第4話
『雀蜂』は身を縮こませた。
少し肌寒い。
薄地の掛布がめくれているのだろうと手を伸ばす。
届かない。
薄く目を開ける。
暗い。
しばらくして目が慣れてくると、隣に人影が浮き上がってくる。
上半身を起こした『名無し』だ。
存外白い『名無し』の素肌が程よい闇に良く映えた。
『雀蜂』は寝たふりをしたまま様子を伺う。
『名無し』は少し背中を丸めてしばらく前を向いていたが、程なく向こう側に顔を向ける。
それから今度はこちら側に顔を向けた。
『雀蜂』は薄く開けた目から『名無し』の顔を見る。
伸びて絡まった赤茶色の髪は、ベッドに寝かせる前に梳きはしたが、途中で断念した。
目は二重でまつげも長い。ただ目の下に隈が出来ていた。
そして今は開いた双眸が、闇の中で薄い光を宿していた。
その薄い光が揺れながら『雀蜂』を見る。
次第にその揺れが小さくなり、薄い光が大きく見開かれる。
そしてその光は『雀蜂』から背けられ、『名無し』は自身の身体を見る。
『名無し』は裸だ。
そして『雀蜂』も。
「くふ」
『雀蜂』の口から小さく息が漏れた。
『名無し』は『雀蜂』へと顔を向け、そしてすぐに背け、立ち上がろうとするところを『雀蜂』の手が静かに留めた。
「どこにいくの?」
「すまない」
『雀蜂』の問いに『名無し』は小さく答えると、再び立ち上がろうとする。やはり『雀蜂』が留めた。
「なんで謝るの? あなたは何も悪いことなんかしてないわ」
「……酔って迷惑をかけた」
「そんなのぜんぜん迷惑でも何でもないわよ」
『雀蜂』も上半身を起こす。
『名無し』はさらに顔を反らす。
『雀蜂』は小さく呻きを上げた反対側に寝る『薬屋』のめくれた掛布を静かにかけ直した。
「考えてみればここ数日満足な食事もできなかったんでしょうし、戦った後で疲れもあったでしょうし、お酒が弱いのは、別に悪いことでも恥じることでもないと思うし」
そこまで言ってから『雀蜂』は露になった上半身を隠しもせず、『名無し』に向き直ると背筋を伸ばした。
「そんなことより、名乗ってもいなかったわね。あたしは『雀蜂』。こっちで寝てるのは弟の『薬屋』」
そういってから『雀蜂』は、背を向けたままの『名無し』を真直ぐに見た。
「あなたが来てくれなかったら、あたしたち姉弟は間違いなく死んでたわ。本当にありがとう」
「いや……」
『名無し』は『雀蜂』に背を迎えたまま小さく応える。
「討伐隊が戻ったおかげで会館の部屋がいっぱいで、あたしたちの部屋に連れ込んじゃったけど、ひょっとして嫌だったかしら?」
「そんなことはない」
『名無し』は『雀蜂』に身体を向けようとして、途中で止めた。
『雀蜂』の顔が小さく綻ぶ。
「ただ……なんで裸なんだ?」
「服も体も随分汚れてたから、勝手に拭かせてもらったのよ。マントは洗っちゃったし。余計なお世話と言われればその通りね」
「いや……すまない」
「だから……」
謝る必要はない、そう言いかけて『雀蜂』は言葉を止めた。そして引き止めていた手に少し力を入れてから、優しく離した。
それから掛布を引き寄せると身体を横たえる。
「とにかく起きるにはまだ早いし、今日は寝坊する予定なのよ。いろいろなことはとりあえず置いておいて、寝直しましょ」
そういうと『雀蜂』はゆっくりと瞼を閉じた。
『名無し』は掛布の中に潜り込んだ『雀蜂』をしばし眺めると、自身もゆっくりと身体を横にし、掛布の中に身体を戻した。
朝、『雀蜂』が目を覚ますと『名無し』の姿はすでになかった。
反対側では『薬屋』がまだ寝息を立てている。
鎧戸の隙間から入る光は薄明るく、まだ夜明けそこそこといったところだろう。
『雀蜂』は二度寝をしようかどうか思案する。
と、その目の先に、洗った『名無し』のぼろぼろのマントが干されたままになっているのが見えた。
『雀蜂』は『薬屋』を起こさないように静かにベッドから降りると、衣服を身に着け部屋を後にする。
階段を下りて広間に出ると、テーブルに着く人影はまばらだ。
討伐隊が帰ってきたのが昨日なので、まだ休んでいる面々が多いのだろう。
カウンターを磨いていた長が『雀蜂』に気がつき、軽く片手を上げる。
