一に、マシンガンのように質問を浴びせてくる。あなたはいつここに来たのか、何をしにきたのか、鍵はどうしたのか、なんで自分の知らないあなたが私の料理の手伝いをしようとしていたのか等々。
隆一は、自分自身のことや花音のことを話し、さらに、これまでの二人の付き合いのことを話して思い出してもらおうとするが、まったく話しを聞き入れてくれない。それどころか、これ以上いると不法侵入者として警察に突き出すとまで言われ、隆一は止む無く帰ることにした。
自宅に戻った隆一は、しばらくして花音に電話してみることにした。つい先ほど自分の身に何が起きたのかを確認したかったのだ。しかし、なかなか出ない。切ろうと思った時に、花音の声が聞こえた。
「はい」
いかにも機嫌の悪い声だった。そして、次に彼女が言った言葉に衝撃を受けた。
「なぜ、今日来てくれなかったの? 料理とケーキを用意していたのに」
どういうことだ。隆一の頭の中は混乱するばかりだった。
「ちゃんと行ったじゃないか」
「なぜ、そんな嘘言うの? 来れないなら来れないって言ってよね」
そういうと、電話は切られた。
自分がおかしいのか、花音がおかしいのか。
見慣れたはずの自分の部屋が歪んで見える。白い布に落としたインクのように、不安が心の中に広がる。
さっきから隆一は夜の底で、部屋に差し込んだ月光が作った自分の影を見ながら、ただじっとしている。何かを絶え間なく分泌し続ける音が隆一の中で聞こえる。脳味噌の中を走っているか細い神経が一斉に痙攣を起こし、激しい目眩に襲われる。
第四章 美也子の抱えているもの
翌日から隆一は、自分の捉えた不安、混沌とした精神の澱のようなものの正体をつかむために動き出した。まったく思い当たる節がないわけでもなかった。まず、隆一は好美に会って確かめたいことがあった。
久しぶりに店に顔を出すと、さっそく、好美が隆一のところへきた。
「今日は一人?」
「ああ、そうだよ」
「珍しいわね」
「たまには一人で飲みたいものさ」
「ふ~ん、怪しいものね。何か魂胆があるんじゃないの?」
こちらが仕掛ける前に、好美のほうから鎌をかけてきたので、乗ることにする。
「わかっちゃった。実は魂胆あるんだ」
「やっぱりね。で、何なの?」
「悪い、ちょっと耳を貸して」
何事かと、怪訝な顔をしながら片耳を隆一に近づける好美に隆一は囁いた。
「これを見ておいて」
用意してあったメモを差し出す。好美は無言でそれを受け取った。そこには『昼間に二人で会ってほしい。ただし、池田には内緒にしてほしい』という内容と、隆一の携帯番号とメールアドレスを記しておいた。好美がどういう意味にとらえたかはわからないが、彼女が自分に好意を持っていることを花音から聞いていたので、きっと連絡が入ると踏んでいた。
案の定、好美は翌日の昼休み時間に電話をかけてきた。ちょうど、昼食を食べ終え店を出たところだった。
「もしもし、好美ですけど」
「ああ、どうも。昨日はお世話になりました」
周りに池田もいたので、差しさわりのない返事をしておく。
「あっ、側に誰かいるのね」
「まあそうです」
「わかった。じゃあ連絡事項だけ言うね。昨日のメモのことだけど、OKだから、
高山さんの都合のいい日時を私の携帯の留守電に入れておいてくれない」
「わかりました」
それから二日後の午後二時、二人は青山の喫茶店で向かい合って座っていた。「どういう風の吹き回し? しかも池田ちゃんに内緒って。もしかして好美が池田ちゃんと付き合っているのを妬いている」
「ごめん。そういうことじゃないんだ」
好美の落胆したような表情に気づき、自分のしたことの罪深さを思う。確かにあの文面からは勘違いしてもしょうがない。自分が悪いのだ。
「じゃあ何なのよ。わざわざ昼間に呼び出しておいて」
明らかに怒っている。
「ちゃんと埋め合わせはするから堪忍して。実は花音のことなんだ」
「花音のこと?」
「そう。実は訊きにくいことなんだけど。好美ちゃんが花音のことを訳ありな女と言ったと島田さんから聞いたんだ。誤解しないでほしいのは、それを責めるつもりで今日ここに来たんじゃないんだ。ただ、その言葉の意味を教えてほしいんだ」
「島田さんって、私嫌いなのよね。私、そんなこと言ってない。本当のこと言うとね。もう一年くらい前に表参道で買い物してた時に、偶然花音を見かけたのよ。それで、声かけたんだけど、無視されたの」
「そんなことがあったのか」
「そう。それでね。その日店に出勤してきた花音にそのことを言ってやったの。ところが、花音は全然覚えてないって言うのよ。それで、何度も何度も謝るから、もういいって言ったわけ。そういうことがあったから、島田さんにあの子は少し変わっているって言ったことはある。でも、それだけ。その後も花音とは特別仲が悪かったわけじゃないし」
「そうか、ありがとう。へんなこと訊いちゃって、本当にごめん。今度必ず埋め合わせするから許して」
「それはいいけど。へんな期待して来た私も悪いのよね。でも、花音に何かあったの。大丈夫?」
「うん、さっき好美ちゃんが言ったように、花音って少し変わったところあるじゃない。だから、つい余計な心配しちゃうのかもしれない」
「それならいいけど。いずれ結婚とか考えてるの?」
「うん、まあね」
「羨ましい」
「好美ちゃんだって、池田がいるじゃないか」
「どうかな。私、池田ちゃんとは結婚しないと思う」
「そうか」
そうとしか言いようがなかった。
好美の話を聞いて、隆二はすでに自分の頭に浮かんでいたある言葉が現実味を帯びていることに気づいていた。それは、『二重人格』あるいは『多重人格』という言葉であった。これまでにも、そうした人を描いた映画や小説を読んだ記憶がある。それに、今回自分が経験したことや今日好美から聞いた話を合せると、その言葉に行きついてしまう。ただ、もしそうだとしても、素人の自分にはどうしたらいいかわからない。
幸いなことに高校時代の同級生の一人が医者になっていることを思い出した。久しく会っていなかったが、彼を頼ることにした。
友達とはありがたいもので、彼はさっそく会って相談に乗ってくれた。ただ、彼自身は内科医で専門外の内容なので専門の精神科医を紹介してくれることになり、その先生の予約をとってもらうことにした。だが、その先生は忙しい方のようで、一か月先の予約しかとれないという。それまでの間は、こういう本を読んでおくようにと友人から言われたので、とりあえずはそれを読んでいた。専門医に会うまでに事態が動かないことを願ったが、世の中思い通りにはならないものらしい。
一週間後に、再びその女は現れた。今回は花音の部屋で寛いでいた時だった。だが、隆一もすでに何冊かの本を読んでいてそれなりの知識を持っていたので、今回は冷静でいられた。憤る彼女を宥めて、改めて自分の紹介をした後、彼女のことを聞いて見る。少し躊躇った後、彼女は口を開いた。
「私の名前は、田中美也子。年齢は27歳。仕事はフリーのグラフィックデザイナ-」
田中美也子と名乗る女性は、少し怒ったように言った。年齢は27歳というから花音より2つ上ということになる。隆一が本で読んで知ったように、同一人物でありながら、年齢も職業も違う。性格は最初に会ったときから、花音とは正反対であることがわかっていた。子供っぽくて甘えん坊で、いつも何か不安げな花音に対して、美也子と名乗る女性はまっすぐ前を向いた、意思の強そうな、しっかりとした大人の女性に見えた。見た目も、花音の目は少し垂れ気味で、それが優しい感じを与えているのに対し、美也子のほうは逆に少し釣りあがって見える。しかし、それだけではなかった。言葉遣いも、仕草も花音とはまったく異なっていた。
「田中、美也子さんですか。これからは美也子さんと呼んでいいですか」
美也子は、無言で頷いた。
「美也子さんは、グラフィックデザイナ-なんですね」
さらに訊こうとする隆一に、冷たい視線を投げる美也子。
「そんなことより、私がまたここにいる理由を話せ、ということですよね」
「そうに決まっているじゃない。知らない男が2度も勝手に私の部屋にあがり込んでいるのだから」
