【2】 絶望するにはまだ早い 3
パドルを構える紗奈と対峙して、吹き荒れる風の中で、黒いケープコートの少年が立っている。
めずらしくストールも眼鏡もない。眼鏡がないとあどけなさが増して、別人みたいだ。
顎を上げてこちらを見た。
「いたね」
――マジで、来やがった。
こいつ、よりによってこいつが、この島に。
「ここがお前の住処か。いい暮らししてるんだなあ。こんなご時世にさ」
こんなご時世なんて。お前らのせいじゃないか。頭に血が上って、言葉が出ない。その間に、奴はのんきに話し続ける。
「能古島、昔からいいところだよねえ。街が目の前なのに、自然がいっぱいあって、花もきれいで。崩壊前に家族でハイキングコースを歩いたなあ」
その後ろで、火がどんどん広がっていく。島が焼かれていく。この雨が、少しでも消し止めてくれればいいけど。おっさんたちの怒号が聞こえる。
めちゃくちゃだ。きれいな花の島が。光に満ちたこの島が。
「てめえら、マジで、ぶっ殺してやる」
俺は腰の包丁を抜いて、腹の底から声を出す。少年は弾けたように笑った。
「怒ってるのか。お前らにそんな資格あるか」
「うるせえ」
「こらえ性のない大人たちが世界をこんなにしちまって、俺たちの未来がなくなって、ゲームが現実みたいになった。核戦争後の
俺からしたら、崩壊前に生まれた奴らはみんな同じだ。
世の中を滅茶苦茶にしたのは。
「俺が吸血鬼になったのは、パンデミックの最初の頃だ。人間たちは俺たちを容赦なく引きずり出して、閉じ込めたり殺したりした。俺たちは狩られる側で、ずっと逃げ回ってた。ずっとずっと、いつか逆転してやるって思ってた。だから今が楽しくて仕方ない。俺は狩る側にまわったんだ」
自業自得だ。
叩きつけられた言葉は、間違っちゃいない。
だけどそれは。
「俺が生まれる前の話だ。俺たちに押し付けるな」
「関係ないね。こんな娯楽、他にない」
撥水性だとかいうコートもずぶ濡れにして、少年は楽しそうに笑う。
「全部ぶち壊して、お前たちみんな引っ張ってって、閉じ込めて飼ってやる。ギリギリ死なないところで生かして、血だけ搾り取る家畜にしてやる」
食事のたびに狩るのは効率が悪いといつ気づいたのか。
少数派だった吸血鬼たちと、奴らを追い詰めていた人間たちの立場が逆転しだしたころか。
杏樹や史仁のようなグループに囲われたら、まだマシだろう。気にくわないが。
こいつらに連れて行かれたら、ただただ死ぬまで血を抜き取られておしまいだ。
――奴の言う通り、大人たちは初手を間違えたんだろう。ほんとうは、最初から奴らを恐がったりせず、与えればよかったのかもしれない。
血がなければ生きられないのなら、与えてやれば良かったのかもしれない。
怯えて殺して排除しようとしないで。きちんと向き合えば良かった。
だけどもう今更だ。
――それに、俺は許せない。
奴らが俺たちを許せないのと同じで。もう許すことなんてできない。
銃声が響いて、奴の肩を撃ち抜いた。
リボルバー式の拳銃を両手で構えた西見さんがいた。
「残念」
奴は血を垂らしながら、あどけなく笑う。
――だめだ、せめて頭をふっ飛ばさないと。
西見さんの腕で外したわけがない。元警察官の西見さんは、母さんと同じで、吸血鬼を人間と見てるところがあった。
殺せないのか。
俺はとにかく駆けだした。奴が大きく踏み出す。
銃の撃鉄を起こす音と、奴の爪が西見さんの喉を斬り裂くのが同時だった。
西見さんが血を吹きださせてのけぞる。
その奴の背後で紗奈がパドルを振りかぶる。力いっぱい奴の頭をぶちのめした。いつか、あいつの姉にしたように。
奴はくるりと回って振り返る。傷の増えた頭から血があふれて落ちる。
黒いコートの裾がひるがえって、裏地のチェック柄が見える。
西見さんの喉を切り裂いた手が、紗奈の胸を貫いていた。紗奈の口から血があふれ出す。
ゾッとした。心臓が鷲掴みにされたみたいだった。
――いや、大丈夫だ。あいつは吸血鬼だから。
今まで何度も傷を負って平気だったじゃないか。目の前の奴を見ろ、あんなになっても死んでない。
必要以上に動転する自分に言い聞かせながら、俺は西見さんのそばに落ちた銃を拾い上げる。
撃鉄はもう起こしてある。
奴の心臓を狙って引き金を引いた。銃声と共に腕が跳ねあがる。奴の胸の真ん中を貫いた。
これじゃダメだ。俺は続けて撃鉄を起こす。
だが、奴のほうが早い。奴の手が伸びてきて、俺の肩を掴んだ。俺の胸くらいしか背丈のない少年の顔がぐいと近寄ってくる。
――噛む気だ。
まずい。振りほどきたいが、力が強い。
急に俺の前に腕が付きだされて、奴の牙は、その細い腕に噛みついた。
赤いチェックのポンチョから出た細腕。
「何やってんだ!」
俺が怒鳴るのと、奴がしかめっ面で口を離すのは同時だった。
「かばうのもいい加減にしろよ!」
「あたしはもう遅い、あんたはまだ大丈夫だから」
口から血を零しながら、紗奈は淡々と言う。そして反対の手で握ったパドルを振り回し、奴を弾き飛ばした。
俺は棒立ちになっている紗奈の手を引っ張りながら、ヒップバッグからペットボトルを取り出した。
亨悟に渡したのと同じものだ。後ずさりながらペットボトルを投げつける。
金属の粉が詰まったペットボトルは、よろけた体を起こした奴の頭に、重い音をたててぶつかった。その足元に落ちる。
「悪あがきか」
奴は半笑いで吐き捨てる。全然ダメージなんか与えてない。だが俺は叫んだ。
「みんな逃げろ!」
俺はブルゾンのポケットから信号紅炎を取り出した。
おっさんたちが戸惑い、吸血鬼どもが振り返る。船舶用の発煙筒。キャップを擦って着火する。真っ赤な炎が吹き上げた。
奴に投げつけるが、ずぶ濡れの服の胸にあたって、また足元に落ちた。奴は炎に赤く彩られた白い頬をゆがめて笑う。
何も起きない。
俺は踵を返して、紗奈の腕を引いて逃げ出した。奴は薄く笑いながら、俺を追おうとした。
「こんなもの――」
ペットボトルが燃えて溶けて、中味が漏れ出す。
炎が柱になって噴き出した。
「伏せろ!」
俺は叫んで、紗奈を押し倒すようにして、地面に突っ伏した。
――おあつらえ向きに、雨だ。
そして奴の服は、ぐっしょりと濡れている。
お手製のテルミット爆弾は、水に反応して、水蒸気爆発を起こした。
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