【3】 闇は嗤い哭く 5

 杏樹の悲鳴が響き渡る。博登ひろとの笑い声がそれにかぶさってくる。


「史仁をとってやった!」

 少年は高笑いしながら叫んだ。

「お前の大事なものをとってやった! これでちょっとは僕の気持ちも分かるだろ」


 ――好きにしろ。杏樹に向けてあの少年は言った。

 それはつまり、自分も好きにする、ということか。


「ふざっけんな!」

 杏樹は喚叫おめきさけぶ。


「あんたに教えてもらわなくたって、知ってるわよ! どれだけ失ってきたと思ってるのよ!」

 至近距離で杏樹が弓を引き絞る。放たれた矢を、博登は後ろ向きにエスカレーター手すりに飛び乗り、避けた。

 榛真が包丁を手に突進する。博登はそれもひょいと避け、榛真を蹴飛ばした。榛真は声もなく後ろに吹き飛ぶ。


「ひどいなあ。ぼくの顔を見ると、いっつもお前はそうだ」

 エスカレーターの上に軽やかに着地する。

「俺たちは、怪物じゃないのになあ。ねえ、杏樹」


 少年は大げさに腕を広げる。

 ――たくさんの命を奪っておいて

 こんな風に。

 あんなに、楽しげに。


 感染して吸血鬼になると、以前よりも性格が攻撃的になると言われていた。

 博登のあの残酷さが、彼のものなのか、吸血鬼のものなのか、あたしも抱えるものなのか、分からなかった。

 それがまた、ひどく恐い。

 駆けつけなきゃと思うのに、足が動かなかった。


「黙れ、あんたと一緒にするな」

 杏樹は低く抑えた声で唸る。倒れた史仁の側に駆け寄って、その前に立ちはだかる。


「そんなに邪険にしなくていいじゃないか」

 あははは、とまた笑い声が響き渡った。

 そして少年は、軽い足取りで榛真の側へ近寄った。うめく榛真に顔を近づけて、にんまりと、目を三日月のようにしてわらう。


「ねえ、お前の家に招待してほしいなあ」

「はあ?」

 榛真が声を上げる。


「西の方、お前の父親を殺した姪浜めいのはまのあたりだろ。ずっと少しずつ調べてたんだよ。知ってた? 気づかなかったかなあ。能古島のこのしま。いいところだよねえ。子供の頃に、家族で行ったことがある」

「……いい加減なこと言いやがって」

 榛真の声が、動揺に揺れた。嘘のつけない奴だ。


 またひときわ、少年の笑い声が高く上がった。

「どっちでもいいや。お前たち、潮時だよ」

 少年は楽しそうに笑っている。またふわりと飛んで、エスカレーターの上に戻った。地下へ続く道へ。


「待て、ふざけんな、逃げるな!」

 胸を押さえながら榛真が起き上がる。後ろ向きに闇の中へ下がっていく博登の方へ突進した。


「榛真、追うな!」

 あたしは思わず叫んでいた。


 榛真はエスカレーターの前で踏みとどまる。ギリギリと歯を噛みしめる音が聞こえそうなほど、悔しげにエスカレーターの先を睨みつける。


 この下は闇。

 地下鉄へ続く階段の先には、明かりは一つもない。吸血鬼達の住処だ。




「史仁、史仁!」

 杏樹は血だまりの横に膝をついて叫んでいた。

 杏樹自身も出血している。もう傷が塞がっていたとしても、その血のついた手で触ると感染する可能性がある。

 史仁に近づくことも出来ずに、歯がみした。


「許さない、許さない。あいつ絶対許さない」

 ただ唸るように唱える。

 あたしも立ち尽くしたまま、動けなかった。心臓がざわめいて、息が苦しい。

 まるで、噛まれた時のあたしと紘平の姿を、後から見せつけられているようで。


「杏樹。――杏樹」

 なだめるように、史仁はそっと杏樹を呼ぶ。杏樹はその吐息のような声を聞こうと身を乗り出した。

 史仁はゆっくりと手を上げる。


「噛まれてない」

 防具をはめた腕。傷はついているけど、穴はあいていない。血も出ていない。

 ――だけど。


「史仁」

 杏樹は泣きながら手を握ろうとして、やめた。――触れない。


「飲め」

 どくどくと流れる血だまりの中で、史仁は、まっすぐに杏樹を見上げて言った。杏樹は震えていた。

「だめよ、史仁」

「このままだと、どっちにしろ死ぬ。俺の血の一滴も無駄にするな」


 冷静に言いつのる。少女はボロボロと涙を流しながら、震えていた。駄々をこねるように首を横に振る。


 杏樹が噛みつけば、もしかしたら史仁は吸血鬼になって生き延びるかも知れない。何より、血の誘惑が思考を覆い尽くしているはずだ。だけど強情に杏樹は首を振る。

 ふと少年の目が和む。


「飲んで、杏樹。吸血鬼になるなら、それでいい。杏樹と同じになるだけだ」

「ばかね。あんた、あたしが、どれだけ吸血鬼を嫌いなのか分かってて言ってるでしょ」

「でも俺は、杏樹があのとき、死ななくてよかった。俺も死にたくない。まだ杏樹と一緒にいたい。死んでも、杏樹の命になるならそれでいい」

「嫌よ、そんなの」

 杏樹は泣きながら、史仁に言いつのる。


「わたし、全然生きていたくなんかなかった。こんな世界で、こんな体になってまで、生きていたくなんかなかったわ。でも、史仁がいるから、我慢してた。史仁がいないんだったら、どうだっていい。生きていたくない。人間も吸血鬼も滅びるんだったら滅びたらいいのよ!」

 悲痛な叫び声が、ロビーに響き渡った。


 だん、と大きな音がその上に重なる。

 博登を追うのを諦めた榛真が、イラだちまぎれに足を踏みならした。


「バカじゃねーのか、お前ら! 悲劇気取ってんなよ!」

 戻ってきた榛真が、憤慨して叫ぶ。

「なに油断してんだ、いつも全然隙なんか見せねーくせに」

 榛真はリュックからタオルを取り出すと、史仁の傷口に押し当てる。あっという間に真っ赤に染まった。


「止血もしねーで、バカじゃねーのか!」

 杏樹もあたしも史仁には触れなかった。人間の榛真をのぞいては。

 それを分かっているのかいないのか――わかってるんだろうけど、榛真は悪態をつきながら傷口を押さえ続ける。


「誰が手当できる奴はいないのか。ここ病院だろ」

「お医者先生と看護士が」

「さっさと連れてこい!」

 誰かが駆けていく音がした。まわりにいた吸血鬼のひとりかもしれない。


 薄く、弱々しく、笑い声が下から聞こえる。

「お前に借りが出来るとはな」

「生き延びてから言え。お前なんかくそみたいに嫌いだけどな!」

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