「そうですよね。でも、私は勝手にあがりこんでいるわけではありません。この間も言いましたように、私はこの部屋に住んでいる桜庭花音さんという女性とお付き合いをしていて、今日も彼女に来てほしいと言われて来ているのです」
「ここは私の部屋よ。花音なんて人、私は知らない。いったい誰?」
この後、隆一がとった対応が良かったのかどうかは、未だにわからない。まだ専門医に会えていなかったのにも関わらず、隆一は本で得た知識でわかったつもりになっていた。そのため、結果を急ぎ過ぎた。
「ですから、今回はちゃんと説明しますので聞いてください」
「わかったわ。説明して」
「美也子さんは、解離性同一性障害という言葉を聞いたことがありますか」
「知らない」
「そうですか。では、多重人格という言葉は?」
「それなら聞いたことがあるけど。で、それが…」
「非常に言いにくいのですけど、美也子さんと花音はその多重人格、病名で言えば解離性同一性障害という心の病に罹っていると考えられます」
「私が?」
「あなたが、というより、あなたと花音がといったほうがいいかもしれません。違う言い方をしましょうか。あなたと花音は同一人物です」
「何を言っているの。私は桜庭花音でもないし、そんな女なんて知らないって言ってるでしょう」
眉の間に深いしわを刻み、瞳で深呼吸するようにゆっくりと目を見開き、強い言葉で言った。
「ごめんなさい。いきなり核心にふれてしまった私が悪いです。容易に信じられないのは無理もありません」
明らかに動揺している美也子を見て、隆一は続けた。
「私は医者ではありません。ですが、医者の友人から確認しました」
嘘をついた。そんなつもりはなかったが、そう言わざるを得ない状況に自分で自分と美也子を追い込んでしまったのだ。この段階で二人が、いや二つ『人格』が解離性同一性障害に罹っているという確証を持っているわけでもなかった。でも、自分の言葉に信憑性を持たせるために、嘘は必要だった。
「あなたの言うことなんか信用できない」
そういう美也子の目の中は、水底のようにゆらゆらと揺れている。
「そうですよね。では、話しを変えましょう。美也子さん、あなたのこれまでの人生の中で、自分の中にもう1人の自分がいると思ったことはありませんか」
美也子の表情の中にあからさまな戸惑いのようなものが伺える。
「そういうことは誰にでもあるでしょう」
そうは言っているが、美也子の中には思い当たる節があるように見えた。彼女は気付いてると、そのとき隆一は確信した。自分の中にもう1人の自分がいることを。それが、花音という名前であるかどうかは別にして。
「そうですね。確かに私にもそういう経験はあります。ただ、それはほんの一時です。それに対して、あなたにとってのもう1人はずっとあなたの側にいて、しかもあなたにとって、とても大事な存在のはずです」
美也子は黙ってしまった。黙ったということは、それを認めたということを意味する。やはり、美也子はもう1人の自分の存在に気付いていた。
しばらくして、美也子は自分の中に生き続けるもう一人の自分の姿について、空洞のような無表情さで静かに話し始めた。それは、想像を絶するおぞましい光景だった。
蛍光灯がのっぺり白い光で部屋を照らしている。
花音の、いや美也子の脱ぎ捨てたエプロンが影みたいに落ちた。
部屋がどんどん縮んでいくようだ。
自分が小さかったとき、自分とよく似た女の子が毎夜、酒を浴びた父親に激しい虐待を受けていた。母親はすでに亡くなっていた。怖い~、痛い~、助けて~と泣き叫ぶその子を父親は無言で叩き続けた。時には、階段から突き落としたこともある。その子には、5つ年上のお兄ちゃんがいた。お兄ちゃんは、いつもその子に被いかぶさるようにして、父親の暴力からその子を守るようにしていた。しかし、父親は強い力で二人を引き離し、二人に対して虐待を続けた。父親が疲れて自分の部屋へと戻った後、お兄ちゃんは泣き続けるその子を抱きしめていた。その子にとっては、お兄ちゃんだけが味方だった。お兄ちゃんがいる限り、耐えることができた。しかし、ある日、そのお兄ちゃんが、その子の身体を弄んでしまった。その時から、その子にとって世界で味方は誰一人いなくなってしまった。毎日毎日、父親の暴力とお兄ちゃんの性的虐待を受け続けたその子が、鏡に写った私に助けを求めてきた。その子に良く似た私が、その子に代わって父親とお兄ちゃんの虐待のすべてを受けることになった。とてもそれは辛かったけれど、その子を守るために耐え続けた。そして、それは、中学2年の時まで続いた。
