Bout.1:ファルディア・タルガリン
「見付けたわ、キドウハカナコ」
下校中の少女を呼び止めたのは、よく澄んだ聞き慣れない声だった。俄に少女――貴堂儚子が振り返ると、腕を組んで此方を見据える少女が立っていた。
「事情は分かっているかしら」
白い肌が初夏の江幌市に浮き立つようだった。少女の纏う服、そこに刺繍された紋様の出自が分からぬ儚子だが……。
少なくとも「同じ国」に住まう者では無い事、これだけは確かだった。
流暢な日本語はその分、彼女の異質な外見と大きく乖離し、妙な迫力を醸し出している。薄黄色の長髪を手で薙ぎ、大きな緑眼を煌めかせる少女はズイと儚子に歩み寄る。
「その様子だと、貴女は何も分かっていないみたいね?」
儚子は黙したまま、しかし目線を少女の下半身――爪先に落とす。
無害か有害か……それが判明しない他人と「必ず取って置きたい間合」が、儚子の中には存在する。少女は二歩も歩けば、彼女の絶対防衛領域に侵入する事となる。
「……何で後ろに行くのよ」
少女は訝しむように言った。自身が危険を冒している事も知らず、また儚子が「気を遣っている」事も分からずの発言だ。
一定の距離を保つ。貴堂儚子なりの礼儀であった。
「何も訊いてこないのね。何処から来た、とか……何しに来た、とか……」
「貴女、喋るの苦手そうだし。私から教えてあげるわ」少女は自信ありげな様子で、「出自」を語り始めた。
「私はね、この国、いいえ……この世界では無い、異なる世界から遙々やって来たの。キドウハカナコ、貴女に会う為にね」
眉一つ動かさない儚子。目線は爪先から腰部に移る。刀剣類の装着は無かった。
「私はファルディア・タルガリン。栄誉あるゼシア王国国防軍、前線歩兵部隊『グディオス』の戦士! キドウハカナコ、私は貴女に――」
素手の闘争を申し込むわ!
少女――ファルディアは不敵に笑い、儚子の顔面を指差した。
「禁じ手一切無し、時間制限も無し、場所の指定これも無し! どちらかが闘争不能となるまで、思う存分――闘いましょう!」
貴堂儚子は表情こそ変えなかったものの……その実、泣き出しそうな程の「感動」が全身を包み込んでいた。
良いのかしら? 本当に闘って良いのかしら? 思う存分、彼女の言う通り――持てる全てをぶつけても良いのかしら――?
毛細血管の一筋に至るまで、彼女の煮え立つような「闘争欲」が充填される。ニューロンは「早く闘え」と騒ぎ立て、辛うじて残っていた理性の首を――。
全く躊躇いも無く、掻き斬ったのである。
「どうしたの?」ファルディアは嘲るように言った。
「もしかして……怖いのかしら? 誇り高きグディオスでの練習試合は、いつも『何でもあり』だけど……」
貴女は、やった事が無いのね? 溜息を吐いたファルディア。
「それじゃあ困るわ、王属魔術師に大金を払ってこの世界に来たのに……。何たってキドウ家に伝わる闘争術は、私達の――」
刹那。
向けられたままの左人差し指を、儚子はソッと右手で握る。キョトンとしたファルディアにも構わず、続いて左手を……彼女の左手首に添えた。滑らかな肌はそのまま、雨粒すらも弾き返すようだった。
「えっ……?」
一秒後。
太い枝を折るような音が、ファルディアの左人差し指から鳴った。儚子を指していたはずの指が、しかし今では彼女自身を「指している」。
痛い――こう叫ぶ事が出来る場合、意外にも肉体的ダメージは軽いのだ。痛いと考え、発声し、他人に自身の苦痛を伝えるという行為は、三つのプロセスを難なくこなす必要がある。
逆に……肉体的ダメージが「重い」時、このプロセスは過程を失い、例えば単独に発露するなど、滅茶苦茶なものになる。ファルディアの場合、「叫声」を上げるのみ。他人に苦痛を伝えない、自己満足の発声を選んだ。
ファルディアは「ギャア」と叫ぶべく、口を大きく開けた。その瞬間……。
儚子は左手を熊手の形に作り変えると、思い切りに腰を捻り、ファルディアの右頬を打ち飛ばした。
ファルディアは軍人である。日々を仮想敵との戦闘訓練に注ぎ込み、可憐な顔に汗を滴らせて来た。事実、男性の同僚と試合を行っても、彼女が敗北する事は無かった。
当然だった。
同僚達は……彼女を「女性」として見ていた。
ゼシア王国に暮らす男達は、幼い頃に親から一つの決まりを教わる。
『汝、女性に手を下す事無かれ』
ゼシア王国は軍備拡張や領土拡大に意欲的だった、「勇猛の季節」があった。しかしながら……侵攻軍は非戦闘員、特に女子供へは手を出さず、いつしか彼らは「剣を持った紳士」と呼ばれたのだ。
その勇猛な紳士の中に……ファルディアはいた。彼女の父親は国防軍の上官であった。父親は娘を「男よりも強く」しようと考え、幼女の頃から鍛錬を施した。反対する部下の意見も聞かず、彼は愛娘を戦女神へと転化させようとした。
結果、ファルディアは特別に国防軍の前線歩兵部隊へ入隊、紳士達と技を磨くにつれ、男よりも強くなった――と思い込んだのである。
アスファルトに顔面を直撃させ、薄れる意識の中で彼女は思った。
あぁ、私は強かったのではない。
強いのだ、と――思い込んでいた……と。
何かが歩み寄って来る音がした。追撃をせんとする儚子であった。しかしファルディアも少女とはいえ、れっきとした軍人である。
「……っ、うぅ……」
ヨロヨロとその場に立ち上がり、「グディオス」部隊に入隊した者が必ず学ぶ構え――グディオスの構えを取った。
グディオスとは、彼女の暮らす世界に生息する獰猛な蛇の名前である。
この蛇は身体が千切れても襲って来るという言い伝えがあり、不屈さにあやかり国防軍の要となる部隊の名としたのだ。
姿勢を低く、片手を顔の前、もう片方を心臓の前に……習い憶えた構えが、ファルディアの闘志を再び滾らせる。
儚子は奇妙な構えを認め、しかし歩速は緩めず一直線に向かって行く。やがてファルディアが右拳を放った。
顔面に当たる寸前のところで……儚子は拳を躱し、そのままファルディアに抱き着いた。
「あっ……」
細い首筋に唇を当てた儚子。そのまま口を開き――。
思い切りに噛み付いた。
「げっ、げっ」
気道を塞がれ、また食い込む歯の痛みにパニックとなったファルディアは、技術も何も無く、唯々、儚子を突き放そうとした。
「ごっ、ごめ……ごめ……」
赦しを乞いたくも発声が出来ない。その内にファルディアの股へ儚子の左手が滑り込み、右手は背中へと伸びていく。
果たして儚子は噛み付きを止めた。血滴の滲んだ首筋にも構わず、一度腰を落とし、ファルディアを持ち上げてそのまま右に腰を捻る。少女の身体は「裏投げ」のような形で地面に叩き付けられ、二度と動く事は無かった。
静かになった「異世界人」を見下ろす儚子。やがて少女の身体は淡雪のような光に包まれ……一〇秒も経てばすっかりと消えてしまった。
少女は目を閉じ、両手を合わせて「祈祷」した。
願わくは、このような僥倖を二度三度、幾度も我に与え給う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます