第96話 閑話 長岡愛哩4

 幼少の頃から、私は身に余る愛情を両親に注いでもらっていた。


 懐かしさに胸が暖かくなり、締め付けられる。


 ──直感で理解した。これは明晰夢だ。夢を夢と自覚する、現実と過去の狭間。


 四歳になったばかりの私は、計算ドリルを解いては嬉しそうにお父さんとお母さんに見せていた。


「みて! わたしひきざんできるの!」

「愛哩は賢いなぁ。よしよし」

「んふふー!」


 頭を撫でられて満足気にはにかむ。お母さんはそんな私とお父さんを眺めながら微笑ましそうに目を細める。


 割と裕福な家庭で何不自由無く暮らしている私は、裕福な家庭らしく幼稚園受験という、いわゆるお受験を受けるために勉強を頑張っていた。


 その頃の私に知る由は無かったけど、お父さんの家系は代々有名な大学に進学していて、今後名の知れた大学に入学させるためにまずは幼稚園受験からという教育方針があったらしい。


 お父さんとお母さんも大学で出会ってからそのまま結婚したと聞く。曰く素晴らしい環境には素晴らしい出会いが待っているとのことだ。


 だけどそれは、お父さんの考えじゃなくて。


「愛哩。何してるんだい、遊んでないで早く勉強しな。忠勝ただかつもあんまり愛哩を甘やかしてると将来ろくな大人に育たないよ」


 齢七十は超えているであろう女性は、年齢に似合わずピンと背筋を伸ばしてお父さんを一喝する。


 私の父方のおばあちゃん。私が中学生に上がる頃には亡くなってしまったけど、確実に私のパーソナリティーを形成したうちの一人だ。


「……わかった」

「わかったじゃなくてわかりました。そんな言葉遣いで面接が通るとは思わないことね」

「……わかりました」


 私は俯きながらも言われた通りに従うと、気が済んだのかおばあちゃんはリビングを後にする。


 怒られたことに落ち込んだ私は暫く鉛筆を動かせない。ぎゅっと唇を噛みながら、だけど悪いのは自分だと言い聞かせる。


 ふわっと私の小さな手が暖かい手に包まれる。


 見上げると、そこには困り眉で笑顔を作るお母さんが私の手を握ってくれていた。


「おばあちゃんは厳しいけど、全部愛哩のことを思ってのことなんだからね。辛いかもしれないけど一緒に頑張ろう?」

「……うん」


 甘えるようにお母さんにピタリと寄り添う。そうするといつも優しく頭を撫でてくれるから、私は何か悲しいことがあるといつもこうしてた。


「ごめんな、愛哩。おばあちゃんも別に愛哩を嫌ってるわけじゃないんだ。おばあちゃんにはお父さんから言っておくよ」


 一人っ子の私は二人の愛情を一身に注いでもらう。子どもの頃の私はまるでそれが当然だと言わんばかりに、おばあちゃんを仮想敵として家族一丸で頑張る構図を思い浮かべていた。