美也子は涙ひとつ流さず、淡々と話した。だが、虐待の内容について語る時だけ顔を歪めた。美也子にとっても、それは心の底に降り積もった辛い記憶であり無残な思い出なのであろう。
ほんとうの悲しみとは灰のように乾いて重さのないものなのかもしれない。
解離性同一性障害となる人のほとんどが、幼児期から児童期に強い精神的ストレス(たとえば、心理的虐待、身体的虐待、性的虐待やネグレクトなど)を受けているとされる。花音、美也子の場合も同様であることがわかった。
「それで、その子は?」
「その子が大きくなって、父親と兄からの虐待がなくなると同時に、その子はいなくなっていたわ」
その時、花音と美也子は全く別の「人格」に分かれたのだろう。美也子の性格がきついのは、辛いことだけを受けてきたからであり、その分精神的にはとても強いが、一方で考え方に曲がった部分も見られ、接しにくい女性であった。しかし、花音を守ってきてくれたのだと思うと嫌いになることはできなかった。きつい口調の中に、たまに優しさが垣間見えることもあるし。
第五章 隆一の苦悩
自分のとった行動が正しかったのかどうかはわからなかったが、もう後には戻れなかった。それからというもの、美也子はたびたび隆一の前に現れた。何がきっかけで、あるいは、どういう原因で花音から美也子に変わるのか、隆一にはわからない。しかも、花音と付き合ってきて、それまで一度も現れたことがなかったのに、ここへきてたびたび現れるようになった理由もわからない。隆一にはわからないことだらけだ。
いずれにしても、突然現れるので、その都度驚かされる。しかし、その回数が増えてくると、ひょっとしたら今日も美也子に変わるかもしれないという心の準備ができるようになっていた。何度も会う中でさらに驚いたのは、吸っている煙草の銘柄も違ったし、文字の特徴や絵(図)の描き方まで違うのである。 同じ人間のはずなのに違う人格を持つ人と接するという異常事態にも、不思議なことに慣れてしまう。どんな状況、環境にも慣れてしまうという人間の対応能力に驚く。でもそれは、美也子のほうも同じようで、隆一を見ても今は驚いた素振りを見せなくなっていた。
ただ美也子からすれば、隆一は自分の部屋に勝手にあがりこんでいる男という意味では変わらないため、毎回、なぜここにいるのかという質問はされる。それに対して隆一もその都度、花音からの依頼で来ていると説明する。それを美也子が不承不承認めるという、ある種儀式のようなことが行われる。それが終わらないことには先に進めない。
今日もそうだった。食後に花音とコーヒーを飲んでいる時に美也子が現れた。そのコーヒーをちらっと見て、美也子が言った。
「今日は何しに来たわけ」
声にトゲのようなものが伺える。
「花音から大事な話があるからと言われて来たんです」
「それで話は終わったの?」
「いや」
「その前に私が現れてしまったというわけね。ごめんなさいね」
美也子の怜悧な顔に、ぬめりとした翳りが宿っている。
「いえ、あなたのせいではないと思うので」
「それならいいけど。でも、そんなに花音のことが好きなの?」
美也子の感情がうごめいているのがわかる。
「好きですね」
「はっきり言うわね。どこに惹かれたの?」
隆一の眼の中を覗き込むような視線には、暗い渦のような冷たさとかすかな酷薄さが伺える。でも、その裏側に嫉妬のようなものを感じてしまったのは隆一の気のせいなのだろうか。