『雀蜂』もそれにこたえると、階段をさらに一つ降り始めた。
階段の先は広い部屋。
ところどころに照明器具が掲げられ、少し煤のにおいがするが、空気はさほど淀んでいない。
部屋の中には木製の的や麦わらをまいた丸太、一段高くなった石組の競技台。
そこは会館の地下に造られた訓練場だった。
その訓練場の隅、丸太の前に構える『名無し』の姿を『雀蜂』は見つけると、気取られないように遠くからその動きを見る。
『名無し』はサイクロプスに対峙した時と同様の甲冑姿で丸太の前に立つ。
脚は肩幅に軽く開き、両腕も緩く胸のあたりまで持ち上げている。ただ胴体は傾けず、丸太に対し真直ぐ正対の形をとる。
まずは左腕を、上からの攻撃を受け止める形に構えると素早く引いて丸太に正拳を打つ。
次に左腕を横からの攻撃を受け止めるように胴の脇に寄せて構えると、再び引いて丸太に正拳を打つ。
次は右腕を脇に構えて打つ。
次は左腕を上に構えて打つ。
構えて打つ。
構えて打つ。
その動きはゆっくりと、ひとつひとつの動作を確かめるように、繰り返し繰り返し行われた。
丸太を打つ音が訓練場に重いリズムを刻みつける。
その音を百まで数えたあたりで『雀蜂』は数えるのをやめた。
音の繰り返しが、百を数えたあたりの五倍ほどの長さになったとき、『名無し』は静かに両腕を下におろした。
「精が出るわね」
『雀蜂』の声に『名無し』は素早く振り返り、その勢いで身体が少し傾いた。
「驚かせちゃったかしら?」
「……いや」
『名無し』は大きく息を吐くと、『雀蜂』の脇を抜けて階段の方へと歩いていく。
「ねぇ」
歩み去ろうとする『名無し』を『雀蜂』が呼び止めた。
振り返る『名無し』。
『雀蜂』は壁際の樽に無造作に立てられた棒の中から、自身の背丈ほどのものを手に取ると、そのまま競技台へと向かう。
「ちょっと手合わせしてみません?」
『雀蜂』は競技台に上がると手にした棒を振る。
先ずは両手を使い円を描くように素早く降るとそれを左右に交差させる。
そして棒を全身を軸にしてに絡めるように振り回すと、最後に突き出すように構えて見せた。
「どう?」
「……いいだろう」
『名無し』はうなずくと競技台へと上がる。
「寸止めよ?」
『雀蜂』の言葉に『名無し』はうなずいてから首を横に振った。
「俺は止める。君は止めなくていい」
「棒だからって甘く見てる? それとも女だから?」
「いや、そうじゃない」
『名無し』は再び首を横に振った。
「俺は避けるのが苦手だ。基本全て受ける。そうなると、そっちで止めているのか、こっちで避けているのか区別がつかない。それだけの話だ」
それじゃ当てても有効打なのかそうじゃないのかわからないじゃない、そう『雀蜂』は思いつつ首を縦に振ってから構えた。
対峙する『名無し』もゆっくりと構える。しかし『名無し』の構えは、構えと呼ぶにはあまりにも不用意だった。
『雀蜂』の構える少し突き出した棒の前に正対する胴。
両手は右手を気持ち前に出し、 左手を気持ち頭の上で横に構える。
肩幅ほどに開いた脚は、左右がそろったまま競技台を踏みしめている。
『雀蜂』にしてみれば、正直訓練場の丸太と何ら変わらない。
普通なら相手の技量を疑うところだが『雀蜂』はサイクロプスと対峙した『名無し』を見ている。
彼には構えなど無用なのだろう。
『雀蜂』は軽く棒を突き入れる。
突きこまれた棒を『名無し』は右手で軽く弾く。
弾かれた棒をそのまま振り下ろす。
振り下ろされた棒を左手で受け止める。
受け止められた棒を素早く引くと、身体を回して反対側の先を突き入れる。
それを右の掌で止める。
つかまれる前に素早く引き戻すと身体を捻って棒を横から打ち込む。
打ち込まれた棒を左腕で受ける。
打ち込むのは『雀蜂』ばかりで『名無し』は受けるばかり。
「そっちは打ってこないの?」
棒を打ち込みながら『雀蜂』が問う。
「君が本気で打ってくれば」
『名無し』はそう答えた。
「じゃあ遠慮なく」
『雀蜂』は素早く身を引いた瞬間、姿勢を低くして踏み込む。
踏み込んだ足が石の競技台に小波を起こす。
突きこんだ棒は『名無し』の身体の中で数少ないむき出しの部分、顎に下から襲い掛かった。