 でもそう思うのは当然の話。何故ならいつも、この後お父さんは絶対に口にする言葉がある。


「いつだってお父さん達は愛哩を守るからな」


 小さな私は二人に守られながら過ごす。顔を合わせる度に小言を言われ、時には怒られたりもしたけど、私はそうやって愛されながら日々を過ごしていた。




 そんな生活が続いたのも束の間。小さな私に転機が訪れる。


 幼稚園受験の合格発表日。私は両親と共に郵送されてきた封筒を目の前に緊張の面持ちで封を開けていた。


「お父さんお父さん! どうだった?」


 無邪気に訊ねる私にお父さんは口を一文字に結ぶ。何かを察したお母さんはそっと私の肩に手を置いた。


「……合格では、なかったね」

「それって……」

「……落ちてた、けど。お父さん達は愛哩が頑張っていたのは知ってるからね」


 何とも言えない複雑な表情で、それでもお父さんは私を抱きしめてくれた。


 普段頼れるお父さんが肩を小さく震わせていたのは、高校生になった今でも克明に覚えている。


「そっか」


 その場では実感が湧かなかった私はまるで他人事のように呟く。


 落ちたことは悲しいはずなんだけど、いまいち実感が湧かない。


 そしてその日の夜。遠くから聞こえた怒声で私は目が覚めた。


「なに……?」


 声がするのはリビング。何を話してるのかな、なんてその時は考えもせずリビングのドアの向こうからこっそり覗きに行った。


「わたしのはなし……?」


 テーブルで向かい合っていたのはお父さんとお母さん、そして対面にはおばあちゃんが座っていた。


 何だろう。また怒られるのかな。ドキッとしたのを覚えてる。


「だから言ったわよね! あんな教育の仕方じゃ愛哩は育たないって!」


 声を荒らげているのはおばあちゃん。


 ……やっぱり今日の話。二人がおばあちゃんに怒られているのを見て初めて落ちたことへの実感が湧いた。


「ごめんお袋。でも愛哩には人の心がわかる優しい子に育って欲しくてさ……」

「それが甘いって言ってるのよ! ……本当にもう、誰に似たのかしら……」


 イラつきを隠そうともせず二人に当たる。悪いのは私なのに、当の私にはその激高をぶつけない。


 こんなに心が痛いのは初めてだ。私が怒られるのは嫌だけど、私のせいでお父さんとお母さんが怒られるのはもっと嫌。


 きぃ、とドアを開けかけたその時。おばあちゃんは一際大きい声で二人を怒鳴りつける。




「第一人の心がわかる優しい子なら受験に落ちたりしないでしょう! あの子はそもそも人の心がわからないから簡単に人の期待を裏切るのよ!!!」



 ……そう。この時に初めて人の心について考え出したんだ。


 誰が何を考えているか。思っていることをその通りにすればお父さんとお母さんは怒られない。


 “長岡愛哩”としての人生が始まったのは、間違いなくここからだ。


「……お袋」


 お父さんは消え入るような声で呟く。罪悪感を感じさせてしまったことが何よりも申し訳ない。初めての感情の連続で、私はどうにかなってしまいそうだった。


 だけど、お父さんとお母さんなら。どんな時でも味方をしてくれた二人なら。


 私がこんな気持ちになっていたら、絶対に助けてくれる。


 助けて──




「確かに愛哩はまだ人の心がわからないかもしれない」

「そこは私達の責任です。本当に申し訳ございません」




 ……え?


 お父さんとお母さんは、二人だけは味方じゃなかったの?


「言ったでしょう。ああいう子は強くしつける必要があるって」

「お袋の言う通り……かもしれないな……」

「でしょう。私も後どれくらい生きられるかわからないんだから、私が手を出せるうちにあの子は他所の誰に出しても恥ずかしくない長岡家の子に育てなければいけないのよ」

「お義母さんの仰る通りです……」


 ドアの隙間から覗いた二人の顔は何かを噛み締めるような、でもその頃の私にはそれがどんな感情を表しているかわからず。


 ただ私の唯一無二の味方は、『いつだって守る』なんて嘘をついていたと理解してしまった。


「……っ!」


 反射的に駆け出し、靴も履かないまま家を飛び出す。少し開けていたドアが閉まる音と遅れて鳴った玄関のドアが開く音を聞き、両親とおばあちゃんは事態をすぐに理解した、んだと思う。