「そうですね。見た目は派手だけど、中身は繊細で女性らしくて優しいし、性格は子供っぽいところもあるけど、すごく可愛らしいし、彼女の笑顔を見ているだけですごく癒されるし、幸せになれるんです。全部好きです」
二人のなりそめから現在に至るまでの関係については、すでに何度も話していたが、花音のどこに惹かれたのかということは初めて訊かれた。
「なんか敵わないなあ」
あらゆる感情を封じ込めたような言い方だった。美也子はどういう意味で、この言葉を使ったのだろう。そもそも隆一には美也子が花音のことを『他人』としてちゃんと認識しているのか計りかねるのだ。
「今度は僕が質問していい?」
美也子について今現在わかっていることは、田中美也子という名前を持ち、フリーのグラフィックデザイナーとして仕事をしているということだけだった。ただし、それも本人が言っているだけで、事実かどうかは定かではない。
「どうぞ」
特に構えた様子もなくそう言った。
「あの書棚の中にあるデザイン関係の本は、美也子さんのものですよね」
隆一が書棚の本のことを訊いたのは、そこから花音の、いや花音と美也子の抱えている病巣の原因が読み取れるような気がしているからだ。
「ええ、そうですけど、何か?」
「グラフィックデザインの仕事ってどんな仕事なのかなと思って。どこかの会社と契約をしているのものなのですか? 私は門外漢なので」
「そうですねえ、いろいろな仕事がありますけど、私はポスターや商品カタログの制作に関わる仕事が多いですかね。それから専属契約をしている会社はないけれど、いくつかの会社とは契約関係にあります。あっ、ここに一例があるから見ます?」
サイドボードをさす美也子の華奢な指。花音の指もこんな華奢だっただろうか。中から出てきたのはある企業の商品カタログであった。どうやら、田中美也子という人格はグラフィックデザイナーとして実際に仕事をしているようだ。
「ところで、あの書棚にはデザイン関係の本以外に、ツアーコンダクターに関連するものや生物学や心理学、解剖学の本もあるじゃないですか」
美也子も隆一の指さした方を見ている。
「あれも美也子さんが買ってきたんですか?」
「いえ、あれは以前同居していたルームメイトたちの本です」
「ルームメイト?」
「そうです。一時期、私も含め二人とか三人で一緒に住んでいたことがありました。あの本は、彼女たちがここを引っ越す時に残していったものです」
表情のない顔で淡々と話す美也子を見ながら、その予め用意されたような答えに、一層疑念を感じていた。かつて同じことを花音に訊いた時、花音は「なんとはなしに」買ったと言っていた。なんとも不可解な曖昧さが残った。
「なるほど、そうだったんですね。すみません、もうひとつだけ訊いていいですか?」
「いいけど、あまりプライベートなことは訊いてほしくないわね。だって、私にとってあなたは、まだまだ見知らぬ男性に過ぎないのだから」
美也子は『見知らぬ男性』というところを強めに言った。しかし、本当はそうは思っていないのではないか。驚くほどの短期間に、二人はお互いのことをわかってしまっている。
「そうですね。それを承知の上で、どうしても訊きたいことがあるんです。それは花音のためであり、ひいてはあなたのためでもあります」
「よく意味がわかりません。ですから、質問の内容によって答えるかどうかを私に決めさせてください。それでいいなら、どうぞ」
「わかりました。ではこれから質問させていただきます。もし答えたくなかったら答えなくて結構です。あちらの部屋はあなたの部屋ですか?」
花音が入るのを見たことのない部屋をさして訊く。
「もちろん、そうよ」
「じゃあ、こちらの部屋は?」
今度はいつも花音が使っている部屋をさす。美也子の目が一瞬揺れたのを隆一は見逃さなかった。だが、美也子はすぐに表情を戻して言った。
「私が借りているのだから、両部屋とも私の部屋に決まってるじゃないの」
「そうですよね。失礼しました」
隆一は、先日友人の紹介で会った精神科の医者の言葉を思い出した。全くの別人に思える花音と美也子だが、あくまでも一人の人間の『部分』なのだと医者は言ったのだ。言葉の意味はもちろんわかるが、現実に花音と美也子に接している隆一には、まだその言葉の意味を十分理解できないでいる。というか、納得できてない。