得物は短槍ならざる棒であり、実戦ではない分、多少軽くなった一撃ではあるものの、『雀蜂』が本気で放ったの一撃である。
それはまともに当たれば顎が砕け、致命傷になりうる一撃。
避けるか受けるか、『雀蜂』はその答えを見極めようとしたが、『名無し』の出した答えは想像を超えるというか、想像の外にあった。
結論から言えば受けた。
そのむき出しの顎で。
受けたというよりも、避けなかったという方が正しいだろう。
『雀蜂』の棒は、『名無し』の顎と首の付け根辺りを突き上げる。
『雀蜂』の手に手ごたえが返ってくる。
間違いなく当たっている。
しかしその手ごたえはあまりにも異質で、『雀蜂』にはまともに顎に入れてしまったという焦りを感じる暇もなかった。
まるで鋼鉄の塊に棒を突き立てたかのような感触。
つきこんだ威力そのままが、棒を伝って『雀蜂』自身の腕へと返ってくる。
『雀蜂』は伝わりくる衝撃を受け流すために腕を引く。
それでも力は逃しきれず、やむなく『雀蜂』は棒を握る手を緩める。
手の中で棒が滑る。
しかしそれでも跳ね返った力は逃しきれず、棒が甲高い悲鳴を上げ、『名無し』に当てた先からささらの様にひび割れた。
「くっ」
小さく息を吐き飛び退こうとする『雀蜂』。
しかしその眼前に、すさまじい圧力がのしかかり、その圧が『雀蜂』の動きを絡め捕った。
『雀蜂』の目の前に広がっていたのは『名無し』の掌。
籠手の内側の、使い込まれてはいるが、良く手入れされた滑らかな革肌が『雀蜂』の目の前で止められていた。
あの圧を起こした勢いで、掌でなく鋼の拳で叩きつけられたならば、『雀蜂』の頭は四散していただろう。
「まいった」
『雀蜂』は短くそう告げる。
『名無し』はゆっくりと手を引く。
それに合わせるように『雀蜂』も立ち上がった。
「顎、大丈夫?」
『雀蜂』の言葉に『名無し』は顎に手を当てる。
「ああ」
それから少し首をひねった。
「だが、不意打ちで急所を突かれた。サイクロプスの一撃よりもきつい」
「うふふ、お世辞でもうれしいわ」
『雀蜂』は微笑みながら飛び散った棒のかけらを拾い集める。
『名無し』もそれを手伝うように拾い始めた。
あらかた拾い終わり、棒の残骸を訓練場の隅に集めておいたところで誰かが階段を下りてくる音が響く。
「あ、ここにいた」
「やっと起きてきたわね。よく眠れた?」
「うん」
『薬屋』は階段を駆け下りるとそのまま『名無し』の前に立ち、深々と頭を下げた。
「改めて……助けてくれて、本当にありがとうございます」
「いや……」
『名無し』は短く応える。
『薬屋』は顔を上げると、そのまま『名無し』の顔を凝視した。
「あの……一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「サイクロプスの最後の攻撃。どうやって防いだんですか?」
『薬屋』は単刀直入にそう切り出す。
あまりにも不躾ともとれるその問いは、しかし学者肌の『薬屋』らしい問いともいえた。
それに明るく人懐こい『薬屋』の容姿と性格は、そんな問いも嫌らしく聞こえない。そして、
「あ……いきなり不躾でしたね。すみません」
と、自分で気が付いて頭を下げるのも性格の良さが滲み出していた。
「いや……」
『名無し』は顎に手を当てて少し首をひねる。
それから『薬屋』に目線をむけた。
「いつも通り、こいつで受け止めただけだ」
そういって籠手をはめた両腕をかざす。
「その籠手は特別なものなんですか?」
首をひねって問う『薬屋』に対し、『名無し』は静かに首を横に振った。
「いや……よいものには違いないが、そう特別というわけでもない」
「そうですか」
さらに首をひねる『薬屋』。
「もう、それくらいにしときなさい」
首をひねる『薬屋』の頭を、『雀蜂』が軽くたたく。
「うん。変なこと聞いてごめんなさい」
もう一度頭を下げる『薬屋』。『名無し』は小さくうなずく。
「ごめんなさいね、弟はなんにでも好奇心旺盛で」
「いや、問題ない」
答える『名無し』の口元が少し上向きにゆがんだ。
それを見て『雀蜂』の口元も自然と緩む。
