第4話異端審問官の事情
ジャレット・カヌレ神父は神を信じている。
客観的に見て、当然と言えば当然だ。
彼はそういうものとして育てられた――幼い頃に教会に引き取られた彼を、周囲は出来る限りの優しさと限られた資金、手垢のついた聖典で育てた。
それ以外には与えなかった。だから、それになると解っていた。
しかしながら。主観的に見て、それは意外な結果だった。
ジャレットの原初の記憶は、両親の死だ。
記録では、それは今から十五年前、六歳の時の出来事だ。六歳、詰まりその男と女のもとで六年間過ごした筈だが、その辺りの記憶は曖昧どころか完全な虚無だった。
【闇に名を付けてはならない】――しかし、空想上の友達に名前を付けない子供がいるだろうか?
ブラックボックスはジャレットにとって、悲劇で終わる六年間を引き受けてくれた親友だった。そしてだからこそ、虚無を虚無のままでは終わらせられなかったのだ。
教会の親切な親戚方は、ジャレットの友人に気付かなかった。BBは控えめな性格だったし、ジャレットは友人の希望を尊重するタイプだったのだ。
それでもいつか、大人たちに聞かれるだろうと幼いジャレットは覚悟していたが、結局その機会は訪れなかった。
ジャレットが最初に理解した、大人が運用する社会のルールというやつは、【優等生の事情は気にされない】だった。大人たちは、ジャレットが一日毎に聖典を一ページ諳じるだけで満足した。彼の内面を諳じろ、と命じる者は居らず、神でさえ沈黙していた。
いや、ただ一人。
聖都で出会った若い司教だけは、彼を見て哀しそうに目を伏せた。
黒髪の彼はこう言った――『君は一人ではないが、孤独だ』。それ以上に的確な表現を、ジャレットは知らなかった。
後に、青年に関する噂を聞いた――早すぎる出世と法王との関係に嫉妬した、神の家に相応しくない俗物のみっともない噂ではあったが、しかしジャレットは納得した。
曰く、彼は神の声が聞こえるのだと。
彼ならば、という思いがあり、彼だけが? という思いがあった。
希望と絶望が同時に彼の心を祝福した。今現在神の声が聞こえないという絶望と、やがて聞こえるかもしれないという希望だ。
だから今日も、ジャレット・カヌレは神を信じている。
だけど今日も、神の声は聞こえない。
強い風に、ジャレットは顔をしかめた。
どうにか上手く、列車の最後尾に侵入できた。全く、遅れた列車に自力で追い付くのは何度も経験したくない出来事だ。
「……情報は、間違いないのでしょうね」
ジャレットは、抱えていた
灰色の髪、白い肌の相棒は赤い瞳を数度明滅させた。「間違いありません、カヌレ神父」
「では、探さなくては」
「ベッドを一つ押さえてあります」
抑揚の利き過ぎた声で、カストラータは報告を続ける。「三等客室ではありますが」
ジャレットは碧眼をぱちぱちと数度、瞬きを繰り返した。
カストラータは、相棒の困惑に気付くだけの目敏さを持っていたようだった。癖の強い髪を三つ編みに束ねた
「申し訳ありません、一等車両と二等車両は満室でした。買収するだけの資金も、我々には割り振られていません」
「そうではなく……」
「では、目標が押さえたのが一等客室だということを問題視していますか?」
それはそれでショックな事実だったが、ジャレットは無理矢理気持ちを切り替えた。「問題は、ベッドが一つということです。我々は二人ですよ?」
カストラータは、端正なまつげを揺らしながら首をかしげた。「私は、睡眠をとる必要がありません」
「…………」
問題は、一つのベッドを予約した二人の男女を周囲がどう思うかだ。
良く言えば、平凡な人々に紛れ込めるだろう。悪く言えば――権限を持った
カストラータは、無表情のままで頷いた。
「ご安心ください、カヌレ神父。私は適当なところ、そうですね、貴方の枕元にでも立っています」
「怖い真似は止めてください!」
「眠らず、じっと、貴方の様子を見下ろしているでしょう」
「貴女解ってやってますよね?」
ジャレットはため息を吐いた。ヒトの手で生み出されたカストラータは、全般的に人間味が少ないが、妙なところでこうした子供のようなことをしでかす。
外見年齢としては十七八歳の彼または彼女たちは、もしかしたら内面もその程度の理性しか持っていないのかもしれない。
とにかくここは、必要最低限の用意は整ったと、思うべきだろう。
ジャレットは客室車両に通じるドアを開く。
「……私は、目標に話を聞いてきます。貴女は――」
「待機しています、カヌレ神父」
カストラータの口が、あり得ないことだが、微かに歪んだように見えた。「先にベッドに行っています」
咳き込むジャレットを残して、カストラータは颯爽と、列車の中に入っていった。
異端審問官であるジャレットが、二分前に発車した魔石機関車に飛び乗る羽目になったのは、本部所属のカストラータに、ある通報があったからだ。
美術館に深夜、泥棒が入ったらしい。
それだけならまあ良くある話だが――問題は、泥棒の道具だ。
彼らは、魔術を使って盗みに入った。
魔術師が絡むとなると、さすがに地元の異端審問官に任せきりというわけにはいかない。
だが、場所が美術館なら聖都の軍を動かすほどではない。
結果として、異端審問官の本部が神父を一人、様子見として派遣することになったのである。
問題は――美術館の館長が、魔術師びいきだったということだろう。
彼は異端審問官への通報よりも、魔術師どもへの通報を優先していた。結果、ジャレットたちは出遅れ、遅れを人力でカバーする羽目になったのである。
「……【マレフィセント】からは、何人派遣されたか報告はありましたか?」
「いいえ。いつも通り黙りです」
「本当に、礼節を知らない連中ですね。他人の庭に、ノックもせずに踏み込むとは」
チケットを片手に席を探すカストラータが、左手で手刀を形作る。「では、礼節を教えますか?」
「……君は物騒ですね」
ジャレットはため息を吐いた。「先ずは話です、何事も、対話することから始まるのですよ」
カストラータは目当ての席を見つけ出すと、粗末なベッドにごろんと、勢い良く寝転がった。「では、お任せします。私は休んでおりますので」
「…………」
「何か? 席に誰か寝ていないと、怪しまれるだろうという高度な戦略的判断ですが、何か?」
「……いいえ、何でもありません」
そうですかと、あっさり目をつむったカストラータを見下ろして、ジャレットは軽く首を振った。
何となくだが、このベッドを自分が使う機会は与えられないような気がした。
「……魔術師は、一等客室でしたね」
狭い三等車両を数台越え、普通車両に移る。
ここから一等客室のある車両までは、三台分の車両を通り抜ける必要がある。
車掌は問題じゃあない。
彼らは黒い
恭しく目礼し、道を開けてくれる車掌たちと乗客とすれ違いながら、ジャレットは誇らしさで胸が一杯になった。
魔術師は金を払ってこの先の車両に座っている。しかし我々神の信徒は、尊敬をもって出迎えられる。
これが信頼というものだ。原因となった身でいうことではないが、世界から次元の狭間に逃げ延びた魔術師にはけして持てなかったもの。
誰にも妨げられることなく、敬愛の中を歩いて、ジャレットは目的の客室にまで辿り着いた。
そして、勢い良くドアを引き開けた。
「……失礼します」
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