美也子に解離性同一性障害であることを告げてしまった二週間後にようやく精神科医と会えたのである。医者は美也子に告げてしまったことは決していい行動ではなかったと言った上で、もう告げてしまった以上、後には戻れないので彼女を診察に寄越すよう指示した。だが、同時に言われたのは、『いいお医者さんがいるよ』などと言うのは、異常者扱いをされたと受け取られ、その人に絶望感を与えることになりかねないから止めるようにということだった。
だから、まずは話をちゃんと聴いてあげる。気持ちを受け止める。愛情・友情を持って接することだと。そのこと自体が治療であると言うのである。『彼女にとって、あなたが安心していられる場所となってあげることを心がけるように』という忠告も受けた。その上で、少し落ち着い段階で診察を受けに来るるようにとのことだった。
「さっきからいったい何を考えているんですか?」
美也子の声に我に返る。
「ちょっと考え事をしてしまいました」
「それは勝手だけど。ここは私の部屋です。この後、何か話し合うことがあるのならまだここに居てもいいですけど、なければお帰りいただくとありがたいんですけど」
そう言われて時計を見ると、午後10時を過ぎていた。
「ああ、なるほど。そうですよね。本当はもう少しお話を訊きたかったんですけど、今日はもう遅いので失礼します。ただ、ひとつ美也子さんにお願いがあります。
「何ですか」
「いつも、僕が勝手に来てしまってようになっているので、一度美也子さんの都合の良い日時をご連絡いただけませんか。その時に改めて伺ってお話をお訊きしたり、また私からお話をさせていただきたいのですが」
「いいですよ」
「ここに名刺を置いていきます。裏には、私個人の携帯番号とアドレスを書いておきました。ではよろしくお願いいたします」
そう言って、その日は部屋を出た。隆一にはもう少し時間が必要だった。花音はともかく、美也子に対しては、医者の言う『安心していられる場所』にはまだ全然なり得ていないからである。美也子とはもっともっとコミニュケーションを取る必要があった。いずれ医者の元へ連れて行く場合には、花音ではなく美也子のほうだと決めていた。なぜなら、花音は精神的に不安定なところがあり、不用意にそのことを告げるとパニックを起こしかねない。その点、美也子は比較的冷静に物事を判断できると思われるからである。
美也子と会う(というか美也子が出現する)機会が増えるということは、必然的に花音と会う機会が減ることを意味する。隆一はしばらく会えていない花音に純粋に会いたいと思った。だが、一向に花音からは連絡がない。こちらから電話やメールをしているのだが、やはりつながらない。その後、美也子からもなかなか連絡がなかった。
それでも日々はカーテンの開け閉めのように過ぎていく。季節はいつの間にか初秋の冷たい空気を運びこんでいた。木々の葉はさまざまな色のまま枯れていこうとしているように見える。
そんな中、隆一は未来への漠然とした不安を抱えたまま、気持ちの中のざらざらしたひび割れみたいな部分から目を背け仕事に没頭した。精力的に仕事をこなすことで、いくらか淋しさを紛らわせることができたが、やはり、心にぽっかりと穴が空いたようだった。そんな時、美也子から電話が入った。
「先日の件ですけど、来週の火曜日の夜でしたら時間がとれます」
「そうですか。ありがとうございます。では、何時ごろお伺いすればよろしいですか」
「そうですね。午後八時ではいかがです」
「結構です」
「夕食は済ませてから来てくださいね。私、誰かと違って料理得意じゃないんで」
いちいち花音との違いを匂わせてくるところに、美也子の剥き出しの感情が出てしまっている。
「はい、わかりました。では、その時に」
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