そんな中、低く弱々しい音が小さく鳴り響いた。
反射的に腹を抑える『名無し』。
「あ、そうだった。朝食を誘いに来たんだった」
「そうね。動いたからおなかがすいたわ」
『雀蜂』も頷く。
「あなたも一緒に。そういえば食事はしたの? 大広間で酔って倒れてから何も食べてないんじゃない?」
「……そういえば、そうか」
『名無し』は視線を下し、自分の腹を見る。
「空腹のままこんなに動いたの? 呆れるというかすごいというか」
「今ならまだ朝市が開いてるよ」
『薬屋』の言葉に『雀蜂』と『名無し』は頷いた。
朝市は西門の広場で行われていた。
昨日オークに襲われ、サイクロプスが暴れまわったばかりだが、人の営みの再生は早い。
ましてや辺境を守るこの街で、そんなことで立ち止まるようなことはなかった。
「あの店にしようよ」
そういって『薬屋』が指さしたのは、広場の際にある、あの壊れていた屋台だ。
すでに屋台は直され、痩せた男がせわしなく動いていた。
「三つ頂戴」
「はいよ!」
椅子に座りながら『雀蜂』が告げると、店主が威勢よく返事を返す。
腰から革袋を取り出した『雀蜂』を『名無し』が止めた。
「支払いは俺が」
「奢ってくれるの?」
「いや、昨日もらった金がある」
「あーそう言えばそうね。忘れてたわ」
「残ったのを後で分配する。それでいいか?」
「もちろん」
「わーおいしそう!」
『薬屋』が声を上げる。
木の皿に盛られていたのは何かの肉を焙ったものと野菜の酢漬け。
木の椀には豆の入った濃いスープ。
いずれも湯気が昇り、肉は油の焦げた香ばしい香りが、スープは丸い優しい香りが鼻腔をくすぐる。
『雀蜂』は腰からナイフを取り出すと肉を切り、ナイフに刺して口に運ぶ。他の二人も自分のナイフで食事を始めた。
「おいしい!」
「そうだろう。秘伝のタレがだめになる前に、会館の連中が、オークどもを追っ払ってくれたからな」
嬉しそうに話す店主。
その追い払ったのが目の前にいる三人なのだが、さすがにそこまでは気が付かない。
「あんたらも会館の冒険者だろ? いっぱい食ってくれ!」
そう言いながら店主は三人の皿に、肉を一枚づつ追加していく。
「うわぁありがとう!」
『薬屋』は嬉しそうに肉にかぶりつく。
『名無し』も切った肉を次々と頬張っていく。
『雀蜂』は銀色のスプーンを鞄から取り出すとスープをすくって口へと運ぶ。
「銀食器とは豪勢だね」
「ああ、これ?」
『雀蜂』は手にしたスプーンを見て微笑む。
「こんな仕事していると、何かと便利なの」
「そうかい」
それ以上は何も言わない店主。
三人の食事が終わることになって、木のカップが出る。中身は何かの果汁を絞った水だ。
濃い味付けの料理で少ししつこくなった口の中が、すっきりとなる。
「『雀蜂』というのはあなたですか?」
木のカップを手に談笑を始めた店主と『雀蜂』たちに声をかける人物。
身なりは良く、ただ豪奢というほどでもなく、どうやら役人のようだった。
「『雀蜂』はあたしよ」
向き直る『雀蜂』
役人は『雀蜂』に軽く会釈をした。
「会館の長よりこちらにいると聞いてまいりました」
「ご用件は?」
『雀蜂』の問いに役人は頷く。
「我が主がお召しです。ご同行願います」
「我が主って、領主様かい?」
店主が身を乗り出して声を上げる。
「ってことはひょっとしてオークどもを追っ払った冒険者ってのはあんたたちかい!」
『雀蜂』は笑みを浮かべる。
「そうならそうといってくれれば、飯ぐらい奢ったのに」
「ありがとう」
『雀蜂』はさらに笑みを浮かべる。それから首を横に振って、もう一度笑った。
「でも心配いらないわ。昨日のお代は領主様が払ってくださるでしょうから」
「そりゃそうか。おそらくそのためのお召しだもんな」
そう言って店主も笑う。
「じゃあお代をもらったらまた来てくれよ。もっといい肉を仕入れて待ってるからな!」
店主の言葉に『雀蜂』と『薬屋』は笑い声をあげ、『名無し』も頷く。
そして役人に連れられ、店主に手を振りながら屋台を後にした。
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