 明らかに子どもが出歩いて良い時間ではない。教えられたことは脳裏にこびりついている。


 だけどその時だけは、胸に浮かんだ悲しさが幼い私をつき動かしていた。




◇◇◇




 電灯が照らす公園のベンチで、私は遠くからトラックが道路を走る音を聞いていた。


 もう家を出てからどれくらい経っただろう。幼稚園児にも満たない子どもの時間感覚なんて当てにならないだろうけど、今まで体験したどの退屈な時間よりも長く感じた。


 ……このまま迎えに来てくれなかったらどうしよう。一生独りのままなのかな。もうお父さんとお母さんには会えないのかな。先の見えない不安が小さな身体を蝕む。


「愛哩!!!」


 あと少しで泣き出してしまいそうな頃、汗まみれになったお父さんが私を見つけた。お父さんは肩で息をしながら携帯電話でお母さんに居場所を伝え、直後頭をばっと下げた。


「ごめん愛哩! あれは本当に思ってるわけじゃないんだ!」

「……本当に思ってるわけじゃない?」

「ああそうだ! こういうことを教えるのは早いとは思うけど、おばあちゃんは違うって言われると余計に怒ってしまうんだ。だから同調したというか」

「嘘、ってこと?」


 泣き出しもせず純粋に疑問をぶつける。普段は嘘はいけないと教えている手前、黙り込んでしまうのには充分な問い掛けだった。


 親子間ではおよそ流れない奇妙な時間も少し、遅れてお母さんも駆けつけた。私を見るなり勢い良く抱きしめてくる。


「愛哩……っ! ごめん、本当にごめんね……!」

「何で謝るの?」

「何でって、そんなの愛哩を傷付けちゃったから! お母さんもお父さんも、本当はあんなこと思ってないんだからね……!」

「お母さんも嘘をついていたってこと?」


 抱きしめられているから表情はわからないはずなのに、明らかに固まったのがわかった。


 これは聞いちゃダメだったんだ。守ってくれなかった悲しさなんてとうに忘れ、四歳が考えるには不相応な思考が頭を駆け巡る。


「ねえ、わたしもうかなしくないよ。わかってくれてる?」

「……無理しなくて良いんだ。お父さんとお母さんが悪かったから」

「ちがうよ。ほんとうにかなしくない」

「良いのよ愛哩。そうやってお母さん達を励まそうとしてくれなくて。あなたはちゃんと誰かの心をわかってあげられる良い子なんだから……」


 違うのに。本当に悲しくなんてないのに。私の心をわかってくれないなら、むしろ心がわからないのは二人じゃん。


 そこである疑問が頭に浮かぶ。




 ──この二人は一体何を考えているのかな?




 家を飛び出した私を心底気遣う様子


 お母さんは抱きしめてくれてるからまずは顔の見えるお父さん。


 最初に注目したのは汗で身体に張り付いた服。パジャマのまま飛び出してるってことは、外に行く用の服を着てないことをどう思われても良いってことだよね。


 それよりも優先することがある。


 次に見たのは目。いつも私を含めた三人で楽しく過ごしている時の細めた目とは対照的に、普段よりも大きく目を見開いている。荒い呼吸で揺れた瞳を真っ直ぐ私に向けていた。


 私から目を離せなくなった理由がある。


 そして私を心配する声音。言葉尻が震えていた。急に黙ってお父さんを観察する私に向かって愛哩と呼びかけるけど、その声も震えてる。


 何かに怖がっているから震える。


 もっとお父さんを見たら何かがわかる気がする。何か別のことが起きたら、わかる情報が増える。


「おばあちゃんは?」


 この場に居らず電話している時の言葉でも出てこなかったおばあちゃんの存在を訊ねる。


 変化があったのは視線。私から何も無い斜め下へと向けた。


 それと眉。一瞬だったけどピクリと反応したのを見逃さなかった。


 あと唇の筋肉。開きかけた口を固く閉じて少しだけシワがよるくらいには力を入れていた。


 全部全部、神様が私達のことを見ているのと同じように、何もかもが高速で処理されていく。


 ……うん。そっか。だったら多分。


 次の言葉は。


「お父さん。『おばあちゃんには愛哩はちゃんと心がわかる子だって説得するよ』って、今もおばあちゃんを怖がってるのに本当に出来るの?」

「……!」


 今まで見たことのない表情。だけどもう全部わかるよ。


「怖がりなんだよね? 今も何でか私を怖がってるでしょ? んふふ、『何で考えてることが全部……』って、家族なんだから当たり前でしょ? お父さんとお母さんが心をわかる子に育てようとしてたんじゃん」


 様子が変わった私にお母さんは抱きしめるのをやめ、一歩後ずさりする。お父さんの袖を掴むのはやっぱり何か怖がってるからだろうね。


 私は小さく首を傾げていると、公園の奥から見慣れた人がずんずんとこっちに歩いてくるのが見えた。言わずもがな、おばあちゃんだった。


 私の前に立つと、思いっきり振りかぶって頬をピシャリと叩く。


「愛哩!!! 何でアンタは私達を心配させるの!!!」


 これは私じゃなくても、家族じゃなくてもわかるよね。怒ってるや。


 いつもはこうされると私が泣いて、そこから長いお説教が始まる。


 だけどその日、涙は一切浮かばなかった。それどころか真っ直ぐ見つめる私の目におばあちゃんは一瞬たじろいだ。


「『何で泣かないの』って、そんなの私もよく分からないよ。『いつもならここで泣き出すのに』って、泣かせることが目的だったの? でも私、今おばあちゃんが考えてることならわかるよ。『考えてることが全部……』でしょ?」


 じり、と砂利のなる音がした。誰が後ずさりをしたんだろう。でも今はそんなことどうでも良い。


 ただ一つだけ、言いたいことがある。


「ねえ、私はこれでも人の心がわからない子かな?」

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