Bout.2:ルルボデから来た獣(前篇)
儚子の自宅は市内西方にあった。通う高校はその正反対、真東に位置した為、列車を使って二〇分程を要した。
基本的に彼女は一人で登下校を完結する。道中で起こった出来事を誰かに語る機会も、笑い合う事も無かった。起きた全ては少女の胸の内で保存されるだけだった。
夕間暮れ時、自宅近くの公園を通り掛かった儚子は、薄汚れた小さな段ボールを見付けた。普段なら「不法投棄されたゴミだろう」と素通りする彼女も、その日は時間に余裕があった為に段ボールへ歩み寄った。
「……」
何者かに捨て置かれた子猫が「ミィ」、とか細く鳴いた。段ボールから逃げ出そうと身体を伸ばすも、空腹から力が入らないのか、埃まみれの子猫は幾度も後方に倒れ込んだ。
儚子は猫が好きだった。幼い頃に飼っていた猫を思い返しては、今でもその温みと日光をタップリ浴びた独特の匂いが蘇った。今は亡き愛猫と、目の前でグルグルと四角に回る子猫が重なった。
殆ど迷う事無く、儚子は子猫を連れて帰ると決めた。両親も揃って猫好きで、娘以上に亡き愛猫の思い出を引き摺っていた。ペットとの死別で開いた心の穴は、同じペットでしか埋まらない……テレビで見知った言葉を少女は思い返した。
無責任な飼い主が行った唯一の善行――恐らくは母猫の匂いが着いたタオルケット――で子猫を包み、立ち上がろうとした瞬間。
儚子は瑠璃のような瞳を一杯に見開き、子猫を真上に放り投げ、地面にへばり付くような体勢を取った。同時に、背の高い生け垣から人型の影が飛び出し、子猫と儚子の中間を過ぎ去った。
「チィッ! 損なった!」
スカートのはためきも構わずに儚子が跳ね、子猫を優しく抱き留める。俄に飛び出して来た影の正体を睨め付けた。
「へへ……へへへ……こんにちはぁ……」
少女――に近しい姿であった。それはぼろ切れのような灰色のワンピースを纏い、両手足には鎖を一〇センチメートル程ぶら下げている。身体中に傷が目立ち、頭部には巨大な獣の耳、臀部からは箒のような尾が生えていた。
「あ、アタシ……名乗る名前ぇ……無くってぇ……へへへ」
血走った目は妙に気怠げで、荒い息遣いは尋常ならざる事情を思わせた。少女然とした獣は「へへ」と笑いながら儚子に歩み寄る。同時に儚子も間合を取ったが――。
「あ、アンタ……キドウハカナコ、ってんですよねぇ……いや分かります……へへへ。アタシ、これなもんでぇ……」
両手を顔の辺りで振った獣。ジャラジャラと重たげな音が鳴った。
「ほんと、本当に……いきなりなんですけどぉ……へへへ、アンタの、そのぉ……一部が欲しいんですよぉ……」
儚子は表情一つも変えない。胸に抱いた子猫の微かな温みが心地良かった。
「いやほんと、一部で大丈夫みたいでぇ……あの、手とか、足、とか。乳房でも良いみたいです、へへへ……」
獣は両の手、足、それから胸部と少女の身体を値踏みするように見やった。一方の儚子は子猫を生け垣の下にソッと置いた、瞬間――。
「へへっ」
軽やかに横っ跳びをし、襲い掛かって来た獣の両腕を真正面から掴んだ。即時に獣が両足を折り曲げ、勢い良く儚子の上半身を蹴り飛ばす。
「獲ったぁー……あ?」
五メートル程後方へ引き摺られるようにして滑った儚子。ローファーから濛々と砂埃が上がった。獣の飛び蹴りを辛うじて受け止めた彼女は、鈍い痛みの残る腕を冷たい目で見つめ……。
「もう来たっ」
一瞬、獣の方に倒れ込むかの如く力を抜いた儚子の身体は、タンと軽やかな音と共に――獣の間合へ入り込んだ。獣は舌舐めずりをすると、間も無く儚子が腰を落とし、左足で獣の右足を刈ろうとした。
「甘いなぁっ」
俄に獣が蹲踞の体勢を取り、右半身で儚子の蹴りを受け止めた。よろめきつつも獣の右腕は足に絡み付き、儚子の動きを殺す事に成功した。間を置かずに獣の左足が跳ね、儚子の股間へ向けて放たれた。
「っしゃあぁ!」
一般に股間への攻撃は男性の鎮圧に有効とされているが、睾丸――所謂金的の無い女性にも強烈な痛撃を与える事が可能である。また股間は恥骨や膀胱に極めて近く、男女共に行動不能へ陥る急所だった。
行動を起こせなくなるという事態は、格闘技を学び修める者にとって最も恐ろしく、忌避すべき結末である。一子相伝、門外不出の貴堂異闘流戦闘術を骨身に染み込ませた儚子は、しなやかな身体のバネを使って腰を浮かせ……。
「いっ…………!?」
残った右足、その爪先を獣のこめかみに叩き込んだのである。痛みと失われた平衡感覚が獣の膂力を衰えさせ、儚子は恐るべき包囲から脱出出来た。コンマ数秒遅れていれば、今頃は手足のどちらか、或いは両方を捥がれているに違い無かった。
「あぁー……あぁー……」
ヘラヘラと笑う獣。氷のような視線を向けて来る儚子に――。
「アンタ、すげぇですね……へへへ。たかが人間の蹴りと思って調子こいていたら……こんなに痛いんだものぉな……」
コレで行くっきゃないなぁ……獣は首をグルリと回した。ゴキリと嫌な音が鳴った。それから両手を地面にベタリと付けると、更に息遣いを荒くした。
「ふっ、ふっ、ふっ……アタシ、駄目なんです、コレを使うと……凄く、嫌な生き物になってしまうんで……」
四足獣――儚子の脳裏に、そんな言葉が過る。加えて……。
震えてしまう程の歓喜が、少女の心中に訪れた。
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